お前は誰だ
「遅いわね……」
所変わって、暁美家。
一家の主婦である暁美頼子は、午後七時半を指す時計を見つめながら不安げな顔を浮かべていた。
「修学旅行の帰りなら早く帰ってくるはずなのに、まだ帰ってこないだなんて……。ローラちゃんは数時間前に帰ってきたというのに、何かあったのかしら……」
「……」
息子がまだ帰宅していない。その事実に不安を露わにする母親から、この家の居候人であるローラは顔を背けていた。
(彼奴……まさか、私のせいで……)
昨夜の出来事以来、自分は必要以上に暁美悠人を遠ざけた。
「誰も傷付けない」と固く誓ったはずなのに、それを破棄し快楽殺人に踏み切った彼。残虐非道な吸血鬼の真祖としての本能に呑まれた彼。そんな彼に失望を感じ、「やはり彼は殺すべき敵だ」と悟り、故にこそ彼との関係を白紙にしようとした。
そして自分と彼は最初から何の関係も無かったかと広めるかのように、過ちを猛省し再び歩み寄ろうとしてきた彼のことを拒絶した。
全ては「彼は自分との誓いを守ってくれる」という淡い期待が破られたショックに起因したことであった。
(彼が犯した行為を赦すことは当分できない。だが……)
だが、それでもローラは、悠人がいつまでも帰ってこない理由に何故か胸をざわつかせていた。
拒絶することを決め込んだとはいえ、仮にも人間性を評価し共闘することを誓った相手。それに両親や幼馴染など、彼が消えたことで取り乱しかねない者たちも幾名かいる。心配しない道理は無かった。
まさか彼は落ち込んでいる最中を吸血鬼たちに付け込まれたのではないか、それとも自分に遠ざけられたショックから吸血鬼側に付いてしまったのではないか。
良からぬ連想をローラが次々と脳裏によぎらせた時、
「ただいま」
開かれたリビングダイニングのドアの前に立つ、やや鋭い赤い瞳と癖の無い黒髪を持つ少年の姿。
まるで高まる不安の心を読んでいたかのようなタイミングで、悠人が帰宅したのだった。
「悠人! こんなに遅くまで何処行っていたの!?」
「ごめん。ちょっとだけ寄り道してて……本当に心配かけてごめんな、母さん」
怒ったような泣いたような顔で駆け寄る母親に見せた笑顔も、心配かけまいと掛けた優しげな言葉も、そのお人好しさの全てがいつも通り。無愛想に見えて実は人情味溢れる暁美悠人そのものだった。
そして、ローラに掛けた言葉も、その準拠に則っていて。
「あと、ローラにも心配かけちゃったな。いつまでも共闘相手……じゃなくて居候人のことを放っておいて何処かに行ってて本当に悪い。ごめん」
「……あ、ああ」
いつも通りの、宿敵に掛けるにしてはお人好しすぎる言葉。常の状況ならば、日常の光景として軽く流していたことだろう。
だがローラは、そんないつも通りに見受けられる彼の違和に気付いていた。
(……おかしい。普段の彼奴ならば……)
自分が犯した罪のせいで信頼関係を築いた少女に――ましてや密かに恋心を寄せている少女に軽蔑され続けているのならば、たとえ目の前に何も事情を知らない母親がいるとはいえ、多少なりとも気まずい様子を見せるはず。
なのに目の前の彼は、引きずっている様子を全く感じさせない、非常に清々しい笑顔を浮かべている。
まるで全てを忘れたかのように。
あるいは、最初からそんな出来事が存在しなかったかのように。
その日の深夜。
夕食と入浴を済ませた後、ローラは寝室で悠人に問いただすことを決意した。
「貴君……どういうことなのかね?」
「どういうこと、って……何がだ?」
悠人は困ったように笑う。先ほど同様、何処か違和感を覚えさせる態度だ。
そんな彼に戸惑いと苛立ちを露わにさせつつも、ローラはより細かく問いただした。
「昨夜のことなのだよ。貴君、よもや忘れたとは言うまいな?」
「昨夜?」
「私との誓いを破り、聖騎士とはいえ生身の人間を快楽心から惨殺した件のことだ」
「あー……確かそんなこともあったっけな」
ひどく他人事であるかのような反応だった。まるで自分には関係無いと言っているかのような。
そんな反応を取ってはいたものの、自分が犯してしまった罪は自覚していたようだ。
「確かに、あの時のことは悪かったって思っているよ。何せ俺を信じてくれていたお前のことを裏切ったんだから」
自嘲のように、悠人は弁明する。
「お前との誓いを破った俺に、こんな堂々とお前に顔を見せる権利なんて無いのは事実。実際、いっそ吸血鬼側に寝返った方が楽になれるんじゃないかって考えたくらいだし」
「……」
「だけど、それじゃ根本的な解決にはならないと思った。吸血鬼側に寝返ったら、それでこそ一度否定したはずの真祖としての本能を剥き出しにしろって言っているようなものだし。だからこそ俺は、お前に顔を合わせる権利なんて無いって分かっていたけど、もう二度と同じ轍を踏まないようにするために、こうしてお前ともう一度やり直そうと試みた訳だ。分かるか?」
「……何となくは、な」
こちらの心を慰める際によく浮かべている優しげな笑みを形作りながら、悠人はこちらを諭す。その言葉にはきちんとした筋が通っていたため、ローラも思わず頷いてしまう。
しかし、内心ローラは彼の優しすぎる弁明の言葉に妙な引っ掛かりを感じていた。
(……ユートはここまであっさりと開き直るような奴だったか……?)
例えば、一か月ほど前に起こった冷泉院家の騒動の際。
あの時の彼は、共闘関係であるローラと幼馴染の叶のどちらへの想いを優先すべきか分からなくなってしまい、それが故に逃げるような反応を取っていた。ひと悶着の末にどうにか悠人本人に事情を問いただす機会を得られたものの、その時の彼は自身の顔に出てしまうほど混迷する想いをずるずると引きずっていた。
以上の例に挙げられるように、いつもの彼ならば自身の立場が揺らいだ際、延々と否定的な感情を引き延ばしているはずなのだ。
だから共闘関係にあった少女と最低な形で仲を決裂させている今、こうして悠人が堂々と仲違いした張本人と顔見せしているのはおかしなこと。いつもの彼ならば対面しても気まずい様子を隠そうともせず、どころかこちらと対面すらしようとしないはずなのだから。
何かの出来事をきっかけにして今までの自身を改めたというのならば、まだ分からなくないのだが……
「ほら、もう夜も遅いだろ? 明日は学校だし、さっさと寝ようぜ」
と、こちらの思索を打ち切らせてもらったと言わんばかりのタイミングで、悠人が言葉を挟んできた。
それによって、自然とローラは今まで考え込んでいたことを一瞬だけ脳裏から逃がしてしまう。悠人に感じていた違和感も俄かに忘れてしまった。
「確かに夜も遅いのは事実だ、ユート。……だが明日は代休だ。授業は無いのだよ」
「あれ? そうだったっけ?」
「教師も言っていたであろうに……まあ、私のことでずっと悩んでいた貴君が話を逃したというのは理に適っていることではあるが」
「う……。ま、まあ、とにかく俺は寝るよ。おやすみ」
休日を平日と勘違いしていた気恥ずかしさから逃げるかのように、悠人は自身のベッドに潜り込む。それから程なくして、モグラの巣のように盛り上がった掛け布団の中から静かな寝息が聞こえ始めた。
そんな間抜けな彼を呆れた目で見遣りつつ、ローラも自分の敷布団の中に身体を潜らせる。
「全く……抜けているという点においては相変わらずなのだよ、ユートは」
そう、真面目に振る舞っていても何処か抜けているところは、いつもの暁美悠人そのものであった。
のだが……
「……否、此奴は本当に私の知るユートなのか……?」
やはり拭えなかった。いつまでも悲観的に物事を引きずる癖がある彼が、想い人との関係の決裂という局面において心機一転していることへの違和感が。
彼は僅かな数時間で悲観的な自分を改めたのか、それとも何らかを契機として誰かに心を操作されたのか、あるいは悲愴めいた記憶を消去されたのか……
(……流石にそれはいくら何でもあり得ないか。様子が妙であること以外は普通の彼そのものな訳であるが故)
あまり深く考えるのも何だか馬鹿馬鹿しくなり、ローラは静かに目を閉じる。そうして悠人の後を追うような形で、ゆっくりと眠りに堕ちていった。
彼の奇妙さに関しては明日になったらまたじっくりと考えればいい。
もしかしたら今日の彼は一時の気の迷いから生じたという可能性も考えられるのだから――




