小さな亀裂
母親から後味の悪い忠言を受けた後、悠人とローラは冷泉学園高校へと登校する。
いつもならこの登校風景には幼馴染の叶が加わっているのだが、今日は朝練で先に学校へ行っているとのことでこの場には混じっていない。
が、今日に至ってはむしろ叶はこの中に混じっていない方がちょうどいいのかもしれない。
(……カナは、俺とローラが付き合い始めたって知ったら、どういう反応するのかな)
「少しは叶の想いも大切にしろ」という母からの忠告を思い返しつつ、悠人は煩悶と思考する。
自分自身でローラへの恋心を自覚した際、叶にはきちんと「ローラが好きだ」という旨を伝えてある。だからきっと大丈夫。叶は両想いになったことを素直に受け止めてくれる。
大丈夫……なはずだ。
(……いいや、それが何だっていうんだ。きっとカナなら分かってくれる。だからあんまり気にするな、俺)
ざわつく心を落ち着かせるべく、悠人は大きく深呼吸。
強引に惑いの感情を振り払い、心機一転学校を目指して歩みを進めた。
「……ユート?」
悩ましげにそわそわするこちらの様子に怪訝な表情をするローラのことは、あえて見ないようにした。
*****
だが、教室に入った途端、
「出たぞ! リア充だ!」
「オレらのローラちゃんを奪いやがったな暁美!」
「羨ましすぎるぜこの野郎!」
――何故、ローラと付き合い始めたことが知れ渡っているのだろうか。
男女問わず一斉に突き刺さる視線に、悠人もローラも困惑した。
自分たちが恋人同士になったことを知っているのは両親と冷泉院家の面々だけのはず。加えて冷泉院家の者たちはそのようなことを言いふらすような人柄では無いはず。
一体誰が、そのような情報を何処で掴んだというのか。
「……貴君ら、何故知っているのかね?」
我慢ならなかったのか、ローラが鋭く尖った問いを切り出す。
と、クラスメイトの一人が携帯電話の画面をこちらに向け、興奮したように返答してきたのだった。
「これ。うちの学校のネット掲示板にこんなスレッドが立っていたんだってさ」
「……ネット掲示板?」
というか、そのようなものがあったのか。ローラはともかく、一年半くらい冷泉学園高校に通っている悠人でも初耳の情報だった。
怪訝な顔をしつつも、悠人とローラは携帯電話の画面の中の「冷泉ちゃんねる」という名のサイトを覗き込む。
そこに載っていたスレッドのタイトルは――
「――『【悲報】二年E組の暁美が噂の留学生美少女と恋人同士になったらしいんだが』……!?」
「そうさ! 匿名だから誰が書いたかは謎だけど、昨日の深夜にお前とフォーマルハウトさんが夜道で逢い引きしているっていう情報がリークされたんだよ!」
そこでまくし立てたのが、かの悠人を一方的に憎んでいるクラスメイトの一人・神谷貴幸だった。
「お前! とうとう俺らの女神に手を出しやがったなこの節操無しイケメンが!」
「……女神? ローラが?」
「フォーマルハウトさんの何処が女神じゃないと言うんだお前は! 真珠のようにすべすべの肌! 絹糸のようにさらさらの髪! ダイヤモンドのようにキラキラ輝く瞳! それらを兼ね揃えた美しすぎる美少女は女神以外の何者でも無いだろうが!!」
「……ローラの外見しか見てねえな、お前」
呆れた。
自分がローラを選んだ理由は外見では無いというのに。
「ともかく! 暁美みたいな顔だけの根暗が俺らの女神と付き合うなんざ認められねえ! 大人しく身を引きやがれ!」
「いや、そんなこと言われてもだな……」
「そうだ。ユートの言う通り、第三者に私たちの恋路についてとやかく言われる筋合いは無いのだよ」
どうやって興奮している神谷を説得するものかと渋っていた悠人に寄り添うように、今まで口を閉ざしていたローラが言葉を発した。
二人の仲の良さを見せつけんと、隣の悠人の肩をそっと自身に引き寄せつつ。
「ユートは私自身が見込んだただ一人の男――言い換えるならば、ユートは私が惚れた男ということだ。彼にしつこくせがまれ渋々恋人同士になったという訳でも無ければ、私が彼に身体を売ったという訳でも無いのだよ。そこだけは分かってもらいたい」
「で、でもフォーマルハウトさん……」
「黙れ。女子に二言は無い。それほどまでに理解しないというのならば、こちらにも策がある」
自信満々といった風に笑いながら、ローラが悠人の身体を自身と向かい合わせ、そのままぐいと至近距離に引き寄せんとする。
これから彼女が何をしようとしているか。それは悠人にも、周りのクラスメイトたちにも理解に容易いことで。
「ま、待てローラ。流石にそれはまだ早いんじゃないか……?」
「何を言う。恋人同士であることを証明するのにはこれが一番手っ取り早い。ラリッサ・バルザミーネも愛を証明するために行っていたことではないか」
「だけどそれは普通ある程度親密度を高めてからする行為だ。いくらローラのことを愛しているからといって早くもそれに及ぶことは許さないぞ」
「何と……ユートは私からの愛の証明が嬉しくないと……?」
「いや嬉しい。ローラに愛されているんだなって思うとすごく嬉しい」
「成程。ならば尚更受け入れるべきだ。大人しくしていたまえ」
「だから! それはまだ早すぎ――」
その時のことだった。
――ガラッ
開けられる教室の引き戸。
そして教室の入口で愕然と立ち尽くす、小柄で可愛らしい童顔の少女。
今朝から朝練でずっと姿を見せなかったが故に、この時を以て初めて悠人とローラの関係性の変化を知った、悠人の幼馴染。
「……」
「……カ、ナ……」
先ほどの喧騒が嘘のように静まった中、悠人は振り絞るように彼女の名前を呼んだ。
すると、名を呼ばれた幼馴染の少女――叶ははっと目を瞬かせ、小さく儚げに笑った。
「あ……そっか。二人とも、ついに両想いになったんだね。おめでとう」
笑顔で祝福の言葉を送った叶だが、目は全く笑っていない。丸い瞳の中には、切実な想いが粉々に砕けたことに対しての絶望と悲哀が刻み込まれていた。
そんな虚しい姿の幼馴染をそのままにしておくことができなかった悠人は、反射的にフォローの言葉を入れる。
「あ、ごめん、カナ……これはその、ちょっとした不手際みたいなもので――」
「いいよ別に。恋人同士なんだもん、そういったことをするのは別に変じゃないから。もちろん、あたしも何とも思ってないよ、うん……」
作り物のように不自然な笑みを浮かべた叶は、クラスメイトたちにくるりと背を向け、逃げるように教室を去っていった。
始業の時間になるまでもう幾許も無いというのに。
「……」
先ほどまでの賑やかさは何処へやら、完全に沈黙する教室内。
僅かな物音を立てることさえも憚られるような静寂が続く中、ややあってローラが小さく謝罪を述べた。
「すまない。私の浅慮な行為のせいで……」
「……ローラが謝ることじゃない。これは紛れもなく……俺のせいだから」
そう。一番悪いのはこの自分。
ローラを愛しつつも叶の想いも尊重していたつもりを装いながら、実際はローラへの想いにかまけてばかりで叶の本心を何ら理解しようとしなかった、この自分が誰よりも一番悪いのだ。
『あたしのことを護ることができなかったんだとしても、あたしの傍にいてくれる限り悠くんはあたしにとっての英雄。そのことを忘れないでほしい』
ふと、場違いのように以前叶から伝えられたことを今さら思い出す。
ずっと傍で護る「英雄」でいようと誓ったはずだった。ローラに心惹かれていても叶の想いも絶対に尊重しようと誓ったはずだった。
なのに、その誓いをすっかり忘れてしまっていた。ローラに深く強く愛情を抱くほど、いつしか叶の存在が自分自身から度外視されていた。
(カナとローラのどっちかしか大事にできないなんて……結局今までと同じじゃねーか……)
気付けば、始業のチャイムが鳴り響き始めていた。
だが悠人には、その割れた音色がやけに遠くから聞こえてくるように感じた。




