血塗れた記憶、再び
「五年前、の……!? どうして……!」
あの日見た姿と全く変わらない殺人鬼の姿を目の当たりにし、叶は恐怖に足を竦ませる。
奇術師のような派手な衣装に身を包み、ゴテゴテに装飾されたシルクハットを目深に被った小柄な少女――というよりも幼女。帽子の下から覗く残酷な笑顔と妖しく光る赤い瞳。
あまりにも特徴的な外見を有した彼女は間違い無く、自身の過去の記憶に鮮烈に焼き付いている姿そのものであった。
「だって、あの日のことを誰にも言わなければ見逃すって、そう言ってたのに、」
「あー、そんなことも確かに言ったっけ。だけど、あの時とはちょっと事情が変わったんだよ。あの時だって厳密に言えば『今は見逃してあげる』って言った訳だし」
彼女は特に悪びれる様子を見せなかった。残虐な殺人を犯した人間にはそもそも道徳心が欠けているのだから、このような反応をしても変では無いが。
「あ、フォル自身がカナの名前知ってたからすっかり忘れちゃってたけど、こっちの名前名乗って無かったね。流石にこのまま『殺人鬼』さんって呼ばれるのは嫌だから名乗っとこっと」
怯える叶を無視し、彼女は思い出したかのように口にする。
かと思いきや、くるりとこちらに向き合ってシルクハットを外して、まるで閉園時のサーカスの座長のような挨拶をした。
「はじめまして、カナ。フォルの名前はフォルトゥナ・リート。真祖ユークリッド様に仕える『四使徒』っていう吸血鬼の一人。何卒お見知り置きを……まあ、こんな堅苦しい挨拶するまでも無いけどね」
「吸血、鬼……あの、人間の血を吸う怪物の……!?」
吸血鬼。空想上の生き物。恐ろしい化け物。そんな存在が今、自身の前に脅威として立ちはだかっている。
過去に目の前の彼女が起こした出来事がトラウマと化している叶にとって、血や死やオカルトは恐怖を誘発する最大要因。当然、その一単語だけで全身が竦み上がってしまった。
「うん、そう。フォルは吸血鬼。それもとっても恐ろしい……ね」
恐怖のあまり腰を抜かしてしまった叶に、「都合がいい」と言わんばかりに言葉を続けるフォルトゥナ。
「だから、こんな恐ろしい怪物に血を吸われたくなかったら、大人しくフォルの言うことに従ってた方が身のためかもよ?」
「……っ、『言うこと』って、何……?」
「簡単な話だよ。今から黙ってフォルに攫われてほしい――ただそれだけのね」
「……え、そんなのって……」
ずっと青褪めていた叶の顔面がさらに蒼白になる。
運悪く遭遇してしまった怪物、五年前にこちらにトラウマを植え付けてきた殺人鬼に拉致される――そんな悪夢的な状況に晒され、今にも逃げ出したい気分に駆られた。
が、身体が脳の指令を受け取ってくれない。恐怖に震え上がった足は立つことも歩くことも拒否していた。
(嫌だ、怖い、助けて、悠くん……!!)
子羊のように怯える叶に、フォルトゥナはあくまでも言葉だけは優しげに語ってくる。
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど、フォルの言うことを素直に聞いてくれたら命は保障するから。それに――」
さらに彼女は、まるでこちらの先ほどまでの思考を見透かしていたかのように、叶の精神に揺さぶりを掛けるかのような甘い誘いを口にした。
「――きちんと従ってくれた暁には、君が心から望んでいるものを手に入れられるチャンスをあげる」
「……!」
「あは、その反応から見るにとびっきりの朗報だったみたいだね? でも、そりゃあそうだよね? だってその『心から望んでいるもの』は、君が幼い頃からずっと心を寄せている幼馴染の男の子なんだもんね?」
ずっと心を寄せている幼馴染の男の子。ずっと英雄として傍にいてくれると想っていた少年。こちらに心が無いと分かっていながらも諦め切れなかった彼。
喉から手が出るほど恋焦がれていた存在が手に入るかもしれないと考えると、自然と恐怖と嫌悪が好奇心と歓喜に塗り替えられていく。
「……その、幼馴染の男の子って、」
「君の想像の通り、『ユート・アケミ』っていう男の子のことだよ。君の幼馴染、君の理解者、君の英雄――そんな彼の心を掴むこと、心から望んでいたんじゃない?」
「……あたしが、悠くんを、」
一瞬、踏みとどまる。
「相手が大切にしていた縁を自分のエゴで断ち切るのは相手の幸せを奪うことと同様」「自分の幸せのために誰かを不幸にしたくない」と、かつて悠人のことを諭した自分が、言ったことと真逆の行動を取ってしまうのは何たる卑怯。
自分のエゴに走らず自分の力で振り向かせると決めたのに、今さらになってそのポリシーを放棄することが間違っているとは、今でも叶は分かっていた。
なのにどうして、今ではかつて口にした想いを撤回し、誰かの幸せよりも自分の幸せを優先しようとしているのだろうか。
フォルトゥナに生命の手綱を握られているから? それとも、かつて悠人を諭した言葉は本音を殺した建前でしかなかったから……?
と、徐々に意思を曲げていく叶に、フォルトゥナはさらに堕落へと誘い掛ける甘い言葉を述べた。
「安心しなよ、カナ。君の心からの想い人のユーくんのことは、必ずやフォルたちが君の望む通り、誰の想いも傷付けられない方法で君との縁を結んであげるからさ」
目の前の怪物が並べ立てる甘美な誘惑の数々に叶の拒絶の意思は封じられつつあったのだが、その言葉を最後に抵抗感がポキリと折れた。
(本当に、いいの……?)
自分と相反する悠人の想いを踏みにじる行為がいけないことだとは分かっていた。
ローラと悠人の関係を引き裂いてでも悠人の心を奪うことが卑怯で最低な行為だということも分かっていた。
それでも、敗北者の自分が再び彼を好きになることが許されるならば、何処までも貪欲かつ非情に愛に溺れることができるような気がした。
(こんなあたしが、もう一度……悠くんを愛しても、いいの……?)
今目の前で誘いを投げ掛けている少女がどれほど恐ろしい存在なのかは知っていた。
きっとこれも五年前と同じような惨劇に直結する悪魔の誘いなのだろうということも知っていた。
それでも、一度は諦めた恋心を再び燃やすことが許されるというならば、その悲劇や絶望すらも甘んじて受け入れることができるような気がした。
(もし、ローラちゃんが傷付かない方法で、悠くんの心を掴むことができるなら、あたしは……)
だから、浅浦叶は選ぶ。
――ごめんね、ローラちゃん。こうしてでも悠くんのことを手に入れないと気が済まなくなっちゃったあたしは、結局ずるくて弱い子なんだ……。
大切な友人への大きな罪悪感を胸に、叶は眼前にてにんまりと嗤う吸血鬼の手を取った。
取って、しまった。
「……分かった。それで、みんなが救われて、あたしも救われるのなら……」
*****
「ローラ……!?」
「……む、貴君も来たのかね」
夜戸市街に突如漂った、濃くて強い吸血鬼の気配。
それに誘われるかのように、とりわけ気配の強い現場へと赴いた悠人とローラは、偶然にも当の場所で鉢合わせすることとなった。
「やっぱりお前も感じたんだよな?」
「当然だ。近くに吸血鬼が出たとなれば、クルースニクとして黙っては置けん」
戦士のごとき顔付きとなったローラは、銀灰色の瞳を鋭く細めながら周囲を見渡す。
「ましてや、カナエが外に飛び出したままの状態だ。尚更警戒するべきであろう」
「分かってる。一刻も早く街に潜伏している吸血鬼を倒して、いなくなったカナのことを探さないと……」
悠人もローラに同意する。
今頃叶は吸血鬼に襲われそうになって震えているのかもしれない。否、実際に襲われているのかもしれない。そう考えると、悠人は居ても立ってもいられなかった。
過去に何度も叶を吸血鬼絡みの事件に遭わせてしまっている身としては、被害が出る前に襲撃を未然に防がずにはいられない。事が起こってから対処に当たるのでは無く、起こる前に護ることができなければ「英雄」としての意味が無いではないか。
「とにかく、この辺りから吸血鬼の気配を強く感じるから、この辺りを虱潰しに――」
切羽詰まる想いに駆られながら、悠人は現在地からまっすぐ伸びる道路の先に視線を向ける。
が、その時、平和な住宅街には絶対に在るはずも無い違和が視界に直撃した。
「――ローラ、あれ……」
「ああ、おそらく一枚噛んでいる可能性は高いであろうな」
ローラもまた、悠人と同じ方向に視線を向け、銀灰色の瞳をさらに鋭く細めた。
彼女の瞳の中にもきっと、悠人と同じものが映っていることだろう。
「流石は真祖様、お気付きになりましたか」
悠人たちの視界の遥か先で、道のど真ん中を陣取って佇む、黒い鎧に身を包んだ赤毛の偉丈夫が。
「しかし残念でしたな。貴方様が求めておられる者は、先ほどまでは確かにいましたが、現在はここにはいませぬぞ」
まだ昼間だというのにもかかわらず、すでに強大な吸血鬼特有の禍々しい気配を匂わせる彼が、悠人たちを一瞥しニヤリと笑む。
それを捉えた瞬間、悠人の身体は反射的に動いていた。
「ゼヘル……お前……っ!!」
「ユート! 待たんか!」
ローラの制止の声は聞こえない。
湧き上がる怒りに身を任せ、悠人は眼前に佇む強大な吸血鬼――四使徒の一人ゼヘル・エデルの元へと向かい、そのまま彼の胸倉を掴んだ。
「答えろ!! カナに何をした!!」
「特に何も致してはおりませぬが」
「しらばっくれても無駄だ!! どうせ彼女に何かしらの危害を加えたんじゃないのか!?」
「否、邂逅こそはしましたが、特段に危害は加えておりませんとも」
何者よりも敬愛せし主君に怒鳴られようが、ゼヘルは涼しい顔。だが僅かに、聞き分けの悪い主を軽く嘲笑うかのような笑みを口の端に乗せていた。
しかし、主を前にこれ以上隠し事はできないと判断したのだろう。ゼヘルは嘲笑を浮かべたままで言葉を続けた。
「カナエ・アサウラ……真祖様がお求めの彼女ならば、つい先刻この近辺にてフォルトゥナ殿と共に行動しておりましたが故、自分としても充分に存じ上げております」
「な、っ……!」
自身の幼馴染の名前と別の四使徒の名前が同時に出た途端、ましてや絶対に交わることの無い二人が共に行動していると耳にした瞬間、ますます悠人は激昂する。
「カナとフォルトゥナって……つまりそれってアイツがカナのことを拉致したってことと同じだろうが!!」
「拉致……と仰るのであれば、おそらくそうなるのでしょうな」
「分かっているなら早くカナを返せよ!! フォルトゥナはお前の仲間だろ!? だったらさっさと――」
「誠に申し訳ございませんが、いくら崇高なる真祖様のご命令であれど、今回ばかりは聞く耳を持てませぬな」
怒りに我を忘れ絶対服従の力を声に乗せ忘れたというのも理由の一つであったのだが、今回のゼヘルは至高の主の命令を頑なに聞こうとしていない。
その訳に関しては、彼本人が自ずと語り始める。
「彼女の存在は今後の我らの計画において必要不可欠。然るべき時が来るまでは、貴方様の元へはお返しする訳には行きません」
「然るべき時……どうせ俺がお前ら四使徒の元へと戻ってきた時、とでも言うんじゃないだろうな?」
「半分は正解にございます。確かに我らが四使徒としては、一刻も早く真祖様にお戻りになって頂きたいというのは事実。ですが今回においては、単に真祖様が帰還の意志を見せただけでは返せぬのです」
そしてゼヘルは、四使徒としての凶悪性を全面的に押し出した笑みを浮かべた状態で、悠人に一言告げた。
「何せ彼女には、これから我らが四使徒が真祖様に持ち掛けんとしている『ある賭け事』の景品となって頂こうと考えているのですから」




