何かが途切れる音がした
標的は逃げも隠れもせず、清水の舞台上に立っていた。
「……来たわね」
ぞっと背筋が凍るほどの、とてつもなく静かな声音だった。
「お姉様に特別な感情を抱いているアンタならきっとあたしを追うだろう……そう考えて正解だったわ」
なのにこちらを静かに見据える緑の瞳は、獲物を定める爬虫類のような不気味で異質な輝きを爛々と湛えている。
間違いなく、それはあからさまな敵意と殺意。
「でも残念。アンタはお姉様のためにあたしを仕留めに来たんだろうけど、それは叶わないことよ。だって、今からあたしがアンタを殺して、そしてお姉様を奪い返すもの」
静謐に激情を溢れさせる少女に、悠人は微かに歯を食い縛りながらも言った。
「お前、無謀だとは思わないのか?」
「無謀って……何が?」
「たかが並の教団員が、吸血鬼の真祖である俺に一矢報いようとしていることがだよ」
ルチアは何も分かっていない。クルースニクでもない人間が本気で真祖に挑んでも、結局は無残に命を散らすだけだということを。
否、実は彼女は分かっているのかもしれない。分かった上で挑もうとしているのかもしれない。
だが、もしこれが本当ならば、彼女の行動は特攻という愚行でしかない。
今、二十一世紀に生きる悠人は、残虐な真祖として無意味に殺戮することを望んでいない。誰かを物理的かつ直接的に、あるいは精神的かつ間接的に傷付けることは忌避しようと考えている。
だから、目の前にいる殺意剥き出しの少女に対しては、刃を収めて説得することでしか対処できない。
「もうこんなくだらないことはやめろ。ローラだって望んでもないことをやろうとする意味なんて無いだろうが」
「……くだらない、ですって?」
ルチアの鬼気が、先ほどよりも一層増した。
「あたしのローラお姉様への敬愛は『くだらない』ものなんかじゃない!! あたしはかつてお姉様に命を救われた!! そして生きる意味も与えられた!! 言わばお姉様はあたしの存在そのものなのよ!! そんなあたしのお姉様に対しての想いをくだらない呼ばわりしないで!!」
彼女の怒気に内包された悲愴に心を突き刺されたような心地を覚えたが、こちらにも譲れぬものがある以上引く訳にはいかない。悠人もまた、声を張り上げて言い聞かせる。
「ローラに対してのお前の想いの強さは分かるが、そんな想いを抱かれることをローラは望んでいたのかよ!? あいつは本当は普通の少女として生きることを望んでいるというのに、お前はそれを『大切なお姉様』から奪うのか!?」
「そんなの嘘よ!! だってローラお姉様はクルースニクとして真祖を殺すことだけを考えて生きてきたんだもの!! そんなお姉様が、強くて美しくて清らかなローラお姉様が、戦場も凄惨も何一つ知らない馬鹿な一般人みたいに平凡な日常や退屈な学園生活をのうのうと謳歌して、あまつさえ残虐非道な吸血鬼の真祖に心を赦して仲良くして、そして心惹かれているだなんて――」
刹那、まるで再生途中で電源プラグが抜かれたラジカセのように、ルチアの絶叫が急停止する。
静謐になったのは声だけではない。先ほどまで溢れんばかりの怒気に満ちていた彼女の顔は、鬼気はそのままに再び無表情へと還っていた。
「――……ええ、そうね。アイツの言う通りだわ。間違いなくユークリッドはローラお姉様のことを洗脳して、普通の女子高生として生かし自分に惚れるように仕向けたんだわ。腑抜けたクルースニクをいつでも殺せるように、クルースニクに殺されない未来を作るために……」
「は……!? おい待て、『アイツ』って誰なんだよ!? それ以前に、俺はローラに洗脳を施した覚えは無いし、そんなことをしようと思ったことだって――」
「……そんなの、赦せない」
悠人の説得は、ルチアに全く届いていない。
こちらの話を信用しないどころか一切耳を傾けず、彼女はひたすら怨嗟の声を吐いていた。
「赦せない。赦せない。赦せない。赦せない、赦せない、赦せない、赦せない、赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦せない赦 さ な い――」
そして、一頻り悠人への恨み辛みを吐き続けたルチアは、
「――っ、絶対に赦さない!! ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム!!」
自らの怒りの大きさを示すかのように、背負っていた黒いギターケースを板張りの床へと勢いよく叩き付けた。
そんなことをしたら中に入っているギターが壊れて使い物にならなくなってしまうのでは……とか悠人は心配したが、それは無用だった。
「……何だよ、それ」
中に入っていたのはギターでは無かった。どころか、楽器ですらないものだった。
蛍光塗料で塗りたくったように全体がベビーピンクに染められた、全長一メートルほどの立派な造りのライフル銃。それがギターケースの中に秘められていたのだ。
床にケースを叩き付けたことで飛び出すように姿を表したピンクのライフル銃をルチアは反動を付けて蹴り上げ胸の前まで無理やり持ってくる。
それを両手で素早く掴み取り構えることで、彼女はあっという間に戦闘態勢に移行したのだった。
「あたしの自慢の名銃よ。アンタを蜂の巣にして風穴を開けて殺すためのね!!」
言い切ると同時、ライフル銃の引き金が引かれる。
放たれたのは一発の眩き閃光。伏見稲荷大社でこちらを狙ってきたものと色も威力も同じだった。
(ローラの言う通りだ。伏見稲荷で俺を襲ってきたのはルチアだったんだな……)
思考を巡らせるものの、悠人は瞬時に避けることを忘れない。大きく脇に飛び退き、閃光を躱した。
的を無くした閃光は舞台の床に突き刺さる。大きな破砕音と共に、床に大穴が開けられた。
「世界遺産にあまり被害を与えるのは良くないけれど……相手が真祖である以上多少の犠牲は仕方無いわ。どうせ後で教団が何とかしてくれるはずだし」
日本が誇る世界遺産に損害を与えたことに罪悪感を覚えてはいるようだが、それでもルチアはこちらを仕留めるためには必要な犠牲であると考えたようだ。
(撤退や降参の意思は全く無い、か……。だったら、あまりやりたくは無かったが、こちらも実力行使に出るしか無いのかもな)
やや渋ったが、悠人は覚悟を決めた。
「……来い、俺の半身――『魔帝ノ黒杭』」
片手を前方に突き出し、自身の唯一無二の武器を表出させる。
闇より出た黒色の両刃の長剣の、鍔の部分に取り付けられた眼球のごとき宝玉は、ギョロリと標的たるルチアのことを定めていた。
その不気味な剣の柄を咄嗟に握り、黒一色の切っ先を敵に向ける。
「そこまで意固地になるんだったら、こちらも実力行使に出るぞ」
「いいわ。アンタのその答えを、あたしは待っていたんだもの」
ルチアは変わらず氷像のような冷たい真顔を浮かべている。
が、攻撃の手は全く緩む気配無し。立て続けに短い閃光を連射し続けている。
「大人しく死になさい!!」
さらに彼女は神術の詠唱を開始。腐ってもマリーエンキント教団の団員ということか。
『Agnus Dei,qui tollis peccata mundi,dona eis requiem sempiternam(神の小羊、世の罪を祓われし御方よ、彼らに永遠の安息を与え給え)!!』
聖なる気配を纏った破砕の光が、悠人目掛け一直線に向かい来る。生身の人間が喰らえばたちまち肉片と化すであろう、それくらいの威力を秘めた膨大な一撃だ。
だが、それを悠人は紙一重の差で躱す。僅かに髪の先端が触れたものの、多少焦げただけで大きな影響は見当たらない。
『Dona eis requiem sempiternam(彼らに永遠の安息を与え給え)!!』
避けたのも束の間、また新たな攻撃。それも悠人は黒色の剣で弾き返し、見事に相殺させた。
ルチアの攻撃は、正直に言ってしまえばまだまだ粗削りの段階だ。だが技巧の低さは主力攻撃が持つ圧倒的な火力の高さで補われている。
その点で彼女の戦闘スタイルは、かつてとある事件で敵対した冷泉院暮土のものと似ていた。思えば彼も、とてつもない威力の炎で敵を強引に牽制するという戦術を取っていたものだ。
だが、いくら彼女が圧倒的な火力で押し切ろうとしても、クルースニク以外からの攻撃では死なない真祖のことを仕留めることは叶わない。
おまけに現在は吸血鬼の力がより一層強まった夜更け。夜間補正によって身体能力が向上した悠人が軽く剣を振るっただけで、こちらに飛来してきた無数の閃光は皆残さず綺麗に刈り取られていた。
(このまま突撃すれば、ついでのように彼女を仕留めることができるだろうが……)
しかしそれは、悠人の本当の目的では無い。故にこそ自ら攻撃したりはせず、向かい来る閃光の雨をひたすら斬り裂くという受け身の戦法を取ることとした。
この先ルチアが「真祖相手に勝ち目など無い」と悟り、大人しく自身の言うことに逆らうのを諦めてくれればと期待しつつ。
「……何でなのよ」
だが、そんな受け身の姿勢しか見せない悠人に、全身全霊で挑もうとしているルチアが激怒しているようであった。
「何で……何で本気を出さないの!? 残虐非道の吸血鬼の真祖なら、自分の邪魔をしようとする人間なんて殺すのが当たり前じゃない!!」
「……お前を殺したくない。ただそれだけだよ」
悠人はルチアを殺すことを端から望んでいなかった。
叶を失望させないため真祖としての人格に呑まれ穢れぬようにいようと誓ったばかりなのに、ここでルチアを殺せばまた残虐な真祖として穢れてしまう。
それに、かつてローラの前で「人間としての俺を絶対失わないよう努力する」という誓いを立てている。何があっても失いたくない大切な彼女のため、その誓いだけは絶対に破りたくない。
無論それは、自身の本当の正体を知らない叶や解、両親など自分の大切な者たちのためにも、絶対に貫徹しなくてはならないものなのだ。
「俺は四百年前とは違う。かつてのように、無闇やたらと人間を殺し尽くすことは卒業したんだ」
「でも! アンタは人間の生命を操作する異能を持っているんでしょ!? だったらあたしを殺しても、その後無傷で復活させることだって――」
「勘違いしないでほしい。『生殺与奪』は致命傷を負いながら辛うじて生きている人間を復活させることはできるが、完全に死んだ人間を生き返らせることはできない。真祖が人間を生き返らせただなんて話、教団でも聞いたことは無いだろう?」
「それは、そうだけど……!」
「すぐに再生する吸血鬼ならまだしも、人間のことは殺したくない。殺さない」
眼前に向かってきた膨大な閃光を唐竹割りの要領で両断。その上で悠人は、顔に苦悶と寂寥を灯しつつ言葉を紡いだ。
だが、それを受けたルチアは、
「……何それ。吸血鬼の癖して騎士団の真似事をしようだなんて、アンタも随分と落ちぶれたのね」
ひどく冷え切った目で、悠人のことを見ていた。
さらに今まで熱心に攻撃していたのが嘘であったかのように、彼女は急に攻撃の手を止めた。構えていたライフル銃を下ろし、踵を返して悠人に背を向けたのだった。
「今、気付いた。アンタがあたしを生かそうっていう気でここにいるなら、アンタと戦う理由なんて何一つ無いじゃないの」
「俺には、お前に逢いに来たれっきとした理由があるんだがな」
「分かってるわよ。アンタはあたしの心を折らせて、お姉様を狙うのを諦めさせようとしてたんでしょ? でも残念、あたしの心はその程度じゃ折れないわ」
そして、ルチアは静かに本堂舞台から去ろうとする。
「悪いけど、アンタがこのままあたしを生かすなら、あたしはお姉様のことを捻じ伏せてでも連れ戻しに行くわ」
「ま……待てよ! 前々から聞きたかったんだが、お前はローラを連れ去って何を――」
「決まってるじゃない。この国で過ごした記憶の全てを消すのよ」
「――!!」
彼女の一言を耳にした瞬間、悠人は氷水を浴びせられたかのように凄絶な怖気を全身に感じた。
「そして、元の真祖を殺すことだけのみを考える、強くて美しくて清らかなクルースニクに相応しいお姉様に戻ってもらうわ、強制的にね。たとえお姉様が抵抗しても、神術で記憶を消すなんて簡単だもの。意識を失わせさえすれば、ついでのように記憶だって消せるでしょうね」
ルチアの言葉の続きは、頭に全く入っていない。
ただ「ローラを連れ去り悠人と共に過ごした時の記憶を消す」という事実だけが、ガンガンと勢いよく鳴らされた鐘のように延々と反響していた。
――このままだと、何が何でも護りたかったローラの全てが失われる?
真っ先に浮かんだ、ローラの身への危惧。
――クルースニクとして不要な感情を何一つ与えられずに生かされてきたローラが、俺と共に過ごすことでようやく得ることができた様々な感情が、全部消される?
美味しそうに肉じゃがを頬張っていた彼女も、遊園地で年甲斐もなくはしゃいでいた彼女も、楽しそうに鹿と戯れていた彼女も、そして友人たちとの談笑に親しげに興じていた彼女も。何もかも。
全てが「世界の救世主たるクルースニク」の有り様を守るためという理由のために、幻影のように消え去ってしまうのか……?
(そんなの……そんなの、駄目だ。間違ってる。在ってはならない。ローラ、俺のローラが、そんなことのためだけに、失われるだなんて、)
否定と否定と否定を繰り返す中、ふと過去の記憶が蘇る。
――彼女がローラから『普通』を奪おうとしているのならば、自分は悪魔にでもなってやろう。
彼女の普通の少女らしさと柔らかな微笑みを失わせたくない。使命だけに生きてきた彼女の普通の生活、普通の人間として当たり前の感情を自分は護りたい。そんな想いから生まれた決意を、悠人は思い出した。
「願いを叶える代償として誰かが不幸になること」を望んでいない叶のため、一度はその感情を否定した。何でも自分の思うが儘にすることが当たり前だったかつての自分のようにはなってはいけないと、そう決めたはずだった。
だが、そんなの知ったことか。
危機が迫る中、自身の禁忌を解放することを否定するのは、それはつまり現実逃避と同等ではないか――
(悪いな、カナ……ルチアが実際に危害を加えようとしている以上、躊躇せずにやり返さねば、それでこそ取り返しの付かない結末になるんだ。お前の親友だったローラが、奪われることになるんだ)
自分のことを「英雄」として信じ切っていた叶への懺悔も、溢れんばかりの我欲と欲望と敵意と悪意の中に紛れて消える。
(思い通りにならない世界ならば壊してしまえばいい。俺の行動を阻害するものは殺してしまえばいい。護りたい存在を護る、それさえできればどうなったっていい)
故に、そのためには何が必要か。
それを知っているのは、かつて世界を蹂躙した最悪にして災厄の己自身に他ならないのではないだろうか――
「――貴様、余の逆鱗に触れたな?」
そして、その言葉を最後にして。
「暁美悠人」という個の人間として大切な、何かが途切れる音がした。




