8月13日梅雨ちゃん飼育日誌2・買う者と売られる者
空の色はどこまでも遠く
十三日、早朝……晴れ
『Don't cry. baby……Your hair is very beautiful. I will never hurt you. Please……don't worry.』
泣かないで。君の髪はとても綺麗だね。僕は君を傷つけることはないから、安心して……
苦しかったんだ、そう言うのは。
腹の辺りにくすぐったさを覚えて、ハッとする。
梅雨ちゃんがいつの間にか俺の脇腹辺りで丸くなっていた。起こさないように離れたかったが、だいぶ近くで眠られて、なかなか動けそうにない。
さっきまでの拒絶が嘘のようだ、というか、寂しかったので、仕方なく代用品の俺の側で寝たと言うのが正しいだろう。
まだ暗いが、後少ししたら俺は起きて地下に足を運ぶ時間だ。
だがせっかく寝付いた子猫を起こすのが忍びなくて、出来るだけの時間をそのまま過ごしながら、その体に触れるか触れないか、そんな触れ方でそっと撫でた。
なぁと小さく鳴いたので、起きたかと思ったが寝言だ。小さい体。見も知らない所で虚勢を張って、とても疲れたのだろう。
そんな姿が、強制的に親元を引き離され、売られていく少年少女の姿と重なる。
泣き喚いて怯え、それで可愛いなら買い手がつくが、ただ恐怖心に歪むだけで煽られる加虐心くらいでは真面な買い手はつかない。いや、子供を売り買いする時点で真面ではないのだが、売られてそのままバラされるより、良い買い手がつけば僅かに生存の確率は上がる。
俺はもう人質としての価値はなく、殺される所だったが、『死んだ方がまし』と思うかもしれないがと笑われながら、競売にかけられた。
さほどせず、彼らの言う所の状況を味わいながら、体も心も擦り切れていく。不要になると、売られる。古くなれば、どんどん価値は下がるのは物でも人でもだいたい同じだ。
俺はイエローで、黒髪黒瞳。売れ線の白人金髪に青や緑の瞳ではないので、東洋系マニア路線となる。それ故、部品目的でバラされる確率が高かったが、偶然側に居た少年を泣き止ませた事で、商品の世話を任された期間があった。
もう、泥水を飲むことも厭わなくなるほど、俺はこういう世界に染まりかけた頃。
声を掛けて、泣きやませ、綺麗な服を着せて、落ち着かせる。薬を使ったり拘束衣を着せたりするより、仕事的に自分への精神的苦痛は減るので頑張った。そして俺の手をかけた子達はマトモな所に送られる事が多かった。でもそれは威張って言える事ではない。
それもマトモと言っても、具無しのスープしか一生口に出来ないか、たまには残り物のベーコンが口にできるか程度の違いだ。
その先でどんな人生を送ったか知る事は少なかった。だが不幸にもその先ですぐに死んだのを聞く事もあり、それは自分のせいの様で、……いや間違いなく、どこかしら俺のせいでもあるわけで、とても辛かったのを覚えている。
逃がしてやりたい、俺も逃げたい、そう思えど、成功の可能性は限りなく低く、失敗した時のリスクは死をもって支払われるのを知った俺にその選択肢はなかった。
そうしている内に、他の子達に殴られたり蹴られたりする事も増え、いつの間にか逃げる事だけではなく、加害して危険を避ける術も自然と身に付けて行った。
そのすばしっこさが目に留まり、俺はまた次なる所に送られた。
そっと梅雨ちゃんから離れると、エサ入れを覗く。
少し食べてくれている。水も飲んでくれたようだ。これなら病院に行く事はないだろう。連れて来られたケージの中からタオルを取って側に置く。飼い主や自分の匂いが染み付いているそれに無意識だろうがすり寄って行くのが何とも可愛い。
「行ってきます」
俺は自分の布団の上で寝ている梅雨ちゃんにそう言ってから、彼女が出入りできる少しの隙間を残してふすまを閉め、部屋を後にする。
下階で葉子さんに挨拶をし、梅雨ちゃんを頼むと、地下に移動した。
「珍しく遅いな、賀川の。休みかと思ったが」
「おはようございます。猫がやっと少し懐いてくれたので、離れがたくて」
「面倒見良いのな、おめぇは」
「あの、来た早々、正座しているのに踵落としとか死にますって」
台詞の最初の辺りだけ拾うと和やかだが、タカさん、道場に向けての一礼中に、かなり重い踵落としを俺に向けて放って来ていた。頭上に両手クロスで何とか防いだが、本気で喰らったら、暫く死ねる。
「遅れた罰だ」
「これ、いつから強制になったんですか!」
「いや、遅れてきた理由が猫って言うのが、気に食わないだけだが」
俺は仕返しに腕を返してタカさんを転ばせようと試みたが、一瞬で読み取られて逆足で肩を蹴り飛ばされる。
「やる気か?」
「そ、そう言うつもりでは」
その反動で左手を畳について、素早く立ち上がりつつ、間合いを取る。だがタカさんはその隙を作らせまいと、一瞬で肉迫しようと床を蹴った。
どこでそんな俊敏さを身に付けるんだろう、そしてそれは実生活で何の役にも立たない。ああ、年を取った時に足が上がらず転倒、骨折するご老人が多いので、転倒防止にはなるかも……
「誰が老人だっ」
「言ってません、言ってません!」
「って事は、考えていただろう」
伸びてきた手が突きではなく、襟を狙ってきている事に気付き、掴ませないように体を精一杯引く。そうしながら体を低めて、足掛けをかましてみるが、軽くいなされる。
「空手で襟って掴んでいいんですかっ」
「誰がここでやってるのが普通の空手と言った? 当たればいいんだ、よっ」
「ったーーーーまだ柔軟もしてませんって、タカさん」
「おめぇの戦い方は基本、ルール無用の喧嘩で身に付けてんだろう?」
「ま、まあ。アーミーやネイビー上がりの人に稽古をつけてもらってましたけどっ!」
「ん? 何だ? あみぃ?」
「ぐ、軍隊を退役した人って事です」
「最初からそう言えってんだ。なるほど、やっぱり手加減は要らないっとな」
「えええええっ」
この後、散々型稽古をした後、いろんなケースを想定した組み試合をさせられ、かなり疲れた。でも命のやり取りをしていたあの場所ではない。
「すぽーつ、だからな。実戦ほど積む物も得る物もないが、もしもの時の為に勘は戻しておけ」
「そんなに深刻なんですか?」
「シノブ、だかな。奴の報告だとこの頃、ナイフを持ったヤツがユキを襲ったらしい」
「そんな事、彼女一言も……」
「俺にも言いやしねぇよ。ユキにはユキの世界がある。だが、頼ってきた時は全力で守ってやる、そん為に……いいな。賀川の、上がりの時間だろ」
俺の返事も聞かず、他の兄さんと柔道の組手を始めた。
柔道か、空手じゃないのか。本当に何でもアリだな、ここ。
そう思いながら、シャワーを済ませ、部屋に戻るともう日が上がっていた。
カーテンから漏れ落ちる朝日の中、黒い塊はまだクークーと寝ている。だが俺の侵入で思い出したように起き上がると、欠伸をしてから小首を傾げ、『あら自分はどこにいるのだろう』って顔をしていた。
「おはよう、梅雨ちゃん」
そう声を掛けた途端、黒い毛玉は勢いよくキャリーケースの中に戻ってしまう。それでも僅かに顔が出たり入ったり迷っているのは、籠の中にあるべきタオルが今まで寝ていた場所にあるからだろう。
「これ、欲しいの? 入れてあげるから餌を食べてよ」
タオルを戻してやってから、水を入れ替え、餌を置いて部屋を出る。
「後から葉子さんが迎えに来るからね」
窓から見えた空。
空は変わらず青い。
もう柵も手錠もないけれど。
青い空に浮かんだ白く流れる雲は、女神の長く美しい髪に見えた。
逃げ込んだうろなで彼女と出会う、ずっと昔の話。
忘れられない記憶なのに。
平和な日本では考えられない昔の事。
たまにこうやって疼く記憶だけ。
もはや俺にも、それが事実であったかわからないほどに。
引き続きYL様宅、梅雨ちゃんお借りしております。




