鏡は何も映さない
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「真に無様よの。いつまで経っても愚劣な下等生物の真似事に興じているとは」
何処からか侮蔑の声が聴こえた。
「何故、吸血鬼としての本能に抗わんとする? これまで貴様が当然のごとく反芻してきた食事、睡眠、自慰と同様の行為ではないか」
耳にした者全てを震え上がらせるほどの凄みを持った声音の持ち主は、足音を伴いながらだんだんと近づいてくる。
「どうやら貴様は再び生を授かってからの十数年、下等生物として振る舞うことを盛大に謳歌しているようであるな。しかし、それも終いだ。美味なる血を味わう快楽を思い出してしまった以上、下等生物に戻ることは決してできぬのだから」
黙れ、お前なんかに俺の何が分かる。
そういった主旨を口にしようとしたが、どういう訳か声が出ない。いくら喚いても叫んでも、全ては無音となって闇の中に融けていく。
「あの娘の血は得も言われぬほど甘美な味であったであろう? その極上の血を持つ最高級の得物を、我を忘れるほど味を堪能したあの娘を、貴様は再び『幼馴染』として取り扱うことができるのか?」
足音が止まる。その頃には侮蔑の声は耳元近くにまで達していた。
「あの娘を未だに幼馴染として見なしているが故に自責の念に囚われておるのならば、彼女との袂など断ってしまえ。その呪縛から解放されたならば、貴様が下等生物の真似事に執心する理由も失せよう。さすれば後は、四百年前のように人間の血と死のみを求めさえすればよいのだ」
そうして、今まで闇に紛れており判別不能だった声の主の全貌が顕わとなる。
醜悪な笑みを湛えた異様なまでの美貌、漆のように黒々とした髪、黄昏の空のように紅い瞳を有したその男は……
「さあ、一刻も早くかつての覇気と暴虐を取り戻せ、余自身よ。吸血鬼の真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムの名を抱きし余よ……」
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「――っ!!」
跳ね上がるように、悠人は目を醒ました。
(何なんだ、あの夢……!)
全身の水分を抜き取られるかのような渇きと苦痛はもう感じられない。なのに心臓の鼓動は目醒める前と同等――否、それ以上に激しく脈打っていた。
――先ほど夢の中に出てきた男。彼は紛れもなく暁美悠人と同じ姿をしており、同じ声を持っていた。
唯一深紅色の瞳だけが悠人と異なっていたが、それを除けばまるで自分の鏡写しだ。
(人間をゴミ屑みたいに扱うあの姿が、俺自身だっていうのかよ……!)
あの酷薄な嘲笑と人情味の無い囁き声を自分のものだと思いたくなくて、掛布団に包まりながらガタガタと身体を震わせる。室内では暖房が効いているはずなのに身体が凍えて仕方がない。まるで脊椎を氷柱にすり替えられてしまったかのようだ。
だが恐怖に身を蝕まれる最中、救いの手はベッドの傍らから予想外の形で差し伸べられる。
「あ。目を覚ましたんだな、悠人」
とても聞き慣れた声だった。
普段は少々煩わしく思う声だというのに、後味の悪い悪夢から逃れたばかりの今では、それにとてつもなく安堵させられる。
親しい者に声を掛けられ糸が切れた悠人は、放心の溜め息を吐き、縋るように隣に首を向ける。
「ずいぶんと顔色が悪いが……事件のことでも思い出していたのか?」
ベッドの横に置かれたプラスチック製の丸椅子に、悠人と似た面影を持つ、痩躯の中年男性が腰掛けている。
男の名前は暁美大。悠人たちが暮らす夜戸市内で警察官として働いている、れっきとした彼の父親であった。
「父さん……どうして……。というかここ、病院だよな……?」
「ああ。叶ちゃんともども例の殺傷事件に巻き込まれたらしく、それで現場で意識を失って倒れていたところを搬送されたのさ。本当だったら俺も事件の捜査に加わるべきなんだが、息子が被害者だって知ったらどうも我慢ならなくてな……。だから上司に許可をもらってお前の見舞いに来ている、という訳だ」
「……そうなのか」
父親の家族愛を有り難く思う反面、悠人の顔に陰が落ちる。
意識を失う前に起こった一連の出来事は、やはり虚構上の出来事ではなかったのだ。
叶が一閃で斬られたことも、ゼヘルが自分のことを『真祖』として敬っていたことも、ローラが殺意を剥き出しにして銃弾を放っていたことも。
そして、自分が叶の血を飲んだことも――。
「……そういえば、カナは今どうなっているんだ?」
「叶ちゃんかい? あの子もこの病院に搬送されているよ。悠人と同じく何処にも外傷は見当たらなかったんだけれど、たぶんとても大きなショックを受けてしまったのかな……未だに目は覚ましていないらしい」
「何処にも外傷は見当たらなかった……!?」
悠人は愕然と目を見開く。
おかしい。父親の証言と自分が実際に目にしたものが、明らかに食い違っている。
あの時、確かに叶は身体を凶刃で斬られていたはずだ。血が噴出している光景も、蒼白に転じていく顔色も、失われゆく命も、全てがこの目にしっかり焼き付いているというのに。
何よりも叶の血を飲んだ時に感じた気色悪い快楽は、今でも自分の心の片隅にしこりのように蟠っている。
「父さん、本当にカナに傷は無かったのか……!? 服に血液が付いていたとかも……!?」
「あー……確か服に血は付いていたかもしれないな。おまけに服も何かに斬られたみたいに破れていたから、きっと襲われはしたんだろう」
「そうか……なら安心したよ」
つまり誰かが叶のことを治療してくれたということだ。そうでなければ何の傷も負っていないはずの彼女が不自然に血の付いた服を着ているはずがないのだから。
だがいくら医療技術が発達した現代であるとはいえ、周囲に「外傷は見当たらなかった」と思わせるほどに綺麗に傷口を閉じることは、果たして普通の人間が成せる技なのだろうか?
一体叶の身に何が起こったのか……そう悠人が深く思考を巡らせていた時、
「それよりも悠人、お前に少し訊きたいんだが……」
父親が突然話題を変えた。
悠人に向けられた彼の眼差しは、道端で轢かれて死んでいる猫を見た時のような、薄気味悪いものや理解不能のものを見るような目と酷似しており、
「……その瞳の色は、何だ? まるで兎の目のように赤いが」
気付けば悠人はベッドから飛び降りて駆け出していた。
全ては、父親の「瞳の色が赤い」という発言を信じたくなかったが故に取った行動だった。
元来悠人の瞳の色は、日本人にはとてもありふれている黒色。カラーコンタクトを入れた経験は今まで全くなく、また目に病気を患った記憶もなかった。
それなのに、何の前触れもなく虹彩が黒から赤に変じることがあるはずが……
……違う。兆候は確かにあった。
先ほどの悪夢の中に登場した自分の現身、吸血鬼の真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムとしての自分――彼の瞳の色は、赤だった。
その吸血鬼としての側面が叶の血を飲んでしまったことで覚醒してしまったというのならば、虹彩が吸血鬼と同じように紅く染まってしまったのにも納得がいく。
原因を自覚したのならば、素直に父親の発言を受け入れてしまえばいいのだとは思う。
しかし悠人はどうしても真相を確かめたくて仕方がなかった。
(――血を飲みたいって欲があったって、瞳が赤に染まったって、それでも俺にはまだ『人間であること』を証明できるものが残っているかもしれねえだろうが……!)
叶の血を美味しいと感じてしまった時点で望み薄なのは分かっているが、奇跡的に残っているかもしれない一縷の可能性を信じ、悠人は夜の病院の廊下をひたすら突き進む。
ナースステーションに駐在している夜勤の看護師が駆ける人影を怪訝な視線で見送っていたが、それには目も暮れず、迷宮のような病棟の隅にある男子トイレに立ち入り、真っ先に洗面台の鏡を覗く。
そうすればほら、飽きるほど見慣れた『人間』としての暁美悠人が――
――いなかった。
一瞬、真祖ユークリッドと同じ見目をした男が鏡越しに自分を見ている、と悠人は錯覚してしまった……が、実際はそれも見当外れ。
ちゃんと照明も灯っている洗面台の前の鏡、そこには誰の人影も映されていない。
「……は」
後方の壁しか映していない鏡を眼前にし、悠人は乾いた笑いを零す。
「何だよ、これ……俺に『人間であることを証明するな』って言いたいのかよ……」
ふと、小学生の時に読んだとある怪奇小説に登場した吸血鬼のことが思い浮かんでしまう。物語の中の彼の有名な吸血鬼は、確か鏡に自身の姿が映っていなかった。
それと同様の現象が今己の身にも起こっているのだから、悠人は自分が本当に吸血鬼として覚醒してしまったのだと認めざるを得なかった。
「本当に、俺は身も心も吸血鬼になっているってことなのか……」
乾き切った自嘲の笑みを浮かべつつそう呟いた、その時、
「いい加減認めたらどうだね。自身の姿が鏡に映っていない以上、貴様は人間とは異なる存在なのだよ」
側方から、忘れることのできない少女の声が聴こえてきた。
自身が意識を失う前、覚醒前の真祖を迎えに来たゼヘルを討つために来訪してきた少女が何故かここに在るのだと、悠人は感覚で悟った。
「その声、確かローラとかいう奴……のものだよ、な……?」
「いかにも。私はマリーエンキント教団の聖女ローラ・K・フォーマルハウトだ」
鈴の音のように涼やかで美しい声音に導かれ側方を見遣ると、案の定名乗った通りの少女の姿が在る。
腰まで届く雪のように真白い長髪と白い睫毛に縁取られる澄んだ銀灰色の瞳は意識喪失前に見た通り。しかしあの時とは異なり、抜群のプロポーションを包んでいるのは純白のシスター服ではなく漆黒のパンツスーツであった。
先ほどとは印象が様変わりしているものの、周囲の光景が霞んでしまうほどの彼女の美貌は相変わらずだ。
しかしいくら麗しい容姿であるとはいえ、流石に二度もローラに見惚れたりはしない。何せ彼女は吸血鬼を殺す力を持った聖職者。真祖として覚醒しつつある悠人にとっては天敵ともいえる存在なのだ。
男子トイレの中に美少女が立ち入っているという奇想天外な出来事が起こっていることも忘れ、悠人は警戒心を以ってローラを睨む。
だがどういう訳か、今の彼女に敵意はあれど殺意はない。こちらを冷たい視線で見つめたまま、不意に手招きをしてきた。
「来い。今まで何も知らずに人間の生を謳歌してきた貴様に、この私がいろいろと説明してやる。この世界の真実と、我々と吸血鬼の争いの系譜をな」
「な、何で急に……?」
もしかしたら実はローラはお人好しなのではないか、と悠人は一瞬思ってしまったが、無論そんな甘い話は存在しなかった。
「……期待したような目をするな。私は無知なままの貴様を討ちたくないという憐憫から説明する機会を持ち掛けただけなのだがね」




