願いと呪い
「本当に何だったんだろうね、あの突風」
「そういえば、伏見稲荷でも似たような突風があったらしいよ。怖いね」
「あれだろ? 神の天罰って奴」
「ちょっと、物騒なこと言わないでよ!」
「いや、それが嘘とは言い切れないぞ。だってこの京都には超有名な縁切り神社があるらしいし、誰かがその神社で縁切りを願ったんじゃねーかな」
「ああそれあり得る! 地主神社って縁結びの神様だもんね!」
突風騒ぎで持ち切りになっている観光客をよそに、悠人たちは地主神社を後にする。
エルネが咄嗟に時を止めてくれた甲斐もあってか、参拝客に目立った被害が及ぶことは無かった。被害といっても突風が吹いて転倒した者が大勢出たという程度であり、転んだ者も全員大した怪我は負っていない。悪くて擦り傷や軽い打撲だ。
もちろん、叶や解も無事である。
「あーもう、本当にさっきは大変だったよ……。髪の毛ボサボサになっちゃうし」
「あ、本当だ。直してあげるよ」
「ごめんね、城崎くん。手を煩わせちゃって」
叶の髪を解が手櫛で梳いている光景を、悠人はぼんやりと眺める。
だが、彼の頭の中にあったのは全く別のこと。
(ローラが……このままだと、ローラが奪われる……)
焦燥感と危機感。恐怖と憤怒。それらが感情の全てを支配している。
敵であることを分かっていながらここまで彼女に執着するだなんていうのも変な話だ。だが、彼女に対しての恋心をこれまで以上に自覚した現在、この執着を捨てることは到底できそうもない。
(彼女がローラから『普通』を奪おうとしているのならば、俺は……)
ふと思い浮かんだその考えの最低さに、悠人は全く気付かなかった。
彼女の普通の少女らしさと柔らかな微笑み。それを失わせたくない。
使命だけに生きてきた彼女の普通の生活、普通の人間として当たり前の感情。それを自分は護りたい。
――だから、そのためだったら、自分は悪魔にでもなってやろう。
無意識に宿した感情が招く取り返しの付かない未来を、暁美悠人はまだ知らない。
*****
清水寺の観光の後に向かったのは八坂神社。「祇園祭」の舞台で知られる神社を境内をのんびりと巡っていく。
だが思いの外観光がすぐに終わり時間が余ってしまったため、悠人たちの班は祇園の街をしばし散歩することとなった。ここには土産屋や茶屋も多く存在しているから有意義な時間を過ごすことができるだろうと、班員の中では一番気が利く解が提案したからこそ生まれたプランだった。
土産を物色したり抹茶のスイーツを堪能したり……ゆったりとした時間を過ごしているうちに、悠人が先ほど無意識に抱いてしまった邪念は徐々に薄れつつあった。
が、それは思いもよらない形で蘇ることとなる。
「ねえねえ知ってる? 祇園って、京都最強の縁切り神社があるらしいよ」
きっかけは、たまたますれ違った他校の女子生徒が口にした一言だった。
その言葉が耳に届いた瞬間、悠人の足が思わず止まる。
「悠くん? どうしたの?」
叶が首を傾げてこちらを覗いてくるが、悠人は全く意に介さない。女子高生たちの会話に、ひたすら集中が注がれる。
「何でも、悪縁を切って良縁を結んでくれる神様がいるんだって」
「えっ? でもこの前テレビで、あそこに祀られてるのって怨霊だって聞いたよ?」
「でも、怨霊だとしてもご利益があるのには変わりないでしょ? 悪い縁を切ってくれるならそれでいいじゃん」
「そうよ! それに怨霊だったら、より惨い形であの浮気性の彼氏に天罰を与えられるはず……! そしてアタシは新しい彼氏をゲットして……」
「……そうやって他人を呪うようなお願いしたら自分に跳ね返ってくるから気を付けた方がいいと思うけどね」
そうやって楽しげに会話を交わしながら、女子高生グループは軽やかな足取りで悠人の脇を通り過ぎていく。
一瞬だけ女子高生たちがこちらを振り返り、「って、すごいイケメンがいる!?」「うわあ! アタシの彼氏より圧倒的にカッコいいじゃん!」みたいなことを言って騒ぎ立てたが、それも悠人は耳障りに感じなかった。
(縁切りの神社。悪縁を断ち切り、良縁を結んでくれる神……そんな存在がいるのなら……)
女子高生たちの会話内容をよく咀嚼した後、悠人は意を決したように友人たちの方へ首を回した。
「あのさ、俺……行きたい場所があるんだけど」
「悠くんが提案してくるなんて珍しいね。で、一体何処に行きたいの?」
「えっと……」
悠人が口にしたのは、一部では名が知られているとある神社。
その言葉を聞いてきょとんとするローラと叶、そして少し言葉を失ったような様子を見せている解。
「え……悠人、そこって京都屈指の縁切り神社だよね? そこに自ら積極的に行きたいって言っているってことは、縁を切りたい相手がいるってこと?」
「……まあな」
少し俯き気味に、悠人は理由を述べた。
「昨日修学旅行に勝手に付いてきたゼヘルたちとの関係を断ちたいって思ってて。あいつら、俺が『仲良くしたくない』って散々言っても聞く耳持たないからさ」
「ふーん……? あの人たちと随分と仲良さそうに見えたけれど……」
「いや、あれはあいつらが勝手にこっちに寄ってきただけだって。そもそもあいつらは別に友人じゃなくて、ただの知り合いだからな」
「そ、そうなのかい……? 悠人が言うのなら正しいのかもしれないけれど」
解はいまいち釈然としない様子を見せてはいるものの、一応納得の意は見せているようだ。叶も彼と同じような反応。ゼヘルたちとのしがらみを知っているローラは非常に明確に肯定の意思表示をしていた。
だが、彼らに述べた理由は、悠人が縁切り神社に赴くことを望む本当の理由では無い。
(もしかしたら、あの場所は俺の願いを叶えてくれる場所になるかもしれない)
悠人の願い。
それは、ローラが元の聖女としての戒律に縛られた生活に連れ戻されぬよう、追う側のルチアと追われる側のローラの関係を断ち切ることであった。
こんなことを願っても、どうにもならないことは分かっている。たとえ強力な神社であるとはいえ、神と対になる邪悪な存在の邪悪な願いなど、間違いなく聞き届けてくれない。悪意の無い純粋な願いを届けてもらおうとした、昨日の野宮神社の時とは訳が違う。
それでも、悠人は一縷の望みに賭けてみたかった。
――大切な者のことを、窮屈な運命から解放するためには。
――そのためには、彼女を教団との縁から隔離しなければいけない。
その想いを心の奥に大事に隠した上で、悠人は班員たちに交渉を持ち掛けていた。
「……まあ、京都に来た以上少しでも多くの神社を見て回りたいから、僕は悠人の意見に賛成するけど。浅浦さんとフォーマルハウトさんはどうなんだい?」
「私は別に構わん。生憎、私もユートがあの連中に付き纏われている光景にはうんざりしていたのだよ。祈願が成就するかは分からんが、少しでも可能性があるならばそれに賭けるのも一考だろう」
基本的に親友の望みは何でも肯定することをスタンスとしている解は、戸惑いつつも了承し。悠人の魂胆を知らないローラは、昨日の嫌な記憶に溜め息を吐きつつ頷いていた。
だが、叶は。
「……あたしは反対だな、そういうの」
とても重みのある否定の言葉を、真摯な表情で零した。
「悠くんが望まない縁だとしても、向こうはその縁を望んでいたのかもしれない。だから、相手が大切にしようとしていた縁を自分のエゴで断ち切ろうとするのは、結果的に相手の幸せを奪うことと同じだと思うんだ」
「……」
「自分の幸せのために誰かが不幸になるんだったら、あたしはお祈りしたいとは思わないかな」
「……」
「好きな人を振り向かせるのは自分自身の力で、って決めているから。あたしは」
「……」
悠人は何も言い返せなかった。
勝ち目が無くとも純潔で純粋な意思を曲げようとしない、幼馴染の眩しすぎるひたむきさに。
(……俺は、馬鹿だ)
醜悪な形で願うことを、叶は望んでいない。願いは自分の手で、もしそれが難しいならば誰も傷付かない形で叶えることを、彼女は望んでいる。
だから、私欲のために誰かの縁を引き裂くことを願うことは、結果的に彼女の心を曇らせることに繋がってしまう。彼女のために寄り添う「英雄」としての自身の揺らぎに繋がってしまう。
(俺はずっとローラのことを考えてばかりで、カナのことを全く考えようとしなかった。俺がローラのために最低な願いをすることが、カナのことを失望させる結果に繋がるだなんて、欠片も思っていなかった)
悠人の好意がローラに傾きつつあるのだと、叶は知っている。それでも、たとえそれが叶わない願いなのだとしても、神に頼らず自身の力でどうにかしようとしている。
そんな清らかで一途で一直線な彼女の幼馴染が、どうしようもなく穢れた想いを秘めていることが、とてつもなく恥ずかしい。
(俺にとって大切なのは、ローラだけじゃない。幼い頃から俺に寄り添い、俺のことを理解しようとしてきたカナも、俺にとっては大切な存在だろうが……)
「浅浦叶のために」――それが、ローラと自分の絆を繋いでいる鎹。
それをバラバラに崩さないためには、叶のことも念頭に入れて行動する必要があるのだと、悠人は改めて思い知った。
――たとえローラに心惹かれようと、自分がどんな存在であろうと、叶が自分のことを想ってくれている限り、その笑顔は絶対に曇らせないようにしたい。
幼馴染に本心を打ち明けた日に抱いた想いを胸に表出させ、それを忘れないよう接着した悠人は、
「……やっぱり、いいや」
ローラとルチアの縁切りを願うのを諦めた。
「どうして? あんなに行きたそうにしていたのに」
当然、親友の急な心変わりに解は困惑したような様子を見せている。あれだけ願っていた縁切りを急に諦めたのだから、戸惑うのも無理は無い。
その真意を言うことは、流石に当人が目の前にいる中ではできなかったため、悠人は若干脚色した返答をした。
「カナが反対してるんだ。班員の一人が行くのを拒否してるのなら、俺らはその班員に従うべきだと思ってさ」
「えっ……? 悠くん、あくまでさっきのはあたしの一意見だっただけなんだけど……」
「いいって。それでもカナは縁切り神社への参拝を快く思ってないんだろ? だったらお前の幼馴染として、俺はそれに合わせるだけだから」
「もう、悠くんは本当に優しすぎるんだから……あっ、ところでローラちゃんもそれで大丈夫なの? ローラちゃんも悠くんに賛成していたみたいだけど」
「本来私はどちらでも良いと思っていた身だ。ユートがあの連中に今後も付き纏われるのだろうという現実が続くことには釈然としないが、貴君が罪無き者を不幸にする願いを望まぬのならば、私は友人としてそれを快く受け入れよう」
ローラも皆の意見に賛同するような姿勢を見せていた。元々彼女はどっち付かずの立場にいたのだ。素直に大多数に合わせることにしたのだろう。
「本当にごめんね、みんな……」
叶が申し訳無さそうに謝る。自分のわがままに周囲が合わせてくれたということに、自身の良心が痛んでいるようだ。
そんな彼女に代替案を出したのは、やはりこういう時に機転が利く解で。
「じゃあさ、代わりに建仁寺に行くのはどうかな? そこは無難な寺社仏閣だから。『双龍図』とか『風神雷神図』とか、いろいろな見どころがあるみたいだし」
「うん……そこなら大丈夫。ありがとう、城崎くん」
解の提案に気を取り直した叶は、いつもの彼女らしい溌溂とした笑顔を取り戻した。
「じゃあ……みんあ、行こっか!」
再び元気になった彼女は、皆より先に街道を行く。
流石にすごい気の変わりようだとは思ったが、悠人は幼馴染のいつも通りの挙措に安堵を抱いた。
……同時に彼女の姿を眺めて、先ほどまでの醜い自分に吐き気がするほどの嫌悪を感じたが。
「……でも、僕としても悠人が考え直してくれて安心したよ」
不意に、解が悠人にだけ聞こえるような声で呟く。
「あ、やっぱりお前もカナと同じ意見だったのか?」
「まあね。それに、縁切りは邪悪な気持ちで願ったらかえって自分に跳ね返ってくる、って言われているから。願いは呪いと同じようなものだってことは……忘れないでほしいかな」
その言葉には、まるで政治家の所信表明演説のような、鋭く固い本気が秘められていて。
こちらに言い聞かせるように真摯な声音で紡がれた解の一言は、何故か悠人の心にずんと響いた。




