8月16日梅雨ちゃん飼育日誌7・送る者と送られる者
かえろ、かえろ。
十六日……くもり
「今日遅めの出勤で、明日朝までは戻れないのね」
俺は朝食を済ませ、昼前に出かけた後の予定を葉子さんに告げ、打ち合わせる。
「稽古時間には間に合うと思います。今日と同じで一人かも知れないですけど」
「それでも来るなら、裏口空けておくからそこから入って。梅雨ちゃんは見ておくから」
昨日は結局俺に呼び出しはなく、タカさん達は足が悪い中、町中を夜中まで走り回ったらしい。それでもまだバタバタしているらしく、今日の朝は一人だけで柔軟などした。
ちなみに昨日落した瓦は、タカさんが新しいのをすぐ入れてくれた。
「そう言えば、貴方のシャツ、梅雨ちゃんが気に入って座布団にしてるのよね。穴とか開いてないようだけど、新しいの買い戻すから貰っていいかしら?」
「ああ、着古しだから気にしないで下さい。彼女が帰って要らなくなったら捨てて下さい」
「そう?」
そんな話をしてから準備に二階へあがって、早目に出かけようとした時にふと、ユキさん宛ての荷物に体をこすりつけている梅雨ちゃんを見つける。
「どこか匂いがするのか、先生の? 懐かしいか? あと数日だから我慢しろよ」
荷物か。贈り物ってうれしいよな。俺は貰った事なんてないけど。貰った人の嬉しそうな顔が見れるこの仕事が好きだ。
「おかあさま、おかあさま。プレゼントだよ」
俺が始めて、人にあげた贈り物らしい贈り物。
あれは母の誕生日だったか、母の日だったか、貰っても使わなかった大量のお小遣いの一部を使って、沢山のカーネーションを贈ったのは。恵まれていて生意気なガキだったかもしれないけれど、それでも必死に考えたんだ。汚いながらに手紙を添えた記憶がある。
当時の俺では自力で運べないほどの量を、軽く一抱えで持って来てくれた水玉模様の制服を着たお兄さん。賀川の制服だったから、たぶん日本に戻ってきた時のイベント事……日本に戻るのは年末が多かった気がするから、クリスマスだったかもしれない。
うろ覚えの記憶。
そんな中、受け取りのサインをした母の笑顔だけは忘れられない。
「ありがとう。うれしいわ。でも今度贈り物をしてくれるなら、花は一輪で良いわ。その代わり教会に寄付しましょう? ね」
「おかあさまがそれで嬉しいならそれでいいよ」
「さ、玲、何かピアノを弾いて?」
隣に居た姉がそれを聞いて笑う。
「あきらちゃんは優しいわね。今度は私にも送ってね。赤いバラが良いわ」
「うん、きっとね。何時がいい?」
「そうね、誕生日に」
あの日、何を弾いたか、もう覚えてはいない。
そして姉の誕生日を迎え、また母に花を送り、寄付をしに行くような事はなかったと記憶している。
楽しいバス通学が、阿鼻叫喚に変わったあの日を迎えたから。
うな?
「ん?」
俺は梅雨ちゃんの体を撫でた。
もう、覚えていないだろうが、今度の姉の誕生日にはバラを送ろうか。いや、何かしらの逆鱗に触れそうで怖くて無理そうだけれど。
贈り物と言えば、日傘……
ユキさんへ送った、初めての贈り物らしい贈り物。雨傘にもなるし、繊細なレースが予想以上にとても彼女に似合う。
森に行く時は置き去りだけれど、町やら他の所に出る時は連れて行ってくれている。ここ何日も玄関先で彼女の帰りを待ってる、俺と一緒に。
昨日の豪雨、森で無事だと良いのだが。
いつもポケットに入れている、射的で落とした白い猫。俺の血で少し変色してしまったけれど、彼女を思うのにちょうどいい。彼女はあの時一緒に取った黒い犬をどうしただろうか?
思いに耽っていた俺の顔を梅雨ちゃんが、ジッと覗き込んだ。色は違うけど、無垢で悪意を感じないこの瞳は、どこかユキさんを感じさせて、とても落ち着く。彼女に笑ってやれない分、俺は早く出社するのを取りやめ、しばらく彼女と遊ぶ事にする。
荷物に入っていた猫じゃらしが好きなのは確認済みだ。布団に突っ込んで、見えない状態で振ってやり、タイミングを見てちら見せする。猫パンチが飛び、招き猫のような恰好をしたり、地面に伏せたりしながらそれを狙う。
「お、じゃ、ココから出るぞーほら、ほら。つぎこっち」
梅雨ちゃんは飽きる事無く、出社前まで俺と遊んでいた。
イヤ、俺が遊ばれているのかも。
だいぶ慣れてくれたので、帰ったら寂しくなるだろうな。
「じゃ、行くからな。荷物を開けちゃだめだぞ」
しばし遊んで終わりにする。
じっと俺を見上げるので、頭を撫でてやる。すりすりと手に甘えてくる。ユキさんにこう出来たら、そしてこうしてもらえたら幸せだろうな。
「今晩は戻らないから、葉子さんとこに……どうした?」
急に梅雨ちゃんが玄関へ走って行った。俺は通勤用の鞄を持つと、合わせて二階から降りていく。
と、そこには久しぶりに見る、ユキさんがいた。
だが。
疲れきった顔、どれだけ徹夜で仕事でもしていたんだろうか? 気怠い表情をしていたが、梅雨ちゃんを見て目を丸くし、俺を見て酷く表現しがたい表情になった。いつもと雰囲気が違うのは、漆黒のワンピースを着ているからだけではないだろう。
しかしこの透き通るような存在感のない気配は何だろう。それでいて恐ろしいほど綺麗だ。幽霊とか病人とかが持つ、特有の儚い美しさだ。
「お、おかえり、ユキさん」
笑いかけそうになった自分を律し、抑揚の無い声に整えたものの、出だしが詰まって決まらない。
しかしどうにもユキさんが倒れそうに、折れそうに見えて、抱きしめないと霧のように消えるのではないかと思う。でも抱きしめてやるのは、俺の役じゃない。
だからそんな顔をしないで欲しい。
彼女はつッ……と、目を伏せて、全くの無言で梅雨ちゃんに手を伸ばす。
だが梅雨ちゃんは一瞬弾かれたように身を引いた。
「あ、ごめん、なさい。驚かせちゃった。梅雨ちゃんだよね? どうしてここに?」
俺に聞いた感じではなかった。梅雨ちゃんに直接聞くかのような言葉だったが、まさか猫と会話できるわけでもなかろう。
「先生二人がお盆の間、出かけていて、預かっているんだよ。十八日には迎えが来るんだよ」
梅雨ちゃんは首を捻った後、ゆっくりとだが、ユキさんの腕に納まった。
「知らなかった……今日何日ですか?」
「十六日だけど」
「一晩、経ったんですね……」
感慨深そうに言う、ユキさんの言葉の意味が解らない。
「ほら、先生達、メールとか、くれていないのか?」
えっとぉ……彼女は赤いポシェトから携帯を出す。充電は切れていない様だったが、メールを見始めた彼女の頬が一気に紅潮していくのがわかった。
「それに、先生二人からユキさん宛てに小包が届いているのを、俺の部屋で預かってるからって……おい!」
彼女は俺の事を見向きもせずに、梅雨ちゃんを片手に廊下を走り去った。
何も。何も上手く言えなくて。
梅雨ちゃん借りっぱなしです。




