19 オーリの真実
夜になり、クラーク様が我が家に駆けつけてくれた。
オーリはクラーク様を見た途端に走り寄り、何か言いながら抱きついてしまった。
クラーク様は困惑の表情で、オーリに抱きつかれたまま両手を横に広げ、ジェフリーと私に救いを求める視線を送ってきた。
私が近寄り「オーリ、抱きつくのは失礼なことなのよ」と言いながらやんわりとオーリを引き離そうとした。
するとオーリはパシッ!と私の腕を強く払い、鋭い目で私を睨む。そこにははっきりと嫌悪の感情が潜んでいた。
(ああ、あの時の視線はあなただったの)と納得した。
「クラーク様から離れなさい。失礼だわ」
今度は少し強い口調で注意する。言葉は通じなくても意味は受け取ったはずだ。
だがオーリは抱きついてすすり泣きしながら、猛烈な早口でクラーク様に何かを訴えている。それを聞いていたクラーク様の眉が顰められ、端正なお顔に嫌悪感が滲み始めた。
やがてクラーク様は両手でオーリの両肩を掴むと強引に彼女を引き離した。驚く顔のオーリに強い口調で何事かを伝えると、ジェフリーに歩み寄った。
「ジェフおじさん、彼女は信用ならない。この家に置いておくのは考え物です。どこかに彼女を移した方がいいと思います」
「どういうことだ? オーリはお前に一体何を言ったんだ?」
「言いたくありません。聞くに耐えないようなことです。彼女は危険ですよ。申し訳ありません。僕はこれで帰ります」
それだけを言うとクラーク様は私とノンナにぺこりと頭を下げて帰ってしまわれた。ノンナが呆然とした顔でそれを見送っている。私はノンナの肩を抱き、家に入るように促した。
だがノンナは私の手を払い、オーリに近寄った。どうやら今夜の私の腕は、払われる運命のようだ。
「オーリ、どうしたの?大丈夫?」
心配そうに話しかけたノンナを見ることもせず、何かをつぶやいてオーリは家に入って行った。
ショックのあまりにか、表情を失ってしまったノンナを慰めながら、私の部屋で話をすることにした。
「ノンナ、どうしたの? 何を言われたの?」
「オーリが小さな声で『大嫌い』って言った。私のことだよね? 私、オーリに何かしちゃったのかな。なんで嫌われちゃったのかな」
ノンナはほとんど泣くことがない子だ。そのノンナがポロポロと涙をこぼしながら声を震わせている。ノンナの頭を撫でながら、私は自分がされた時よりも胸が痛かった。
私は過去、養成所や仕事で紛れ込んだ貴族社会でオーリのような態度を取られたことは何度もある。
自分よりいい成績を取っているから。
自分が狙っている令息と親し気だから。
自分よりちやほやされているから。
私は打たれ強かったし誰よりも努力している自信があったから、嫌がらせや悪口は平気だった。だがノンナは今の今まで、その手の黒い感情を向けられた経験がない。
「あなたは悪くないわ。オーリはノンナが羨ましいんだと思う」
「私もお父さんもお母さんも、オーリを助けたいのに」
「そうね。でもね、オーリがもっとずる賢かったら、あんな態度は取らなかった。まだオーリは子どもっぽいだけマシよ」
ノンナは意味がわからないだろう。
オーリがもっとずる賢く腹黒かったら、私たちに笑顔を向けて利用できることは全部利用しながら、私たちを憎むことだってできた。今のオーリはまだましと言える。
私はノンナの細い身体に腕を回して、金色に輝く髪に頬を寄せた。
「あなたをきれいな世界だけ見せて育てられたらいいのにと思う。でも、もう十二歳だものね。きれいな世界だけではないことをそろそろ知る時期なのよ」
「どういうこと?」
「十二歳になると、貴族の子どもたちだけの集まりに参加しなくてはならないの。ノンナも私も平民出身ということは、いずれ広まる。それを馬鹿にする人が必ずいるでしょう。さっきのオーリなんて可愛いものだと思えるような、性格の悪いご令嬢とも、きっと顔を合わせるわ」
「そんなところに行きたくない」
「行かないのもひとつの方法ね」
「他の方法もあるの?」
「そうね、ざっと数えただけでも三つはあるかな。知りたい?」
ノンナは涙で濡れた顔のまま考え、コクリとうなずいた。
「知りたい。手札は多い方がいいって、お母さんはいつも言うもの」
「ふふ。そうだったわね。まずひとつ目。意地悪されたら顔を覆って、わあっと大声を上げて泣く。相手はあなたに意地悪したことを知られちゃうから慌てるわね。あなたも弱い泣き虫ってことになるけど」
「そんなのやだ。悔しい」
「では二つ目。聞こえなかったことにして完全に無視する。でもこれはお勧めしないわ。相手が図に乗るだけ。敢えてなめられている必要はないわよ。そして三つ目。相手が言ってきたその場で即座に相手が怯むことを言い返す。相手のことを調べて弱点を突くための準備が必要な方法」
「参加者を全部調べておくってことか。お母さんはどうしてたの?」
黒い私を愛しいノンナに知らせるのは気が引けるが、ここは我慢して教えよう。
「養成所ではずっと顔を合わせて生活していたから、たいていは無視してた。どうしてもの時は、体術で黙らせた。お母さんに敵う生徒はいなかったの。男でも女でも」
「ほわぁ」
「貴族相手の場合だったら、お母さんは参加者について事前に調べられるだけの情報を集めて、何か仕掛けられたらすぐその場で相手が怯むような言葉を返していたわ」
「うわぁ。そんなことしてたの?」
「延々と嫌がらせを受けている意味がないでしょ?不愉快な思いをする時間も無駄だし」
「なるほどね。わかった。私もその方法にする」
「でも忘れないで。エバ様やヨラナ様みたいなすてきな女性もたくさんいるの。そんな人たちと仲良くなればいいわ」
「わかった」
さっきまで泣きじゃくっていたノンナの顔に気力が戻った。
「ずっとあなたを守っていてあげたいけれど、そうはいかないものね。いつかあなたは私の手を離れて世の中に出て行く。その時に強く生きてほしい。意地悪や陰口で体調を崩したり家の外に出られなくなったりするようにはなってほしくないのよ」
「私、お母さんとずっと一緒にいたい。それはだめなの?」
ノンナの目に不安が宿る。ぐっと胸が詰まり、鼻の奥がツンとする。
「そうね、私もノンナとずっと一緒にいたいけど、ひな鳥は成長したら必ず巣を離れるものなの。それが親にとっても子にとっても幸せなのよ」
「ふうん。そうなのか」
ノンナと出会ってまだ六年。あまりに濃い時間を共に過ごしてきたせいで、ノンナを自分の一部のように感じるけれど。ノンナにはノンナの人生がある。この子は私とは別の人間なのだ。いつかこの子を手放す日が来る。それもそう遠くないうちに。その日を想像しただけで大泣きしてしまいそうだ。
「私ね、あの日、広場でノンナに声をかけた自分をほめてやりたいといつも思ってる。こんなにいい子で心が美しくて、頑張り屋のノンナと暮らすことができたんですもの」
「うん。私も。お母さんに声をかけてもらってよかった」
「それと、ノンナがいたからジェフとも知り合えたしね」
「お母さん、オーリはなんで私に大嫌いって言ったと思う?」
「本人に聞いてみなくてはわからないわ。でも、もしかすると」
そこで言葉を慎んだ。仮定で人を批判してはいけないと思ったからだ。
だが、私の推測が当たっていれば、私たち全員は、十六歳のオーリに騙されていた可能性があった。
「もしかすると?」
「ううん。なんでもない」
その夜、オーリは我が家から姿を消した。
この国の言葉を話せない十六歳の娘が行き着く場所は、そう多くはない。
ジェフは第二騎士団に捜索を依頼し、私はザハーロさんにオーリの情報を集めてくれるよう頼んだ。きっと裏社会の元締めであるヘクターに話が行っただろう。
だが、なかなか彼女の消息は掴めなかった。
そうなってからクラーク様は、あの時オーリが何を言ったのか、私とジェフリーにだけ教えてくれた。
「彼女はノンナに虐められてると言いました。先生にも掃除や洗濯で寝る暇もないほどこき使われている、と。だから助けてほしい、あなたの家に連れて行ってほしいと」
「あらまあ。ずいぶんお粗末な嘘をついたものですね」
「先生、もしかしてオーリがスバルツで酷い目に遭わされていたという話も」
「残念だけど、こうなるとどこまで本当か怪しい、かしら」
世の中には頑張って頑張って、力尽きて堕ちてしまう人もいるが、堕ちるべくして堕ちていく人間も一定数いる。生まれた時はみんな無垢で真っ白だったであろう心は、どうやって変わっていってしまうのだろう。
その日、ジェフリーはとても私に優しかった。
「心配しなくてもオーリのことなら私は平気よ。こんなこと、覚えていられないほど見聞きしてきたわ」
「そう? ならなぜ君はそんなに悲しい顔をしているんだい?」
「私、そんな顔をしてましたか。好意は同じ分だけ返してもらえるわけじゃないこと、嫌と言うほどわかってるのにね」
ジェフリーはそれ以上は何も言わずに私のそばにいてくれた。ジェフリーにもたれかかりながら(人生は時に苦く、時に甘い。この家から逃げ出したあの子にも、いつか人の気持ちを思いやる日が来て、幸せな日々が訪れますように)と願った。






