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遥か遠き追憶

*****





 見知らぬ景色。

 にも関わらず何故か懐かしさを感じさせる景色が、視界いっぱいに広がっている。


 「私」はその懐かしき風景を、衝動に駆られるがままにじっと見つめていた。


「……」


 一面に広がる野原。その遥か先に広がる賑やかな街。

 そしてそれよりもうんと遥か先に、「私」の宿()()が住まう居城が聳えていた。


「……Son alliance, c'est ma fiance(彼の人の誓いこそ私の支え)」


 しばし無言で景色を眺めていた「私」の口から、無意識に歌が零れる。


「……Son coeur est mien, la mien est sien(その人は私のもの、私の心は彼の人のもの)」


 それは遠い昔に書かれた愛の唄。「私」が幼い頃より唄い継いできた覚悟の(うた)


「……Fi de Tristesse, Vive liesse puisqu'en amours(悲しみよさらば、歓びよ栄えあれ)」


 そしてそれは、この場にはおらず、どころか出逢うことさえ儘ならない、「私」が()()()()()()へと向けた言葉(うた)だった。


「……j'ai tant de biens(何故なら私は愛の道で大きな幸を()けたのだから)……」


 だが一節を歌い終わった「私」は、幸福的な歌詞とは裏腹な暗い気持ちに駆られる。


 歌ったところで、愛の言葉を囁いたところで、彼が振り向く素振りを見せることは無い。

 むしろ宿敵として、変わらず「私」の存在全てを憎んでいることだろう。


「……一体何を望んでいるのかしらね、私」


 自嘲しても何も起こらない。静寂(しじま)が吹き抜けるだけ。自身が厚く信仰している神からの答えは一切帰ってこなかった。

 だがその代わりとして、自身のことを厚く信仰している一人の男がやって来たのだが。


「こちらにおられたのですね」

「……どうかしたの、ヴァレンシュタイン?」


 動きやすさを重視した軽装をした壮年の男性が、こちらを伺い立てるような声と共に歩み寄ってくる。

 彼――ヴァレンシュタインは、とある傭兵部隊の隊長にして「私」の一番の信奉者であった。何処で出逢ったのかはあまり覚えていないが、それでも長い付き合いであることは確かだ。


 そんなヴァレンシュタインは、きょとんと首を傾げる「私」を見て、はあと溜め息を吐いてきた。


「どうしたも何も……貴女に急にいなくなられたので探しに参っただけのことです。このような何も無い場所で何をしておいでなのですか」

「ああ、ごめんなさい。少し物想いに耽りたくて」

「先ほど口ずさんでおられた唄の歌詞から判断するに、また()のことを考えておられたのでは無いかと推測はしておりますが」


 ヴァレンシュタインは理解し難いものを見るような目付きで「私」を見つめている。

 いつものことだった。敬虔な信徒であるヴァレンシュタインが、「私」が想いを寄せる彼の存在を頑なに憎み、拒絶するのは。


「……少しはご自愛ください」


 やや間を置いた後で、ヴァレンシュタインは微かに怒気を含んだ顔で苦言を呈した。


「彼は貴女が倒すべき敵、神の敵、人類の敵なのです。そのような存在に聖女(貴女)が心惹かれていると天がお知りになったのならば、必ずや神は貴女に愛想を尽かしなさるだろう。それでも良いと仰るのですか?」

「ええ。だってクルースニクの力はその程度では衰えないって信じているもの」


 「私」は即答した。


 彼を愛してしまったのは、確かに世界の理に背く大罪かもしれない。

 でも、「世界の救世主」として間違った道を選んだのだとしても、それでも自分の感情に嘘を吐くことだけはしたくなかった。

 そんな「私」の結論が、このヴァレンシュタインに向けた反論だった。


「おそらく貴方は、クルースニクの力は神への信仰心と世界の秩序に従順である心によって形作られていると思っているのでしょう? でもね、実際には違うのよ」

「違う……とは」

「クルースニクの力を強くするために必要なのは信仰心でも従順度でも無い。聖人君子であるか否かを問わず誰かのことを想う強い心、そして自分自身への覚悟なの」

「……」


 ヴァレンシュタインの目は驚愕に剥いている。

 しかしきっと、心の中では「何を馬鹿なことを……」と考えているに違いない。神に感化されわざわざ改宗したのならば尚更だ。


 それでも「私」は退き下がらない。

 彼のことを想う度に強くなれるという馬鹿馬鹿しい事象には確信があったから。普通の人間ならばまず太刀打ちができない吸血鬼(彼ら)を「私」が圧倒できているのは、きっと彼のことを心の中で激しく想っているからなのではないかと。


「神に愛想を尽かされたとしても私は大丈夫。私には世界を敵に回してでも『彼』のために戦おうっていう覚悟があるから。だから私の力――クルースニクとしての力は、絶対に弱まらない」

「『彼のために戦おう』とは仰っておりますが、彼のことを殺さねば戦争は終結しない。その点については分かっておられるのですか?」


 ヴァレンシュタインが不意打ちのように反論する。


 分かってはいた。

 この戦いは愛しの彼を仕留めなければ絶対に終わることはないと。彼のために戦っても、結局いずれは世界からこの悲惨な争いを終わらせるため、神の命に従って彼のことを殺してしまうのだろうと。


 それならば、「私」は。



「……もし未来の私が、自分の天命に従って、彼のことを殺したのならば、その時は――」





 ――だが、その言葉の続きを聞くことは、()()()()できなかった。







*****





 目を覚ます。


 今自分がいる場所は先ほどまでの広野では無い。

 かといって、最後に意識を失った廃教会の敷地内にいる訳でも無い。


「ここは……屋敷か……?」


 今自分が寝かされているのは、清潔感溢れるとても大きいベッド。ぐるりと辺りを見回してみれば、巨大な風景画やペナントなどの芸術品。一面に広がる大きな窓、観音開きの扉が二つ。何処からどう見ても普通の一般家庭には絶対に存在しない部屋だ。

 どうやらこの貴族の客間を彷彿とさせる豪奢な一室に、何者かの手によっていつの間にか運ばれていたようだった。


 とりあえずもう少し詳しく現状把握を――そう思い身を起こしたローラだが、


「うぐっ!」


 不意に背面に鋭い痛み。結局ベッドの上に再び倒れ込んでしまう。

 その時にローラは、自分の全身に包帯が幾重にも巻かれていたこと、足や手など一部の部位はギプスで固定されていたことを知った。


「……そういえば、そうだったな」


 同時にローラは、ここに運ばれる以前に自分の身に起こったことを思い出す。


「私は……ラリッサ・バルザミーネに殺されたはずだったんだ……」


 骨を砕かれ、内臓を潰され、劇毒を注がれたはずだった。明らかに彼女に殺されたはずだった。

 なのに今、自分はこうして生き続けている。クルースニクの頑丈さが故か、誰かが懸命な治療を施してくれたのか、あるいはその両方か、自分には全く見当も付かなかったが。


 しかし今、ローラは自分の容態のことは全く視野にいれていなかった。


「……ユートは……」


 暁美悠人は、未だ囚われたまま。

 ラリッサ・バルザミーネから、取り戻すことも能わなかった。


 自分が弱かったせいで、自分に覚悟が無かったせいで。


「……っ……」


 拳を握り締める。ギリギリと、血が滲むほどに。 

 己の弱さを思い出す度に、ローラの胸中は後悔と屈辱に支配された。


「……我ながら、情けないな……っ」


 振り絞るように、悔し涙と共に独り()ちた。

 その時のこと、


「目を覚ましたか」

「何はともあれ、ひとまず意識を取り戻しただけでも何よりですわ」


 部屋に入ってくる一組の少年少女。眼鏡を掛け前髪を七三分けにした少年、日本人形のように艶のある髪を持った少女。共通して藤色の瞳を有する者たち。

 性別こそ違えど非常に似通った顔立ちをした彼らは、冷泉院家の双子の兄妹に間違いは無かった。


「貴君ら、何故……」

「分からないか? 今お前が寝ている場所は冷泉院家(俺たちの家)の一室なんだが」


 確かに、この豪華な内装の部屋が冷泉院家のものだというのならば納得が行く。夜戸市一の名家ならば、こういった客間の一つや二つあっても異論は出ないだろう。

 しかし問題は、何故自分が冷泉院家に運ばれているということで。


「これは一体どういうことなのだね? 私が意識を取り戻すまで何があった?」

「フォーマルハウトさん、貴女は夜戸市内の旧教会の敷地で倒れていたんです。それもかなりの重傷を負って」

「ああ。骨折が数十箇所、出血過多、内臓損傷、重度の中毒症状……あれは死んでいてもおかしくは無かった。こちらが懸命の治療を施したとはいえ、一週間で目を覚ましたのはかなり奇跡的だ」

「一週間……!?」


 もうそれほどの時間が経過していたというのか。

 愕然とするローラの傍らで、霧江は機械のように淡々と残酷な真実を告げる。


「繰り返すが、死んでいても不思議では無いほどの重傷だったからな。父さんの知り合いの名医を全国から掻き集めて治療を施してもなお、無事に意識を取り戻すかは一縷の希望に過ぎなかった」

「……」


 たかが一人の少女のために全国の名医を集結させた冷泉院家の本気具合に、ローラは驚きを通り越してむしろ呆れ返る。

 そんなローラの反応は見越していたのだろう。霧江は溜め息を吐きつつこちらを一瞥した。


「何故そこまで冷泉院家(俺たち)が躍起になっているのかとでも言いたげな顔だな、フォーマルハウト」

「……ああ。貴君らの父親は――クレド・レイゼイインは、私と私が所属する組織をひどく嫌悪していたというのに」

「簡単な話だ。お前が死ねば今は大人しい暁美が再び吸血鬼の王として暴走した際に止める奴がいなくなるという、そんな合理的な理由に決まっているだろう」

「アケミ……そうだ、ユート……!」


 看過できない存在の名を再び思い出し、堪らず起き上がるローラ。しかしやはり激痛によって行動を阻害されてしまう。


「ああっ、無理して起き上がったら駄目ですよ!」

「そうだぞ、フォーマルハウト。それに俺たちも暁美の現状は存じている。焦る気持ちはお前と同じだ」


 慌てて制止する双子。ローラは歯を砕けんばかりに食いしばりつつ、渋々元のベッド上の定位置へと戻った。


「それよりも貴君ら、ユートの現状を存じているのかね?」

「はい。貴女のことを回収したエルネさんが概ねの現状を把握していたそうです。どうやらお昼休みに吸血鬼の力が発動した気配を感じたとか」

「だが兆候そのものは、暁美が攫われた日に俺も薄々察していた。暁美を狙う吸血鬼たちの動向を俺たちがもっと早く察知できていたのなら、このような事態は防げたのかもしれんが……」

「……否、全ては私のせいだ」


 震えた声で、ローラが(ほぞ)を噛む。


「こうなってしまった原因は全て私にあるのだよ。私が彼を敵として拒絶しなければ、罪を犯した彼を赦すことができていれば、この最悪の展開は起こらずに済んだ……否、それ以上に……」


 言葉が止まる。喉に(つか)え上手く発することができなかった。

 が、それでもローラは吐露をする。してしまう。



「……私が、ユートのことを、心から慕わなければ、敵同士のままでいたのならば――」


 

 ――そうすれば、こんなにも心苦しくはならなかったのに。


 と、口にすることはできなかった。



「――それは聞き捨てならないわ」



 ハッと客間の入り口に顔を向ける。

 そこではいつの間にか、新たな人物が介入を試みようとしていたのだから。


「ごめんなさい、霧江に海紗。この子と二人だけで話したいことがあるから、少しだけ席を外してくれないかしら?」


 黒い髪を後方で緩く結った、とても落ち着いた佇まいの女性。見た目は若々しくありながら、熟成された深みのある雰囲気を纏わせた女性。


「貴君は、クレド・レイゼイインの……」


 冷泉院家の奥方・冷泉院ひかりがローラたちの前に現れたのだった。

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