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愛する覚悟

「――さてと、大体の経緯は霧江たちから聞いているわ。だから改めて説明し直さなくても結構よ」


 霧江と海紗を客間から退けた後、やおらひかりは牽制するように言った。

 その口振りは、何処か苛立っているようで。


「単刀直入に言うわ。私、貴女にかなり怒っているの」


 間髪入れず、ひかりはローラに詰め寄った。

 ベッドの傍らに設置されている一人掛けのソファーに腰を下ろし、こちらを鋭く睨み付けてくる。


「暁美くんの一件を後悔する気持ちは分かるわ。自分の軽率な行いが取り返しの付かない事態を引き起こしたのならば、私だって平然とはしていられないもの」

「では……」

「だけど貴女、いつまで尻込みしているつもりなの?」


 その一言が、ローラの胸を深く抉り取った。


「私と初めて出逢った日、貴女に向けて言った言葉を覚えているかしら?」

「それ、は、」

「『貴女は、世界に背くことだと知っていても、吸血鬼の真祖と友情関係になることを選んだのでしょう? だったら貴女には全てを犠牲にしてでも彼を愛することのできる覚悟があるはず』――そう私は言ったのに、信じていたのに。今の貴女はそれをすっかり忘れているじゃないの」

「だ……だが! 私は彼奴(あやつ)のことはまだ共闘相手だと思っていて――」

「じゃあどうして暁美くんのことを跳ね除けたのかしら」


 必死の反論は虚しく散る。

 苦し紛れの言い訳をする聖女を、ひかりは冷たい視線で見つめていた。


「私が言った『覚悟』というのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その人のことを想い続けなさいということ。だけど貴女は聖女として清く生きることへの執着を捨てきれなかったから、覚悟を捨てて彼から手を切ることを選んだ。彼を裏切ったのも同然よ」

「しかし、裏切ったというのはユートも同罪だと私は思った。彼は私との約束を破り、第三者を快楽心により(あや)めたのだから……」

「そう……否定するのね」


 意固地なローラを憐れむ彼女は、口から重い溜め息を零し、


「その殺人の動機は、貴女のことを一途に想う暁美くんの『覚悟』だったというのに」

「……」


 分かってはいたものの見ぬ振りをしていた事実を再確認させられ、ローラは思わず口を噤んだ。

 脳裏には、血に塗れた姿で悲痛に訴える悠人の姿が思い浮かぶ。


『……違う、違うんだよ、ローラ……。俺はただ、お前のためを想って……』


 その言葉が繰り返し、繰り返し脳内を循環する。


(……ユートがあのような行為に及んだのは、私のことを護るためだった。なのに、私は……)


 「彼が誓いを破り吸血鬼としての本性を露わにした」という事実だけを勝手に受け取り、強引に縁を断ち切った。

 聖女として正しくあることに執着していたせいで、誓いを破った彼に心から拒絶反応を示した。


 宿敵である彼と心を通わせた時点で、吸血鬼殺しの聖女としての正しさはすでに喪われているというのに。

 真祖に心惹かれても聖女としての矜恃を捨てられなかった自己矛盾が、それを忘れさせていたのだった。


「……分からない」


 気付けば、無意識に正直な吐露を零している。


「今の私にとってのユート・アケミとは……それ以前に吸血鬼の真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムとは一体何なのか、それが全く分からないのだよ。彼は殺すべき敵なのか、それとも愛すべき仲間なのか……」


 今までクルースニクとして、吸血鬼は皆悪い存在だと教え込まれてきた。

 だから当然のごとく、吸血鬼の王たる真祖は一番悪いと思い込んできた。


 しかし、ユークリッドの現代における姿である暁美悠人は、思い込みと何もかも違った。

 基本的には根暗で無愛想、しかしその実は仲間想いでお人好しで優しすぎる彼。想像と大きく違った姿に、最初は苦悩し、だがいつしか関心を持ち、今では心惹かれている。


 それに伴い、自分は暁美悠人が本当は残虐非道な真祖だということを忘れるようになっていたのかもしれない。

 クルースニクとしては恥ずべきことだが、ローラはそう認めざるを得なかった。


「いつしか私は、ユートのことを真祖として捉えることができなくなっていた。頭では理解していても、心が理解することを拒んだのだ。だから、彼がルチアを殺した時、私はユートの真祖としての残虐さを信じられなくなり、それで……」

「それで、暁美くんから手を切ったということね」


 相変わらずひかりは無表情。その裏で彼女が何を思っているのか、ローラには検討も付かなかった。


「聖女たる者として今まで従っていたものと普通の生活を送る中で新しく得たもののギャップが、貴女が暁美くんに取った態度の理由という訳ね」

「……そうだ」


 ローラが項垂れつつも肯定すると、ひかりは「なるほどね……」と冷然な振る舞いをやや崩し、そして不意に提案してきた。


「ならいっそ、聖女としての自分を捨ててしまったらどうかしら」

「な……!?」


 突拍子も無いその発言に、ローラが動揺しない訳が無かった。


「戯けを言うな貴君! 確かに聖女としての気概は私を縛り付けてはいるが、それでもこれは捨てられんものだ!」

「でもそれがあると、暁美くんのためを想って素直に行動することも儘ならないのでしょう? だったらここは、『真祖殺しのクルースニク』ではなく『ただのローラ・K・フォーマルハウト』として覚悟を決めるべきだわ」


 いくら抗議されようと、ひかりは毅然とした態度を崩さない。

 が、常にローラの意見に的確に指摘をした上で自論を展開していた彼女が次に発した言葉は、今までとは少々異なっていた。


「でも、自分の全てを投げ打ってまで大切な人を愛することへの恐怖は分からなくも無いわ。私だってそうだったから」

「それは……クレド・レイゼイインと貴君の関係性の話かね?」

「ええ、そう。私が暮土さんと愛を誓った日の話よ」


 ここでようやく、普段は穏やかなひかりがここまで強固な姿勢を貫いている理由をローラは知った。


 かつて、ひかりの夫である冷泉院暮土が言った。この身が半吸血鬼(ダンピール)であることを知りながらも自身を一生愛すると言ってくれた妻が、世界の理に背いた神の敵になってしまうのには耐えきれないと。

 それに対し、暮土の妻である冷泉院ひかりが返答した。吸血鬼と人間の相の子として生まれたせいで必然的に神に疎まれることになってしまった旦那を、自分は世界を敵に回す覚悟も承知の上で愛してあげようと。


 つまり経緯や理由は異なれど、暮土とひかりの関係性は悠人とローラの関係性とかなり似通っている。

 種族を超えた絆が生んだ障害を経験したものとして、ひかりは現在同じ境遇に陥っているローラのことを放っておくことができなかったからこそ、彼女は今目の前で「愛する覚悟」について真剣に説いているのかもしれない。

 

 世界の理と自身の想いが生んだギャップに悩む少女が、同じ経験をした自分のように、全てを敵に回す覚悟で大切な存在を愛することができるように。


「私だって、時には暮土さんをこのまま愛していいのかって悩んだことはあったわ。マリーエンキント教団の人たちに『早く別れろ』って脅された時は特にね。……でも、それでも私は暮土さんを見捨てようとは思わなかった。恐怖心よりも愛の方が勝っていたんだもの」


 ひかりがそっと胸に手を当てる。「自身の想いは間違っていない」と誇らしげに。

 その姿が、ローラの銀灰色の瞳にはとても鮮やかに映った。


「世界を敵に回す覚悟、教団から白眼視される覚悟、戦いに巻き込まれる覚悟――それら全てを胸に持って、私は暮土さんを愛しようって誓っているの。私には戦う力は無いけれど、大切な人を愛する覚悟があれば、私はどんな困難だって乗り越えられるし、どんな争いの中でも胸を張ることができるわ」

「覚、悟……」


 何度もひかりが口にしていたその単語を復唱してみる。


(そういえば、先刻見ていた夢の中でも、『覚悟』に関する話題が出ていたような)


 夢全体が曖昧な情景ではあったのだが、何故かローラの脳裏には夢の中で()()()が紡いだ一言だけが鮮明に蘇った。



 ――クルースニクの力を強くするために必要なのは信仰心でも従順度でも無い。聖人君子であるか否かを問わず誰かのことを想う強い心、そして自分自身への覚悟なの。



(クルースニクの力に必要な要素は、神への信仰では無く、大切な者を想う覚悟……)


 いつかの戦いで、四使徒にクルースニクの力の弱体化を揶揄されたことがあった。

 いつかの戦いで、半吸血鬼(ダンピール)にクルースニクの力の弱体化を憐憫されたことがあった。

 そんな風に自分の力が弱くなった原因は、真祖に交情を抱いた聖女に神が愛想を尽かしたせいだと思っていた。


 しかし、実際は違う。

 自身の力が弱まった理由は、神に愛想を尽かされていたからでは無かったのだ。


(……私が強さを失った理由は信仰心の欠如では無い。大切な存在のために戦う覚悟が、私には欠けていたからだ)


 悠人と出逢う前は強力な力を有していたが、きっとそれは自分にとっての大切な存在がまだ「神」と「世界」だったから。

 だがこの国で日々を過ごす中で、知らない間に「暁美悠人」が神や世界よりも大切な存在となった。それに今まで気付いていなかったからこそ、自分は今までクルースニクの力を弱めていたのだ。


(今になって、ようやく気付いた。私にとっての、ユートは――)


 これまでは宿っていなかった新たな想いを自覚し、ローラの目が光を宿す。

 確固とした想いが宿った気配を感じたらしいひかりが、頃合いを見計らって問いを投げ掛けてきたのは、ちょうどそんなタイミングにおいてであった。


「貴女だってもう自覚したでしょう? 彼への想いは単純な絆とは違う、熱くて固くて激しいものだって」

「……ああ」

「だったら――その答えがすでに出ているというのならば、どうして彼のことを強く求めているのか、口先じゃなくて行動ではっきりさせなさい。聖女ではなく一人の少女として」

「……」


 ローラは答えない。

 その代わり、掛け布団の縁を力強く握り締めることで、自身の覚悟の意思表示をする。


「……ヒカリ・レイゼイイン」


 ややあってローラは、ひかりの方へとまっすぐに視線を向けた。


「貴君に……否、貴君らレイゼイインの一族に、頼みがある」

「何かしら?」

「私は今度こそユートを取り戻す。そのために、貴君らにできる限りの助力を願いたい」


 静かながらも芯の通った請願に、ひかりは目を瞬かせていたが、


「ええ、もちろん。最大限の力添えをすると約束するわ」


 その返答をした時にはすでに、彼女は冷然とした気配を拭い取り、元の穏やかな笑みを湛えていた。

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