25道を決める
エリザはぼんやりとした頭でジェイドを見つめた。黒い髪、黒い瞳、黒いローブ――そしてジェイドの周りから溢れる、自信を帯びた黒いマナ。
「人は誰しも認められたいという欲がある。必要とされたいという欲求がある。お前は特にそれが底なしだ。俺だけがお前の欲を満たしてやれる」
その言葉はとても甘美だった。どろどろに煮詰めた蜜飴のように。舌先に触れるだけで、しびれるほどに甘い。
(やっぱりわたしは、仕事だけの人間なのかも……)
戻れば必ず苦しい日々が待っている。
だがそれを魅力的に思う自分自身もいる。
(やっぱり、わたしはどこかおかしいんだ……でもこれがわたしで……壊れたって、いいかも……)
考える力が低下して、自分の意志も消えていく。すべて心地いい闇に沈んでいく。
ふらふらと、差し伸べられた手に向かっていく。
「――エリザ!」
レヴィンの声に、エリザは振り返った。
切迫した彼の表情を見て、心が痛む。
「エリザ、君は本当にそれでいいのか?」
エリザは淑女の礼をした。メイドのマリアンヌに教えてもらったとおりに。
「……レヴィン様、お世話になりました。どうやらこれがわたしみたいです。わたしにはやっぱり、仕事しか……」
「そんなことはない!」
力強く否定され、エリザの胸の奥が震えた。
だがマナが枯れてしまったこの国では、もうエリザのできることはほとんどない。
「王太子殿。エリザは特別な魔術師と言えど、マナの枯れたこの地ではもう力は発揮できない。快く送り出してやってください」
ジェイドは落ち着いた声で諭すように言う。
だがレヴィンははっきりと、真っ直ぐに、黄金のような瞳でエリザを見た。
「エリザ、君の仕事への情熱は素晴らしいことだと思う。だが私は君に仕事を与え続けることはできない。君はその状態を物足りなく思うかもしれないが、私はそれよりも君の身体の方が心配だ」
「だ、大丈夫です……身体は魔術で何とかなります。わたしは仕事さえできれば……」
たとえ壊れても治癒で治せる。
「身体の傷は治せても、心の傷は? 私にはそちらの方が重症に思える」
「心なんて、我慢できます。仕事がない辛さに比べたら……」
「……すまない。仕事がないつらさは、私にはわからない。私の使命は、この国を守ること、豊かにすること、国民を幸福にすることで、この使命には終わりはないからだ」
王族という仕事の重さと大変さが、その言葉からは伝わってくる。
だが同時にとてもやりがいのある仕事に思えた。未来をつくる仕事――より多くの人々を幸せにするための仕事――それを行える人はどれだけいるのだろう。
「……レヴィン様は、ずっと働き続けているんですね。ですがその……働きすぎではないでしょうか」
「君には言われたくないな」
レヴィンは笑う。
「この使命を果たせることは、とても幸福なことだと思う。だが、時折……この使命を重たく感じるのも事実だ」
国を背負う重圧とはどれほどのものだろう。誰にでも背負えるものではない。背負うことのできる人でも、そんなふうに重荷に感じていたなんて。
気づかなかった。
「エリザ。君は私の重荷を、いとも簡単に軽くしてくれる。それに、君と共にいるときは、その重さを忘れることもあるんだ」
「でも、わたしにはもう……この場所でできることは……」
「私は、君が何もせずにそばにいてくれるだけでも嬉しい」
衝撃だった。
何もしなくても、存在するだけで、誰かに喜んでもらえることができるなんて。自分にそんな力があるなんて、エリザは想像したこともなかった。そんな幸せがあるなんて。
「これからも、君にそばにいてほしい。共に歩んでいきたい。君が好きだ」
「レヴィン様……」
いつの間にか目から涙が零れ落ちていた。
悲しみでではなく。単なる嬉しさででもなく。心の奥が震えて、身体が震えて。熱くて。感情が涙となって、溢れた。
「たくさん苦労をさせると思う。それでも私は、エリザに隣にいてほしい」
「……はい」
頷いた。この道の先には、きっと多くの困難がある。苦しいことも辛いこともあるだろう。無力感に苛まれることもあるだろう。
それでもこの道を行きたい。レヴィンと共に、未来へ。
「お……お前、まさか本気なのか」
「はい。わたしは仕事が好きです。誰かに喜んでもらえるのが好きです。そして、レヴィン様のことも大好きです」
エリザは素直な気持ちを、湧き上がるままに言葉にする。
「全部、諦めません。だから、皇国には帰りません」
ジェイドは端正な顔を歪ませていた。
「だがこの国は『聖女』であるお前を糾弾しようとしている。元より動かなくなっていた魔導具が再び動かなくなった、それだけで」
「そのようなことにはさせない。絶対に」
レヴィンのその言葉だけで、エリザはどんな困難や理不尽にも立ち向かっていける。
「ジェイド様。ここでわたしがブラック皇国に逃げ帰ったら、それこそ全部レヴィン様の責任になってしまいます。わたしの仕事の責任はわたしが取ります」
「俺には見えるぞ。これから先、お前に降りかかる不幸の数々が!」
ジェイドは怒気を撒き散らしながら、地面に刺さっている王杖に手をかける。持ち主に呼応するかのように杖がひときわ強く輝いた。
「お前を不幸にするこの国を滅ぼしてしまおうか」
「ジェイド様! やりすぎです!」
魔術王の王杖はこの国に訪れた大災害を鎮めたものだ。抜けば、再び大災害が訪れるかもしれない。
「落ち着いてください。わたしはジェイド様と戦いたくありません」
「なんだエリザ。もしかして俺に勝つつもりなのか」
「やってみなければわからないじゃないですか!」
「ふん。気が強くなったものだ」
ジェイドは嬉しげに言い、口元に笑みを浮かべる。
「それに、お互い無事ではすみません。心臓の誓約が――」
「ふん。攻撃魔術を封じたところで、魔術師を止めることなど誰にもできはしない」
くいっと、杖を揺らす。
「いま俺はこの杖を使ってこの国のマナを止めているが、俺の心臓は無事だぞ?」
「え……?」
「想像してみろ。都市部の魔導具を破壊すればあっという間に国は干上がる。山を、川を、風を操って地形を変えれば、勝利など思いのままだ。心臓の誓約など、愚かな権力者が考えたただの気休めだ。何の意味もない。魔術師にとっては首輪にもならん」
「――ちょっと待ってください! ジェイド様が、マナを止めたんですか?」
「そうだ」
エリザが問い正すと、ジェイドはあっさりと肯定した。
「なんてことを! すぐに戻してください!」
「いいのか? いままで抑えていたマナが暴れ出して、大災害が再び訪れるやもしれんぞ」
「そ、それはだめです!」
エリザは慌てて止めた。
だがジェイドはそこまでわかっていてどうしてマナを止めるような真似をしたのか。
そもそもブラック皇国の宮廷魔術師であるジェイドが、どうしてホワイト王国にある杖を操れるのか。魔術王はブラック皇国の出身だけれども。
「この杖は元々俺のものだ。俺がどう使おうと自由のはず」
「もしかして、ジェイド様が魔術王……?」
「その子孫だ」
「あ、はい……」
「最強最高の魔術師であっても、肉体は人だ。そのような長生きができるはずがなかろう」
「おっしゃるとおりです……」
魔術王は200年前に誕生して50年前に行方不明になったとの話があるから、エリザはもしかしたらと思ってしまった。
「つまりはこの杖の継承者。魔導回路をいじるなど造作もない」
「そうやって、マナの流れを止めたんですね……」
そのせいでどれだけの影響が出ているのか。ジェイドはわかってやっているのだろう。
――許せない。
多くの人が困っているのを知っているのに。魔導具の重要性を誰よりもわかっているはずなのに。
「お前がしっかり反省するのなら、元に戻してやろう。よく考えることだ、エリザ」
「わたしなんかのために国を人質にしないでください!」
「お前にはそれだけの価値がある。言ってもわからんだろうから、行動で示したまでだ」
――なんて面倒くさくて迷惑な嫌がらせをするのだろう。
エリザは心底呆れきった。この人にはもう何を言っても無駄なのだと。
「……わかりました」
エリザはすたすたとジェイドの元に歩いていく。
「エリザ!」
レヴィンに呼ばれても、エリザは振り返らなかった。
笑っているジェイドの手は取らずに、隣の王杖に手をかけ。
「えいっ」
引き抜いた。




