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鏡界線の住人

「……は……?」


 笑顔のまま鋭い一言を口にした幼馴染を前に、暁美悠人は固まっていた。


「何……言っているんだよ、叶。何処からどう見ても俺だろ……?」

「うん。確かに見た目は悠くんそのものだよ。綺麗な黒髪も、ちょっとだけ悪い目付きも、イケメンさも、身長の高さも、若干猫背気味なところも」

「じゃあ、どうして……」

「見た目はもちろん、若干違和感はあったけれど性格や考え方も完璧に悠くんだったと思うよ。……たった一つの間違いを除いたらね」


 いつしか笑顔を消し鋭い表情となっていた叶は、たった一言の答えを告げる。



「本物の悠くんなら、あたしのことを『叶』じゃなくて『カナ』って呼ぶはずだから」



 回答が為されて五秒、十秒と経過し。

 暁美悠人は――否、暁美悠人()()()()()()()は。




「……参ったなあ。流石にそこまでは()()も想定していなかった」




 悠人のものとはまるで異なる、アルトともテノールとも取れない中性的な声音を放った。


「……え」

「ただの少女だと思って侮っていたけれど、どうやら想像以上に厄介な存在だったようだね。ぼくたちの仕事を妨害する可能性を秘めているくらいには」


 暁美悠人の皮を被った暁美悠人では無い誰かが、叶の至近距離にそっと進み寄る。そのただならぬ様子に恐怖を覚えた叶は、反射的に立ち上がり後ずさった。


「こ……来ないで!」

「それは無理だよ。ぼくたちの邪魔になると分かった以上、君のことを見過ごして置く訳にはいかないんだ」


 彼は嗤いながら腕をまっすぐ伸ばし、叶の細い首筋を簡単に掴み上げた。当然、小柄で体重の軽い叶の身体は宙に浮く。


「うっ、ぐ……う……!」


 男性特有の剛力によって気道を締められ、それによって生じた息苦しさから叶はじたばたともがく。

 そんな(獲物)を前に、悠人そっくりの姿をした彼は、さも可笑しげにまた嗤った。


「すまないね。君には恨みは無いけれど――」


 そして彼は、意識を朦朧とさせる叶の身体を自分の元へと引き寄せ、彼女の細い首筋に牙を――






『――Dona eis requiem sempiternam(彼らに永遠の安息を与え給え)!』






 ――間一髪、間に合った。


 弁当ではなく銃剣を手にしたローラ・K・フォーマルハウトは、暁美悠人()()()()()()()()()()()()に一発の銃弾を放つ。


「うわっ」


 敵は即座に避けたが、驚きのあまりか手中から叶を取り逃してしまう。その隙を見逃さず、ローラは崩れ落ちた彼女を咄嗟に受け止める。

 そのついでに、叶の背中にそっと手を押し当て、対象を眠りに堕とす神術を()び起こす。発動と共に彼女の苦悶の表情は穏やかなものへと転じ、やがてすぐに安らかに微睡(まどろ)んだ。


 そして、眠る叶を安全な場所へ避難させた後、ようやくローラは敵に向かい合う。

 彼はローラのことをじっと見据え、そして小さく笑った。


「――ああ、やはり戻って来たか」


 刹那、今まではあちらこちらに満ちていた人の気配という気配が、一斉に学園中から消失した。


「なっ……!?」


 無意識に背後を振り向くローラ。

 するとどうだろう、安全圏へ退避させたはずの叶の姿すらもこの場から消え失せていた。


「何をした!?」

「ただぼくと君を異空間へと転送しただけさ。他の生徒たちは元の世界で引き続き普通の日常を過ごしていることだろう」

「異空間だと? 先ほどと光景は何も変わってはいないではないか」

「いいや、変わっているさ。そこの時計の文字盤を見てごらん」


 そう言って敵は、中庭の中央部に屹立する大時計を指差す。彼の言動を不審に思いつつ、ローラも釣られるようにそれを見た。

 そして敵の思惑通り、ローラは驚愕する。


「何……!? 文字が、反転して……!?」


 文字盤の(じゅうに)(ろく)の位置は全く変わっていない。だがそれ以外の文字が、そして針が現実のものと反対になっている。具体的に言えば、普通ならば(さん)の文字が書いてある箇所に(きゅう)が、Ⅸが書いてある場所にⅢが書いてある――そんな風に。

 まさかと思いつつ、慌ててローラは周囲を見渡す。と、真っ先に目に入ったのは、先ほど叶が陣取った木陰の下のベンチが、樹木ごと反対側の位置に移動している光景であった。


 つまり、この世界は――


「全てが反転した世界、だというのか……!?」

「そう。強いて言うならば、ここは『鏡の中の空間』だけどね。ほら、鏡は物事を全て反転させて映すだろう?」


 未だ暁美悠人の皮を被ったままの敵は、いつの間にか文字盤が反転した大時計の上に立っている。

 まるでこの世界の全てを展望するかのように、とても満足げに、誇らしげに。


「この世界を作り上げたのは、何を隠そうこのぼくさ。鏡の性質を操る異能――『鏡界線(アウス・デム・)の住人(シュピーゲレン)』を有する吸血鬼である、このぼくがね」

「『鏡界線(アウス・デム・)の住人(シュピーゲレン)』だと……!? ならば、貴様は……!」

「あは、流石にマリーエンキント教団には名が通っていたか。ならば、もうユークリッド陛下の姿をお借りしたまま君と相対する必要も無さそうだ」


 そして彼は、とうとうローラの前で化けの皮を剥がした。


「君は既知のようだけど、改めて自己紹介させてもらおう。ぼくの名前はリタ・ベーレント・トロイメライ。四使徒ラリッサ様の腹心の配下さ」


 黒髪赤目の美少年の姿は、もう目の前には無い。その代わりとして新たに現れていたのは、蒼銀の髪と深紅の瞳を持つ長身の人物であった。

 大きく広がった裾の先に二つの大きなリボンの切れ端が付いた奇抜な白コートを纏う姿は、まるで海面を漂うイカのよう。

 しかし容姿においてそれ以上に特徴的なのは、口調も身なりも男のようだが身体付きは明らかに女性のものだということだろう。凹凸がはっきりしているしなやかな肉体も長く伸びる睫毛も、よほどの運命の悪戯が無ければ女性にしか成し得ないものだ。


 そんな容姿的特徴を持つ彼――否、女性ならば「彼女」とするべきか――は、未だ大時計の上から飛び降りない。文字盤の頂点に器用に立ちながらつらつらと語るのみであった。


「ぼくがユークリッド陛下を装っていたのは、本物のユークリッド陛下がいきなり行方知れずになられたということを周囲に悟られないようにするため。そしてユークリッド陛下に何事も無かったと安心するクルースニク――つまりは君のことを油断させ、隙を突いて殺すためさ。予想外の介入で呆気無くバレてしまったけれども」

「では、本物のユートは何処に……!」

「それは言えないなあ。ラリッサ様から口封じをされているんだ……尤も、ここでぼくを倒すことができたのならば話は別だけど」

「くっ……ならば話は早い! クルースニクとして貴様をここで仕留めるのみだ!」


 こちらを翻弄するリタへの苛立ち、ラリッサの蛮行を赦してしまった自分への怒り、そして悠人に本当の想いを伝えることができなかった虚しさ。

 募りに募った感情を発散させるべく、ローラは砲撃を放った。


『Agnus Dei,qui tollis peccata mundi,dona eis requiem sempiternam(神の小羊、世の罪を祓われし御方よ、彼らに永遠の安息を与え給え)!!』


 銀の閃光が一直線にリタに向かう。

 彼女に避ける気配は無い――ように見えるが、どうせ寸でのところで避けるつもりなのだろう。一体何処まで翻弄すれば気が済むのだろう。


 だが、現実はローラが想像したよりもさらに斜め上の方向へと向かう。


「あ、そうそう。ぼくは実戦は苦手だからね。素敵な騎士(ナイト)を用意しているんだ」


 ローラの推測通り、リタに被弾することは無かった。

 しかし、リタは能動的に回避した訳では無かった。


 砲撃を阻んだのは、雲一つ無い秋空の中突発的に発生した、渦を巻き荒れ狂う暴風。


「――まさか、」


 ローラの背筋を悪寒が這う。

 戦においてこのような一手を使う厄介な吸血鬼の到来が、自ずと予期されてしまったから。


 ややあって暴風は止む。

 それと反比例するようにして現れたのは、やはりローラの予想した通りの男であって。



「やっほー。数日ぶりだね、クルースニクちゃん」



 こちらの鼓膜に不快感を残す、底抜けに明るく飄々とした声。

 前髪の上に古めかしいデザインのゴーグルと薄汚れたカッターシャツとベスト、擦り切れた黒い外套という、時代錯誤にも程がある古びた服装。そして背負った大鎌。

 たった数日前に見たばかりの忌々しい姿が、再びローラの眼前に現れていた。


「ダインスレイヴ=アルスノヴァ……っ!」

「イエース! みんな大好きフリーランス吸血鬼ダインちゃん、呼ばれて飛び出てただいま推参ですよー!」


 相変わらずの耳障りな言い回しだった。思わず舌打ちが漏れてしまう。


「確か貴様は第三者の依頼でのみ動く吸血鬼と聞く。要するに貴様がこの場にいる理由は、『助勢してほしい』という依頼をリタ・ベーレント・トロイメライないしラリッサ・バルザミーネから受けたからなのかね?」

「あれ? 知らないの? ……あ、よく考えたら僕自身からは何も言ってなかったっけ。それでも真祖様からも聞いてないだなんて驚き……」


 ダインスレイヴはローラの反応に目をぱちくりさせていたが、すぐさま「これは好機」と言わんばかりに口の端を釣り上げた。


「まあもう()()()()()()()し、言ってもいいか。僕は最初からラリッサ様の依頼で動いていたんだよん」

「それは、修学旅行の際もかね?」

「そそ。そうじゃなかったらあんな回りくどいことしないって。大親友のゼッちゃんと戦ったり、聖騎士の女の子を上手いこと丸め込んだり、そして真祖様のことを煽って殺戮執行に追い込んだり……普通の僕だったらそれら全部をすっ飛ばしてるんだけどね」

「――っ!!」


 至極あっさりと真相を告げられ、ローラの形相は怒りに染まる。


 ルチアが無謀にも真祖を殺そうとしたこと。それを食い止めようとした悠人が禁忌に踏み込み殺人の快楽に溺れたこと。その見たくも無かった光景を自分が目に入れてしまったこと。

 全ては偶然の連鎖によって引き起こされたものでは無かった。ダインスレイヴ=アルスノヴァの――否、彼を後ろから操っていた悪しき四使徒が意図的に引き起こしたものだった。


 何も知らなかった自身の不甲斐無さ、あまりにも悪辣すぎる敵の一手。

 それらによって生み起こされた最低な帰結を黙ってなどいられようか。


「……理解した」


 昂る激情とは真逆の静かな声が、自然と声帯から紡がれる。


「手段など選ばず、周囲への被害など省みず、私と真祖の関係を偶然を装って引き裂いた上で真祖を手中に収める……それが貴様らの最終目的だった訳か」


 銃剣を携える腕が無意識に持ち上げられる。火花と銀の閃光が勝手に撒き散らされる。


「私にも責任が無いとは言い切れん。多少なりとも異変に気付いていたのならば、貴様らの蛮行を止めることができたのだからな」


 銃剣を握っていない方の拳を震わせ、俯かせていた顔を上げ。


「だが……貴様らが起こした一連の悪行は、遅すぎたとしても看過しておくことができない!!」


 ローラは蓄積した激情を放出させるかのように、ダインスレイヴとリタに向け莫大な威力を秘めた砲撃を放った。


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