8月17日梅雨ちゃん飼育日誌10・不明なキスとさみしい終焉
どういたしましょう? 眠り姫。
十七日……くもり
今日の組手で抜田先生にしつこく投げ技されて。
梅雨ちゃんが屋根から落ちかけた時に作った背中の傷が、ずくずくと痛んでいたのも吹っ飛ぶくらい驚いた。
青い布団の上、カーテンから漏れる薄明りの中。真っ白な髪がフンワリと広がり、俺の枕に半分顔を埋める様に側臥位で、ころんとユキさんは寝ていた。俺の位置から見ると綺麗に揃った睫毛が涙で湿っているのがわかって、俺は胸が締め付けられた。
それは美しい天使のようで、俺が憧れた穢れのない女神のようで。
昨日も着ていた黒の服だから、お風呂にも入らず眠ってしまったのだろうか? 梅雨ちゃんが彼女の近くで寝ていたが、俺の気配で目覚め、机の上に乗る。そこには包みの開いた箱がある。これを開けているうちに疲れて寝てしまったのだろう。
だからといって、このまま男の部屋に転がしておくわけにもいかない。
そう、このまま襲ってしまってもいいかな?
……いやいやいやいやいや。
俺はそっと彼女を揺らした。無防備な姿で男の部屋に居るのは良くないので、
「起きて、君の居場所はそこじゃないよ」
そう声を掛けると、薄く目を開いたその瞳。赤い瞳が僅かに開いて、ちらりと睨むようにこっちを見ると、酒にでも酔ったかのように正体無げに上半身を起こす。
「大丈夫か、ユキさ………」
彼女は突然俺のシャツを引っ張り、引き寄せると、その手を回して俺と唇を重ねてきた。
はい?
今まで水を飲ませる時に二度、花火の時に一度。唇を奪った事はあるが、彼女からなどなかった。最初の二度など事故のようなもので、花火の時が初めての真面なキスにカウントできるのではないかと思う。
それに今の問題は回数じゃない。何故、ユキさんがこんな事をしてくるのか、だ。
だが全神経が柔らかくそれでいて生々しいまでに暖かい唇に行ってしまう。そして呼気が伝える湿った感覚に縛られ、心が奪われそうになった。衝動を抑えきれず自分から彼女を求めようとしてしまう。ココはベッドの上、このまま押し倒してしまうには最適すぎる環境だ。
このまま、君と……
既に理性は崩壊しているが、知識と彼女への想いだけが俺にブレーキをかける。
彼女を求めてはいけない、と。
これ以上のコメントをしている場合ではなく、俺は彼女を自分から引き剥し、
「大人をからかうな」
俺はそう言うのが精一杯で、目を合わさない事にした。目が確実に挙動不審になっている。今、覗きこまれると、俺の理性が崩壊を通り越して消滅してしまう。嫌、理性なんかなければいいと思う、そしたら好き放題にユキさんを掻き抱いて自分の物にしてしまうのに。
ユキさんは優しいから、俺が気持ちを押し付ければ愛してくれるだろう。でもそれが彼女を人柱として仕立て上げる前段階なら、俺は彼女の愛を求めない。人柱など紛い物、空想の産物かもしれないが、彼女を間違いなく怪しい影が狙っているのは確かだ。
超常現象なんか信じないけれど、彼女が虫と語ったり森が道を開ける様に歩いたりする様は間違いなくあるのだ。あの力を得たいだけでも彼女は攫っていく価値がある。
そう決めたのに揺らいでしまう、暖かすぎる唇、柔らかくて、白い髪が含んだ光が俺には眩し過ぎる。青い空、檻の向こうに見た自由より遠い女神よ。
君はこんなに近くにいるのに。
心臓がバクついてマトモな会話など出来そうにない。歳の離れた小娘になんて様だ、そんな事言ってられないほど心が傾く。
俺はその手に心の中で錠をかけて、彼女を押し倒す前に追い出す事にしようとする。何で俺にこんな事をしたのか聞く余裕はなかった。
「あれ? 賀川さん」
梅雨ちゃんの側に開けてある箱の蓋を閉める。包まれていた上品な包装紙をワザとに俺は大きな音を丸めて、彼女の声を遮る。だがそれに気付いたのだろう、
「賀川さん、…………いや、時貞さん」
その名で呼ばれて俺はつい目を向けてしまう。今までぼんやりした目をしていたはずだが、いつも通りの真っ直ぐな眼差しだった。それを見ないフリをするのはかなり無理があったが、俺はツイっと逸らした。
「いつ戻ったんですか? おかえりなさい」
「は?」
逸らした視線を彼女に戻す。
「私、昨日、その荷物を開けて見ていたら、梅雨ちゃん寝出しちゃって、見てるうちに私、ココで寝ちゃったんですね。ごめんなさい」
「……もしかして、今、キスしたの覚えてない?」
「き?」
「おおおお、覚えていないなら良いから。気にしないで」
ユキさん、本当に覚えていないらしい。
彼女は俺の言葉に怪訝な顔をしていたが、思い出したかのように、
「時貞さん、昔外国に住んでいたって本当ですか?」
安心しただか、勿体無かっただか、よくわからない所で立ち直りかけた瞬間、言葉の打撃。目の前が揺れる気がした。
いつかは知られてしまう事だ、どこまで誰が何を言ったかわからない。だが俺の黒歴史だ。
頭がよく回らず、英語が口を突きそうになって、それは違うからと収めて、やっと出てきた言葉が、
「俺を困らせて楽しい?」
それだけだった。きょとんと首を傾げ、見上げる彼女。
「こ、困る様な事なのですか?」
俺には何も応える事が出来ない。
「誰に、何を、どこまで聞いた?」
丁寧に、ゆっくりと質問してみる。
「えっと、賀川さん……じゃなくて、時貞さん、昔、海外に出ていて、危ない目にあった事があって。お姉様がそれで凄く心配性だって事と。私の母の家系は巫女ってお仕事で、私にどうしてもそこに戻って欲しいから、私を攫ったり刃物を向けたりする者が居るから気をつける様にと、タカおじ様とバッタのおじ様が……」
……何だかうまい事、まとめてくれているな、あのオヤジ達。
間違いは言っていないが、かなり綺麗だぞ。
それは黒を通り越して腐っている物が、限りなく白に見えるくらいに。シナリオを練ったのは魚沼先生辺りだろう。
「ユキさん、出来ればその名は呼ばないでくれるか? 余り好きじゃないんだ」
「わ、わかりました」
「俺、疲れたから寝るけど」
「あ、今度早い内に行きたい所があるので、付き合って下さい」
「え、あ、わかった。勤務を見てから打合せよう」
「わかりました。じゃ、これ……」
ユキさんが俺の隣で無邪気に笑いながら、箱の中から高そうな藍染のパジャマやらタオルを俺に渡してくれた。天使の男の子の人形をぽんと最後に載せ、
「先生から。賀川さんの分です」
「あ、うん。ありがとう」
残りを箱ごと抱えると梅雨ちゃんが階段よろしくその上に乗る。俺はそっと梅雨ちゃんを撫でた。
「梅雨ちゃんのご飯、やっておきますね」
「一番いい奴を入れてやってくれ。明日には帰ってしまうから」
「はい」
うな、っと鳴く梅雨ちゃんを載せて彼女が出ていく。梅雨ちゃんが尻尾を揺らしながら、意味ありげに緑の視線を残していった。わかってないだろうけれど、今日のキス、梅雨ちゃんに見られたな。
一人になってベッドに横になると、ユキさんと梅雨ちゃんで心地よく温められた布団を、効き過ぎなクーラーで楽しみながら眠った。
この日、俺は夕方四時まで家にいたが、タイミング的に梅雨ちゃんを見る事無く、仕事に出てしまった。この家に帰ったのは、翌日18日の深夜遅く。配送は滞りなかったが、遅いお盆休みを取る者が多いため、人員が少なく残業が多いのだ。俺は今月後半に仕事を休む予定があり、その分無理して勤務を詰め込んでいる。
その為、予想通りの事ではあったが、残業でこの時間だった。
「梅雨ちゃん……」
そう、夕方の六時頃、先生が来て梅雨ちゃんは呆気なく帰ってしまったのだ。
「会いたかったな」
部屋にあったキャリーバックはなく、エサ入れも爪とぎも、満足パックもない。
何だか、同棲相手に逃げられたみたいだな、などとくだらない事を考えつつ、食堂へ向かう。
食堂はもう電気が消えて誰も居なかった。ラップをかけたご飯類を温めながら、冷蔵庫からお茶を取り出す。
もう居ないのか。
何だか寂しいな。
その時、冷蔵庫にぽつんと残った梅雨ちゃんの小分けタッパが目に入る。
俺はそれに中身を捨てて洗って、綺麗にすると、いただいたパジャマのお礼を兼ね、このタッパと猫餌セットでも送ろうかなと考えながら飯を食べ始めた。
賀川らしく。
梅雨ちゃんに呆気なく帰られてしまったのですが。
次の更新は一日ほど時間を巻き戻します。
梅雨ちゃん、もう少しお借りいたします。




