鬼ごっこの結末
少しの間だけ、意識を閉ざしていたのだろうか。
四方という四方から荊が殺到してきた時以降の記憶が、いまいち思い出せずにいる。
「うふふ、お目覚めになりまして?」
かなりの至近距離から聞こえる、ラリッサの甘ったるくも毒を含んだ声音。それによって悠人は揺り起こされる。
薄く目を開けて見遣れば、自分の真正面に彼女の顔があった。
「手荒なことをなさってしまい申し訳ございません。ですが、こうでもしなければクルースニクの娘から貴方の御身を遠ざけることができなかったんですもの」
「何を言っ……っ!?」
返答しつつ身じろぎをしようとしたが、何故か身体が動かせなかった。
それもそのはず、悠人の全身には無数の荊が絡みついていたのだから。
「な、何なんだよ……こんな悪趣味な……!」
悠人の身体は天井と床から生えた数十もの荊によって、最奥のステンドグラスの間際で束縛されていた。両手を水平に広げられ、逆に脚はピタリと閉ざされたこの姿勢は、さながら磔刑にされた罪人のようである。
動きを封じる役目を担う荊たちの緊縛はかなり窮屈で、少しでも強引に抜け出そうとすればたちまち全身に棘が食い込むような仕掛けになっていた。
「愛しの主を罪人のように束縛してしまうのは悪趣味だと分かってはおりますが、アタクシの方と致しましてはむしろそちらの方が好都合でして。少々窮屈かもしれませんが、どうか我慢してくださいましね」
人によっては背徳感をそそられるような姿になっている悠人の前で、ラリッサが相変わらずの陶然とした笑みを浮かべる。
しかし先ほどまでとは異なり、彼女は悠人の発言を汲んだ上で言葉を発しているように思える。彼女の目的を伺うならば今しかないのではないか、と悠人は本能的に察した。
「なあ、お前に聞きたいんだが」
「ええ、どうぞ。愛しのユークリッド様のお話ならばいくらでも聞いて差し上げましょう」
先ほど全く話を聞かなかったのに何を言っているのか、彼女は。
随分と虫のいいラリッサに嫌悪感を感じた悠人は、彼女を鋭く睨み付け皮肉を発した。
「とか言って、さっきは俺の話を全く聞かなかったじゃねーか」
「申し訳ございません。あれは『話を聞かなかった』のでは無く『話が聞こえなかった』のですわ」
「話が聞こえなかった……?」
思わず言葉を復唱してしまった悠人に対し薄く微笑みながら、ラリッサは縦に巻かれた左右もみあげの付近に両手を持ってくる。
そうして耳の辺りに差し掛かったところで、両耳の穴にずるりと指先を突き入れた。
一体この行為には何の意味があるのだろう。
悠人が怪訝に思った直後、ラリッサの両耳からそれは姿を現した。
「お、まっ……!? それって正気なのか……!?」
両耳から出てきたのは、二十センチメートルはあるだろうと思われる太い荊の蔓であった。
無論、びっしりと鋭い棘が生えている。耳に入れたら鼓膜が破れるどころの話では済まない。当然のごとく、刺される痛みも伴っていたことだろう。
しかしそれでも、ラリッサは苦痛の感情すら感じさせぬ歓喜の笑みを浮かべている。もはや正気の沙汰では無い。
「勿論。逆に正気で無ければ、ユークリッド様を想ってここまでのことは致しませんわ」
真っ赤な血に濡れた荊の欠片を床に捨てつつ、ラリッサは答える。荊が引き抜かれた耳からはだらだらと血が零れていたのだが、再生したのかすでに出血は治まっていた。
「今さら隠していてもあまり意味は無いですし、ここは素直に種明かしをすると致しましょう。アタクシはずっと、貴方が持っていらっしゃる絶対命令権に流されぬよう鼓膜を潰していたのですわ」
「な……!?」
あまりにも常軌を逸脱しているその告白に、悠人は言葉を失った。
しかしそれとは裏腹に納得もしていた。鼓膜を潰し自ら聴力を破壊していたのならば、当然のごとく質問には答えられないし命令に応じることもできないのだから。
だが愛しの主君のためにわざわざ自らの身体を害するなど、やはり気が狂っているとしか思えなかった。
「お前……そこまでしてでも俺のことを奪いたかったのかよ!?」
「ええ。ユークリッド様のためならば自らを傷付けることも、耐え難い痛みを我慢することも、喜んで受け入れますわ。そうでなければ、ユークリッド様を愛するに相応しいアタクシにはなれませんし。ユークリッド様もそれがお望みではなくて?」
「俺はそんなこと望んでない! 全部お前の勝手な言い掛かりだろうが!」
「あら、そうなのです?」
鋭く冷たい視線で睨み付けても、目の前の狂った女の前では何の意味も為さない。彼女はあっけらかんとした様子で目を瞬かせるだけ、そして何事も無かったかのように話を切り替えるだけであった。
「まあ、ユークリッド様が如何お想いかということは差し置いて。おそらくユークリッド様が最もお知りになりたいのではないかと思われる事柄についてお話しますわ」
「……どうしてカインの命令を無視し独断で俺を攫おうとしたのか、ということについて話すつもりか」
「あら、当たりですわ。ということは、アタクシたちの心は一つということなのかもしれませんわね」
貴婦人のごとく穏やかな笑みを浮かべてはいるが、口にしている言葉はたいそう物騒。無意識に悠人は、心の奥底で恐怖心と軽蔑感を抱いた。
しかし悠人が内心どう思っているかなど、ラリッサには知る由も無い。緩やかな歓喜を美貌に浮かばせつつ、「悠人が最も知りたい事柄」について種明かしを始める。
「アタクシがこのようなことをしたのはユークリッド様をお慕いしているから。ただそれだけですの」
「……やっぱりな」
ラリッサの実情を遥か昔から知っているが故、おそらくそうなのだろうとは確信していた。この一連の出来事は全て、この自分への恋愛感情に通じているのだということは。
しかしラリッサはかつての配下、そして今の敵。そこに恋心は欠片も存在していない。
それに今自分自身が想いを寄せている相手は別にいる。たとえ現在想い人と仲違いしているとはいえ、彼女への想いを断ち切りラリッサと縁を結ぶなど言語道断であった。
だから悠人は、ラリッサに対しきっぱりと言い切った。
「だが、それは残念ながら徒労に過ぎないぞ。いくらお前が俺を振り向かせるために手を尽くそうと、俺にはもう心に決めた奴がいるんだからな」
「……それはやはり、あのクルースニクの娘ですのね?」
「ああ、そうだ」
不意にラリッサが笑顔を消したことが気に掛かったが、迷わず悠人は問い掛けに頷く。
すると、ラリッサは、
「……そのようなこと、このアタクシが認めるとでもお想いでいらっしゃいますの?」
先ほどまでの甘ったるい声とは異なり、ひどく冷たい声音で言い放った。
「ユークリッド様のことをお慕い申しているのはこのアタクシだけ。ユークリッド様のことを愛しているのもアタクシだけ。初めてお目通りした瞬間から、それは変わりませんわ」
「それがお前の勝手な言い掛かりなん――」
「なのに、誰よりもユークリッド様をご寵愛なさっているこのアタクシを差し置いてクルースニクに想いを寄せられるなど……」
「おい、俺の話を聞けラリッサ――」
「……赦しません。ええ、赦しませんわ。アタクシのユークリッド様の御心を奪ったあの女だけは……」
膨れ上がる悋気は正気すらも奪ってしまうらしい。嫉妬に狂い理性を失ったラリッサが悠人の話を聞くことは無かった。
(……これは不味いことになったな)
永遠にここに留まっていては取り返しが付かないことになるかもしれない、と悠人は直感的に悟る。
幸いにも現在のラリッサの聴力は回復している。先ほどは通用しなかった真祖の絶対命令権も問題無く通用するはずだ。
(ここで彼女を抑えて、そこから逃げれば何とか……)
これまで何度もそういった楽観視で失敗しているが故、多少実行に躊躇はある。が、楽観視に頼ってでも切り抜けなければならないのもまた事実。
結局、迷いを振り切り、最善に向けて事を進めるしかないのだろう。
「――聞け! そして直ちに俺の拘束を解け!」
命じる。
悠人が放った鋭い声を受け取ったラリッサは、一瞬大きく身体を痙攣させ、かと思いきや静かに身を引き周囲の荊を次々と収束させる――
「だから申したでしょう? 『アタクシの真なる能力についてはお忘れのようでしたわね』って」
――と見せかけた彼女は、ひどく陰湿に嗤っていた。
同時に、収束したはずの荊が先ほどの倍以上に膨れ上がった。一度緩んだはずの拘束も今まで以上の締め付けを以て蘇っている。
「ぐ、あ……!」
「いくら愛しのユークリッド様であれど、流石に未来の伴侶のお話をお聞きにならないのであれば、ちょっと強情にならざるを得ませんわね。苦しいでしょうが、どうか我慢なさってくださいまし」
四肢に、首に、絡み付き締め上げる荊。今にも骨が砕けるほどの重圧を全身に受け、悠人は思わず苦痛の悲鳴を上げてしまう。
そしてやはり、肌に食い込む棘からは神経を鈍らせる劇毒が流し込まれている。皮膚から血液へと浸透し全身を駆け巡る毒は、たちまち悠人の意識を朦朧へと導いていた。
(どうして、なんだ……。まだ、致命的な、見落としが……)
意識が急速に暗転する中、悠人は必死に思考を巡らせる。
これまで自分は、ラリッサと敵対する上で絶対に忘れてはならない「大切なこと」を忘れていた気がする。
四百年前までは確かに覚えていたこと。蘇ったと同時に忘れてしまったこと。その答えは、遥か過去の記憶の中に紛れていたはずである。
(……思い出せ、過去の記憶……俺でさえも歯止めが効かない、ラリッサの真の能力が何だったかを……)
激痛と混濁に苛まれ、閉ざされそうになっていく思考回路。
その果てに悠人は、真相に至る鍵をようやく掴んだ。
『室内戦限定にはなるが、条件さえ揃えば彼女は無敵だ。仮に本気の彼女と戦うことがあらば、この余でも確実に負けるほどにはな』
(条件……室内戦限定……教会に立ち入った途端、俺の力が効かなくなった……ということは、)
だが真相に至る鍵を掴んだのは、もう後戻りができない頃のこと。悠人が抗う術を全て失った時の話。
「そう。『閉ざされた空間』の中では、誰もアタクシには勝てない。四使徒でもクルースニクでも、そして真祖たるユークリッド様であっても……!」
それが、覚え得る限りの記憶の中で一番最後に聞いた、ラリッサ・バルザミーネの声だった。




