8月12日梅雨ちゃん飼育日誌1・現実と非現実
俺は神も悪魔も信じない。
けれども彼女にはそれが現実で。
強制的に血の海に沈められ、無邪気に戯れさせられているなど。
思いもよらないまま。
俺は小さな黒い天使と対面していた。
十二日、預かり当日…… 晴れ
「食べてくれよ。先生達も心配するぞ」
なあ……
返事ではなく、小さな黒猫はきっと飼い主の先生を呼んでいて、家に帰りたいのだろう。
基本室内飼いされていてあんまり外には出ていない箱入り娘、いや……箱入り猫か。名前は梅雨ちゃん。
ユキさんが森で具合を崩した時、助けてくれた二人の先生。清水先生と梅原先生、その二人の飼い猫。
梅に雨と書いて、梅雨、そう呼ぶそうだ。6月の雨の事らしいが、梅花の時期は春も頭の方だったはず。どうして梅と書くのか、東洋人の感覚は難しい。
そう思ってこの頃持ち込んでいるパソコンで検索してみると、いろんなイワレがあったが、「梅の実が熟す頃に降る雨」という意味が一番しっくりとして覚えやすかった。
清水先生はいずれ、その実が収穫できるのだろうから羨ましい話だ。
意地悪を言うなら、幼い青梅は毒があるので、早すぎる収穫は大変だと言ってやろうかな。
単語の謎はさておいて。
先生達が少し前から予定していた旅行の為に、彼女は前田家で預かる事になっていたそうで。
超早番という労働基準など無視の三十六時間勤務で、帰宅がある意味早かった俺。
もはやココの門番と化している為、反射条件で玄関に出てしまい、疲労感ありありの清水先生からキャリーバックごと彼女を預かった。
梅雨ちゃん用の荷物と称して、猫のトイレマットに、食べ慣れた餌やタオルに、爪とぎに……
本物の赤ん坊を預けるのより過保護ではないかと言う『梅雨ちゃん満足セット』を受け取る。これで本当に赤ん坊に恵まれて、人に預ける機会があるのなら、タンスやベッドまで持ち込んできそうだな。
しかし、この人は何故こう疲れ気味なんだろう。それでも爽やかそうな笑顔を浮かべられるのだから、大した人だと思う。
「でもどうして賀川さんがココに?」
「こないだ体調を崩した時にお世話になってから、葉子さんがご飯を食べに来ないかと誘ってくれて、よく来て、そのまま泊まっているんですよ」
定型文になりつつある台詞を告げると、ふふんとわかった風な顔をされた。
「そう言えばユキちゃんが中心に、梅雨を見てくれるのかな?」
「ああ、彼女。今月の五日ぐらいからこの家に戻ってませんよ。森で制作に集中したい、と。葉子さんが見るんだと思いますけど」
……朝陽が上がる少し前、まだ街灯が揺らめく中を白髪の髪を揺らしながら、バス停に向かう。あの後姿と何かを堪える様に見上げる潤んだ赤い瞳を思い出して、俺は少しブルーになる。命にまで触れると判断するような危険があれば、篠生から連絡は来る。
だがあの情報屋もどきの仲介屋がちゃんと機能してくれるか、甚だ疑問だ。が、タカさんも心配を押し殺し、彼女の自主性に任せて、グッと我慢している所。俺だけが抜駆けで会いに行くのは反則だ。
何かを感じ取ったのか、清水先生は先程浮かべた、ワケ知り顔の表情を取っ払う。
「今度、飲みに行こうな」
社交辞令だろうが、そう言ってくれたのに軽く頭を下げて笑って返す。
愛猫が、うなーっと鳴くので、彼はその瞳に満面の笑みを載せて、
「ごめんな。もう少し大きくなったら、 色々連れて行ってやるからなー」
親馬鹿丸出しの、彼を見送った。
「いいな、お前は愛されていて」
うなぁ……寂しそうに緑の瞳を細め、俺からは目線を背けた。
この家は沢山の兄さん達がひしめいて生活している。
個室をもらっているのは家主のタカさんに娘待遇のユキさん。班長や葉子さん、そして俺だ。
「ああ、そうだったわね。お話をもらった時はユキさんがいる予定だったのよねぇ……」
猫とはいえ、人からの預かりを忘れるはずがない、この姐さんが。葉子さんはそれでも忘れたフリをして俺をじっと見る。
「梅雨ちゃん、女性の方が良いみたいだけれど、私は夜は熟眠したいの。お昼は見るから夜はお願いできないかしら、ねぇ……賀川君」
確かに俺は本来ここに住む筋合いはないのに病気の後も客扱いで居座っている。猫の面倒くらい見なければバチが当たる。
文句はない。
でも何故、俺?
「物言わない動物と一緒に居るのは、貴方にとって良い事だと思うわ」
その言葉の意味が汲めないまま、寝床と餌場は俺の部屋、トイレマットはその近くの廊下に設置された。
しかし入れられたゲージから梅雨ちゃんは出てこない。元々、清水先生の家にお邪魔した時も俺は随分警戒されていた。
ただ餌も水も一切手を付けないのは問題だ。
「夏で暑いんだから、ちゃんと食べなきゃ……って、猫に言っても無駄か」
俺は電気を消して横になる。明日の朝も早く起きて地下の座敷に鍛錬へ行くから、早起きだ。
明日の昼まで何も食べない様なら、葉子さんに病院にでも連れて行ってもらわないとな。熱中症でも起こされたら困るから。
そう考えていると、梅雨ちゃんが時折思い出したように、なぁと鳴く。
「恋しいの? 先生が」
俺はふと思い出した。
良くわからない男達にスクールバスから連れ去られ、閉じ込められた暗くて湿っぽい場所。手に絡められた錠と足の縄。まだ元気だった俺は、母さんを呼び、姉さんを呼び、父もその端に連ねた。
ピアノを弾く為に、姉が毎日手入れを欠かさなかった爪が折れ、肌が破けるまで扉を叩いた。
「大丈夫だよ、すぐお迎えが来るよ」
俺はあの時、俺に向かって言った言葉を口にした。
その言葉は叶う事なく、一本のネジの前に扉は閉ざされた。そこで死ねばよかったのに生き延びて。それから俺は八年。その後、事情が重なり望んで飛び込んで、地下の地下、最下層のアンダーグラウンドで生きる事になる。
梅雨ちゃん、彼女にとってココは知らない所。急に連れて来られて。きっと不安になって、あの時の俺のような、天涯孤独の気分になっているのだろう。
でもこの黒い子猫は大丈夫。すぐに優しい人達が迎えに来るんだから。
「いいなぁ、梅雨ちゃんは……」
俺が夢うつつで、彼女の入っているゲージを見つめる。
そうしている内に、いつの間にか寝ていたらしい。
気付くと極上のエメラルド色の両眼で彼女は俺を見下ろしていた。俺の頬が突然、肉球でふにっと踏まれた。
その柔らかさと頬に間には、故意か偶然か一滴の涙があった。俺はいつの間にか泣いていたらしい。
もう昔の事。
反吐が出る様な暗く冷たい場所だった。もう今はそれが事実かもわからぬほど、日本の、うろなの平和に埋没して。思い出せばまだ泣けるのか、いや泣ける余裕がやっと出たのか、俺はそう思いながら疲れに流されてうとうとと眠りに落ちた。
前回までと趣向が変わります。
YL様『"うろな町の教育を考える会" 業務日誌より』清水先生。梅雨ちゃん。
以降、梅雨ちゃん長くお借りいたします。
別名:賀川成育歴日記。
よろしくおねがいいたします。




