愛しの主君/花婿へ
*****
そして彼女は、愛しき彼の姿を捉える。
「うふふ。見つけましたわ」
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一刻も早く、ローラの元へ。
会って彼女に謝りたい。話がしたい。
その想いを胸に、家までの道のりを走る悠人だったが――
(――何かが、おかしい)
現時刻は夕方の五時ほど。帰宅する学生や道で遊ぶ子供、飼い犬の散歩をする地域住民とすれ違ってもおかしくは無い時間だ。
だというのに、誰一人すれ違わなかった。
それどころか、今通っている道から人の気配が一切しなかった。
屋外はもちろんのこと、立ち並ぶ住宅の中からも人の気配が全くしない。生物の気配が死んだこの空間は、さながらゴーストタウンのようだ。
街の中を歩いているはずなのに、鬱蒼とした獣道を歩いているかのような奇妙な感覚が付き纏う。まるで自分は知らぬ間に異世界に迷い込んでしまったのではないかと、悠人は思わず感じてしまったほどだ。
(まさか神隠し、とかじゃないよな……?)
ぞっと怖気が走る。
もし本当に別の世界に迷い込んだというのならば、自分はローラに会って話をすることができない。最悪の場合、二度と会えず終いという可能性も考えられる。
しかし、必ずこの孤独の世界から脱出する手立ては存在するはずだ。
震える心に鞭を打ち、悠人はひとまず来た道を引き返して異世界脱出を試みることにする。
その決心から、悠人が百八十度の方向転換した時のことだった。
「ああ……ようやく会えましたわね。アタクシの愛しき御方……」
声がした。
熱に浮かされ、蕩けた声がした。
「――っ!!」
それを耳にした瞬間、悠人は先ほど以上の怖気を感じた。
何故ならその声は、間違い無くかつて何度も聞いた声。
つい先日の話などでは無い。遥か遠き昔に――そう、自分が吸血鬼の王として暴虐の限りを尽くしていた四百年前に、幾度と無く耳にしてきた女の声が、この時代この国で自分に向けられている。
(まさか、四使徒……!)
つい反射的に悠人は声がした方向を向こうとするが、その必要は皆無のようだった。
声の主は直接悠人の前に現れていたのだから。
「ご機嫌麗しゅうございます、ユークリッド様。四百年前からお変わりの無いご様子で何よりですわ」
眼前にいつの間にか立っていたのは、蠱惑的な雰囲気を纏う年若き娘。側頭部で結われたピンクブロンドの巻き髪に薔薇の髪飾りを差し、ロココ調の豪奢な赤いドレスを完璧に着こなす、まるで貴婦人のように妖艶かつ高貴な気配を匂わせる美少女。
薄くルージュが引かれた彼女の唇は、悠人の姿を前にして陶然と緩んでいた。
「それにしても……貴方という存在は四百年の時が過ぎても、そして一度死してもなお色褪せずお美しい……! 幾年も変わらぬ秀麗なご尊顔に再び見えられる時を、アタクシはどれほど心待ちにしていたことでしょう……!!」
「――っ……!」
己の身を掻き抱き絶頂しつつ呟くその女に、悠人は思わず吐瀉したくなるような純粋な嫌悪を覚えた。
だが同時に、彼女に対し確実性のある既視感を感じていてもいた。
「お前は……ラリッサだよな……?」
「うふふ、そうですわユークリッド様。アタクシこそが四使徒の一柱を担うラリッサ・バルザミーネ。ユークリッド様のために在る女吸血鬼ですわ」
自信満々に女は――ラリッサは名乗り、そしてさらに言葉を連ねる。
「やはり事前に見聞きしていた通り、現在のユークリッド様には今までに無かった俗世への執着を匂わせる性格と粗野な雰囲気が備わっている様子……ですが、そのようなものはユークリッド様の存在そのものを愛するアタクシには関係の無いこと。むしろ権力と暴虐に固執しないそのご様子もまた、ユークリッド様の魅力を引き立てる一要因にしか過ぎない……! ああっ、いずれにせよユークリッド様は常にアタクシにとっての麗しい主君……!!」
こちらがどのような反応をしているのかさえも全く気にせず、ラリッサはただ主君に対しての盲愛に震えていた。
が、その異様なラリッサの挙動は、ひとまずは悠人の意識の外。
今、悠人が思考を巡らせていたのは、全く別の事柄について。
(……そういえば、修学旅行の時にダインスレイヴがラリッサに協力してるって話をしていた……)
――僕がここにいるのはラリッサ様から依頼を受けたからでして。
その切り出しから始まった話を聞いていた時は、裏で暗躍していたらしいラリッサの動向を警戒していたつもりだった。
だがいつの間にかルチアの蛮行やローラへの激情に翻弄され、そのことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。幾度となく警告もされていたはずだったというのに。
そして思考の過程で、もう一つ察したことがある。
(あのラリッサのことだから、最終的な狙いは確実に俺。そして彼女に協力していたダインスレイヴの一連の不審な行動が、全て彼女の最終目的に直結していたのだとしたら――)
――修学旅行の最中の出来事の、その全てがラリッサの差し金で起こったことなのではないか。
――そして今自分が隔絶した世界の中で彼女と一対一で対峙しているのは、上手く運んだ事の仕上げとして、彼女自ら真祖の身柄を手籠めにしようとしているからではないのか。
「……そうか。お前がこんな大掛かりな仕掛けを用意してまで俺の元に現れたのは、ローラにも誰にも邪魔されない形で俺のことを拉致するためか……!」
「……うふふ」
ラリッサは微笑んだまま、ただ黙するのみ。
その代わりとして答えは、奇襲という形で返ってきた。
「ようやく……ようやく貴方はアタクシのものとなる……! クルースニクのことを排除し、他の四使徒にも察知されないよう趣向を凝らしたこの時ならば……!!」
歌うように快哉を叫ぶラリッサ。
そんな彼女のドレスの両袖からは、腕の代わりに無数の太い荊が顔を覗かせ、そのまま悠人目掛け直進してくる。
全ては、最愛の真祖のことを絡め取るために。
「――っ!」
間一髪といったところで躱す。時刻が吸血鬼の力が増大する夕方であったことが、攻撃の完全回避に幸運をもたらした。
だが同時にそれは、同じ吸血鬼であるラリッサの力も増幅しているということ。
「うふふ、どうしてお逃げになるのです?」
荊の打擲は止まらない。縦横無尽に空間を駆け回り、獲物を狙う大蛇のように悠人の身を拘束しようとしてくる。
悠人は荊の鞭を掻い潜りつつ、一歩一歩と後退する。が、そうしていてもいずれは袋小路に追い込まれてしまうことだろう。
(……やるしか、ないのか)
戦闘の最中に自身の暴虐に呑まれてしまった先日のことを引きずると、敵と対峙しているとはいえどうしても戦う気力が失せてしまう。
しかし目の前の吸血鬼を倒さなければ、この不可解な空間から脱することができないのも事実。
(幸い、相手は俺の部下だった吸血鬼……。そういった存在が相手だったらクルースニクであるローラも俺のことを咎めない。むしろ彼女に俺の本心を訴えかけるためのいい材料にはなるか……?)
抱いたその想いは、ルチアと対峙した時にも抱いたような妥協とも取れるかもしれない。
それでも、この目の前の四使徒に対し一矢報いることがローラに対しての償いになると信じたい。
だから、悠人は自身の狂気の証にして自身の牙を抜くことを決意した。
「……っ、来い、俺の半身――『魔帝ノ黒杭』――!」
自身の中に蟠る罪悪感を殺した声に呼応して現れた黒い両刃の長剣を手に取り、こちらに向かい来た一塊の荊を一閃。伐採された荊たちがボトボトと立て続けに地面へ落ちた。
しかし吸血鬼に再生能力があるように、ラリッサの荊にも再生能力があったらしい。斬った刹那、断面から荊が再び生えてくる。
しかも厄介なことに、斬った荊が倍に分裂している。これでは、斬れば斬るほど余計に躱すことが難しくなるではないか。
(どうすりゃいいんだよ……!!)
歯噛みする悠人だったが、不意に気付く。
今戦っている相手は吸血鬼。
ならば、その王たる真祖としての特権――全ての吸血鬼を強制的に従わせることができる「絶対命令権」が通用するのではないか、と。
「――真祖の命令を聞け、ラリッサ・バルザミーネ! 今すぐ戦闘を止めろ!」
最初からこうすれば、吸血鬼相手とはいえ無益な血を流させなくて済む。真祖としての力と本能を剥き出して戦うことに抵抗感を覚えていた現在の悠人にとってはこの上無い幸運であった。
故に、朗々と声を張り上げラリッサを公言通りに従わせようと試みたのだが――
「あら、急に立ち止まってどうなされたのですか? 戦ったり立ち止まったり……随分とせわしないユークリッド様ですわね」
――全く効いていない。
ラリッサは愛おしげに微笑んだまま、先ほど同様こちらに対し無数の荊を伸長させていた。
(どうして、なんだよ……! 同じ四使徒のゼヘルには効いたっていうのに……!)
予想外の事態と残酷な事実に愕然とせざるを得ない。
四使徒は皆真祖に忠実なためあまり必要性を感じていないが、一度絶対命令権が発動されればあらゆる吸血鬼が自分に従うはずだった。そこに反抗の意思の有無は関係無い。
なのに何故、ラリッサには命令権が効いていないのか……?
しかしその原因を思考する暇さえ、現在の悠人には与えられていない。
「鬼ごっこがお好きなのでしたら、アタクシはおいくらでも付き合いますわ。でもいくらユークリッド様であれど、果たして本気のアタクシからはお逃げになることができるのでして?」
「――っ、さっきから訳の分からないことを……!」
襲い来る荊を立て続けに薙ぎ払いつつ、バックステップで必死に逃げ惑う悠人。対してラリッサは袖から伸びる棘の生えた鞭を振るい、愛しの主君を追いかける。
もはや、隔絶された誰もいない世界から脱出することを考慮する暇は無い。この現在専念しなければならないのは、どうにかしてラリッサに捕まらないようにするということだけ。
しかし彼女は執念深く追いかけてくる。薙ぎ払えば薙ぎ払うほど荊の本数は増えていく。おまけに絶対命令権は全く通用しない。言葉で封じることはできなかった。
(ここで奴を殺さなければ、俺は……)
精神に募る焦燥と身体に蓄積した疲労から、玉のような汗を額から流しつつも、悠人は思案と迎撃を交互に繰り返しつつラリッサから逃げる。
いつしか日はすっかり傾き、夜の闇が差し始める。
そんな状況下、四使徒の女からの逃走に一心になっている真祖は、彼女の策略によって次第にある地点に追い込まれていた。




