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何も知らない

「あ……っ」


 無意識に、叶は手からティーカップを滑り落としていた。

 まだ半分ほど残っていた紅茶が零れ、ボロボロのカーペットに輪のような染みを表出させたが、今の叶にとってそのような出来事は些末なことに過ぎない。


 ――自分が今まで「英雄」と慕ってきた幼馴染が、目の前にいる怪物のリーダーだったという事実を突き付けられてしまえば。


「ユークリッド様の正体が、悠くん……だったってことは、私が今まで共に過ごしてきたのは……」


 暁美悠人が、大切な幼馴染が、自分にとっての英雄が、人間を襲い人間の血を啜る残忍な怪物。

 その事実は、血と殺人を極度に恐れる叶のことを震撼させた。


「だから貴女は、五年前にあたしと悠くんを殺さなかった。悠くんが貴女と同じ吸血鬼で、貴女が慕っていた吸血鬼の主だったから……」

「正解。あの時逃がしたのは、まだ当時はユークリッド様の力が全く感じられなかったし、何よりもユークリッド様が幼い子供だったから。だからフォルは、ユークリッド様が成長して力が蘇る時まで待つことを選ぶことにしたって訳」


 それからフォルトゥナは、愕然と項垂れる叶に対し、フォローのような一言を付け加えて言う。

 全くフォローにならない一言だったが。


「あ、ちなみにユークリッド様……もとい君の幼馴染のユーくんはこの国で再び生を授かった時はただの人間だったよ。ただ、失っていた吸血鬼の真祖の力をほんのちょっと前くらいに取り戻しただけで」


 「ほら、何か変わったことは無かった?」というフォルトゥナの問いが続けられる。

 その際初めて、今までは無視してきた悠人の違和に改めて気付かされたのだった。


「そういえば、悠くんの目の色が、急に黒から赤に……」

「だろうね。深紅の瞳っていうのは外見上において吸血鬼の最もな特徴だし」


 悠人の瞳の色が突然変色したのは、自分と共にとある事件に巻き込まれた時からだろうか。

 事件が起こる前から、彼は急激な体調不良を訴えていた。病院での精密検査では原因不明と断定されたものの、自分自身としては瞳の色が急に黒から赤に変化した理由は、きっと体調不良によって起こされたものなのだろうと思い込んでいた。


 だが、急激な体調不良も虹彩の突然変異も、全てが突然吸血鬼の特性を取り戻した影響なのだとしたら……。


「あたし、この前悠くんと一緒に下校している時に殺人犯に襲われたんだけど、その時からなのかな……悠くんが、失っていたはずの吸血鬼の力を取り戻したのって……」

「殺人犯?」


 フォルトゥナが首を傾げる。悠人が再び吸血鬼となったことに伴い、四使徒たちが日本にやって来たのならば、彼女がこのことを知らないのは当然だろう。

 しかし、フォルトゥナが驚いていたのは事件そのものに関してでは無かった。


「殺人犯……それってゼヘルのこと?」

「ゼヘル……?」


 何処かで聞いたことのある名前だった。

 確か修学旅行の時に、「悠人の昔からの知り合い」と称して観光に同行していた外国人の一人が、そんな名前だったような気がする。


「……まさか、」

「あ、もしかして知ってた? ……まあこっちの仕事の都合上、キョウト旅行中のユークリッド様の監視をやってたらしいし、その時にカナと知り合っても変じゃないか」


 フォルトゥナの発言により、疑惑が確信へと変わる。

 あのゼヘルという名の男は吸血鬼、それもフォルトゥナと同種の「四使徒」であると。


「ゼヘルって人も、ユークリッド様の部下なの……?」

「その通り。ゼヘルもフォルたちと同じく、ユークリッド様に血を与えられ、ユークリッド様に忠誠を誓った四使徒の一人だよ」


 やっぱり、と叶は腑に落ちたような感覚を得る。

 海外なんか行ったことも無い悠人に外国人の知り合いがいたことには、感嘆しつつも何処か変だなとは思っていたものだ。しかし自分が知らない間に、彼らが敵同士として出逢っていたというのならば、「知り合い」という関係性の成立にも納得できる。


 ゼヘルという四使徒の一人が嘘の理由を付けて修学旅行に同行していたのは、どさくさに紛れて悠人のことを吸血鬼の世界に連れて帰るためだったのかもしれない。

 そしてきっと、悠人が吸血鬼として生まれ変わった日に襲い掛かってきたのも……


「ユークリッド様が再び吸血鬼としてお目醒めになった日に、ゼヘルが殺人犯としてカナたちに襲い掛かってきたのは、きっと君のことを一緒におられたユークリッド様に贄として捧げるためだったんだろうね。だって本人がそう言っていたし」

「……」


 まるで他人事のようなフォルトゥナの言葉を、叶は項垂れながら聞く。

 自分の知らない間に、こんなにも吸血鬼の魔の手が幼馴染に忍び寄っている――あらかじめ予期したところでどうにもできないのは分かっている。が、せめて魔の手に苦しんでいた彼を理解できていたらと、叶は人知れず後悔に駆られた。


 だが、そんな風に叶の心が苛まれている最中、


「なお、付け加えるのであれば、遊園地にて貴下を連れ去ったのもこの自分である。貴下には真祖様をおびき寄せるに有用な存在と踏んでな」


 突如差し込まれた、第三者による余計な横槍。

 それが、叶の後悔と愕然をさらに誘い出すこととなってしまう。


「その声、もしかして……」

「流石に覚えていたか。先日相見(あいまみ)えたばかりであったが故であろうな」


 先日会った時と服装は異なっている。白い医療用眼帯は黒の軍用眼帯に、黒いパーカーとジーンズは(いかめ)しい甲冑へと変化していた。

 だがそれでも、赤銅色の長髪と深紅の隻眼を持つ偉丈夫という外見は、先日と全く変わりは無い。


「先日ぶりだな。以前とは異なり、今回の貴下はあくまでも我々の捕虜だ。それをゆめゆめ忘れるで無いぞ」


 男は――ゼヘル・エデルは素っ気無い口調で端的に挨拶をし、そのままフォルトゥナの隣に腰を下ろす。

 突然仲間が帰ってきたことは、フォルトゥナには少々予想外だったらしい。微かに瞠目しつつ、彼に向け首を傾げる。


「あ、ゼヘルいたの?」

「数分前より帰還していたが故。貴下たちの会話内容の一部始終も聞いていた」


 ゼヘルは傍らのフォルトゥナを一瞥したが、それだけだった。まだ話の続きだったからだろうか、再び叶へと向き合う。

 当然のように、先ほどまでフォルトゥナがしていた話を掘り返しつつ。


「さて、カナエ・アサウラ。二度も自分に襲撃されておきながら、貴下が何も知ること無くのうのうと生きていられたのは、真祖様が貴下を巻き込ませんと配慮なさっていたからであろう。何はともあれ、真祖様に感謝することだな」

「……」


 愛想も情もほとんど感じられぬ言葉にもかかわらず、自然とそれは叶の胸全体に染み渡る。

 単純に、気付いたからであった。今まで悠人は、自分のトラウマに繋がる引き金が引かれぬよう、隅々まで気を配ってくれていたのだと。恋心が自分からローラへと移り変わった現在となっても、大切な者たちが犠牲にならぬよう配慮してくれていたのだと。


 幼馴染の少年のちょっとした思い遣りを感じ取り、つい嬉しくなってしまう叶。

 が、その思い遣りの裏には絶望に繋がる事実が潜んでいると、この時は全く気付いていなかった。



「でもさ、それってつまり君はユークリッド様に人知れず『お荷物』って思われてた、ってことじゃないの?」



 気付いていなくとも無理やり思い知らされる契機となったのは、フォルトゥナが放ったたった一言。

 それは叶にとって、絶望のどん底に堕とすに充分すぎるものであって。


「それは違う……と、思う。だって悠くんはあたしの英雄として、あたしのことをずっと護ろうとして……」

「違うね。君は()()ローラ・K・フォーマルハウトと違って何も無い。ユート・アケミの幼馴染という肩書きしか無いただの雑魚。だから愛しのユーくんに『護る』という建前で遠ざけられてたんだよ」


 否定するも、フォルトゥナの饒舌が否定を上塗りする。

 今までは弱いままでもよかったのかもしれないし、ローラに劣っていてもさほど気にすることも無かったのかもしれない。が、悠人の心が完全にローラに移ってしまった今では、何とも思わなかった事実が重く心にのし掛かった。


 先ほどまでは幸福な温もりに満ちていた胸中が、今では張り裂けそうなほど痛い。

 希望を奪われ絶望に堕とされ、そうしてとてつもなく苦しい想いを募らせた叶に、今度はゼヘルが追い討ちを掛けてくる。


「可哀想な奴だ。何も持っておらず、弱者であるが故に何も知らずに生かされ、挙句の果てに捨てられたのだろう。友人の聖女のように強く、真祖様と共に世界の裏側に踏み込んで戦うことができていたのならぱ、おそらく捨てられることは無かったろうに」

「え……まさかローラちゃんは、悠くんの正体を……」

「当然のように知ってるよ。だって彼女、元々はユークリッド様をもう一度殺すためにやって来た、対吸血鬼討滅組織の聖女だもん」


 再び話し手に戻ったフォルトゥナが、つらつらと説明する。

 ローラ・K・フォーマルハウトの正体が、この世で唯一吸血鬼の真祖を殺せる存在・クルースニクであるということ。

 彼女が暁美悠人の元にやって来たのは、本当は真祖である彼を指名のために抹殺するためであり、彼の家に居候をしているのも殺す隙を窺うためだということ。

 そして、本当ならば敵同士の二人が現在一緒に協力し合っているのは、「暁美悠人が真祖としての狂気を取り戻す日までは互いに殺し合わず、二人にとって大切な者たちを共に護っていこう」と誓い合っているからだということ。


「で、それが後に二人が恋人同士になるきっかけになっちゃったんだよね。敵同士として戦い合わなきゃいけないって定められているのに相思相愛になっちゃうだなんて……本当に運命っていうのは儘ならないものだよ。フォルたちとしては死んでも認めたくないけど」

「……」


 さらに愕然とせざるを得ない真実を耳に打ち付けられ、叶はとうとう反論の口を失った。


(……知らなかった。悠くんとローラちゃんが、そんな複雑な関係だったなんて)


 道理で、自分が付け入る隙が無いと思った。

 好意的なものでは無かったとはいえ、そもそも二人は巡り会って然るべき関係だったのだ。当然そこに、吸血鬼と聖女の戦いに何の関係も無い自分が立ち入ることなどできる訳も無い。


 だが、只事では無い二人の関係性を知って、部外者はふと思う。

 これを本当に認めても良いのだろうかと。


(本当なら悠くんとローラちゃんは、恋人同士になるのは非常にマズいんじゃ……)


 そう思い抱くや否や、まるで叶の思考を予期していたかのように、フォルトゥナが叶に語り掛ける。


「フォルたち四使徒はね、二人の関係を引き裂きたいんだよ。吸血鬼の真祖ともあろう御方が吸血鬼殺しの聖女と結ばれるなんて在っちゃいけないことだもん」


 その囁くような言葉は、こちらの心をドロドロに蕩かすくらいまでに甘い声音を含んでいて。


「だけど、フォルたちはユークリッド様が恋をなさることそのものを反対している訳じゃない。カナはユークリッド様にとって害じゃないから、カナがユークリッド様と恋人同士になることは許してあげるよ」


 そして彼女は、子供さながらの無邪気な笑顔を浮かべつつ、叶の心に揺さぶりを掛ける問いを投げた。


「カナだって許せないでしょ? 自分のことを差し置いて、互いに殺し合わなきゃいけない二人が恋人同士になっているだなんて」

「……」


 叶は口を閉ざしたまま、ゴクリと唾を飲み込む。

 答える勇気はまだ無かったが、自身の思考はフォルトゥナの話を聞くにつれて、自然と定まりつつあった。


(……全てを知ってしまった今、もう悠くんに『何も知らない少女』として迷惑を掛けることはできない)


 悠人はこの無力な自分よりもずっと重い運命を背負っていた。何も持たない自分の知らない場所でずっと戦い続けていた。

 そんな彼に、いつまでも「大切な幼馴染の少女」という重荷を背負わせることはもう止めよう――世界の裏を知ってしまった叶は、暗々裏にそう決意する。


 特に、「大切な幼馴染にして長年の想い人を殺せる存在」がすぐ間近にいるならば、尚更力の無いままで黙認することはできなかった。


(今は悠くんとローラちゃんは仲良しだけど、いつか悠くんが狂ってしまったら、絶対にローラちゃんは悠くんを殺すんだろう)


 悠人が叶を何が何でも護りたいと思っているのと同じく、叶もまた悠人には何が何でも生きてもらいたいと想っている。


 しかし仮に悠人が狂ってしまった時、ローラは間違い無く殺しに掛かるはず。彼女の謹厳実直な一面を見ていれば何となくでも分かってしまった。

 それでも、例え悠人が狂ったとしても、彼が大切な存在だということに変わりは無い。どのようになったとしても、暁美悠人は暁美悠人なのだ。それだけでも「彼を護るべきだ」という覚悟に足りる。


(悠くんはあたしの大切な幼馴染。絶対に死んでほしくない)


 そう願ったとて、いずれ悠人に命の危機は訪れるだろう。今は彼女面をしているローラが容赦無く殺意の銃弾を放つ瞬間は、きっと遠くない未来に起こるだろう。

 ならば愛しの彼を生かし続けるにはどうしたらいいのか――その答えは自ずと一つしか浮かばなかった。


(だから、それを食い止めるためには、あたしが強くならなきゃいけない。ローラちゃんと同じくらいに……いや、ローラちゃん以上に)


 弱いままでは、愛しい彼を救うことができない。愛することだって赦されない。


 だから彼の傍に寄り添うに相応しい存在になるためには、今までの弱さを捨てなければならない。

 強い精神力を以て、彼と彼に付き纏う困難に向き合うしか、自分にできる(すべ)は無いのだ――。



(あたしが悠くんを護らないと……あたしが悠くんの『英雄』にならないといけない)



 叶の惑う心は、いつしか一つの(しるべ)を定め始めていた。


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[一言] まさか…叶が……?!
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