暗雲
幸いなことに、あれ以降伏見稲荷大社の観光をする中で、突然襲撃を受けることは無かった。
閃光が向かってくることも肉体を抉られることも無く、平穏無事な状況下で千本鳥居の散策を再開する。
そして鳥居の先にあった奥社奉拝所を見物し、持ち上げてみて予想よりも軽ければ願いが叶うとされている「おもかる石」で運試しをした後、悠人たちは解と離別した地点である楼門前へと戻ってきた。
のだが、帰還して早々に、悠人は異変に気付く。
「……あれ? ゼヘルの奴、何処行ったんだ?」
楼門前で出迎えてくれたのは解ただ一人。出発する前までは彼と共にいたゼヘルの姿が何処にも無かった。
もしや解がふと目を離した隙に逃げ出したのでは……一瞬そう危惧した悠人であったが、それとは違うことを解が教えてくれた。
「彼なら無事に友人と再会できたよ。そして『これ以上学校側の好意に甘んじる訳にはいかない』って言って、ご友人と一緒に何処かへ向かったんだ」
「そ、そうなのか……?」
確か鴨川沿いでダインスレイヴと相見えた際は、ゼヘルは彼のことを非常に毛嫌いしている様子であったはず。だからもしその印象通りの人間関係だったのならば、自ら進んで彼と共に行動しようとするのは妙な話だ。
しかし忠臣の一面が強いゼヘルのことだ。きっと真祖自身にこれ以上迷惑が掛からないようにするために、ダインスレイヴのことをこちらから隔離させようとしたのかもしれない。少々短絡的にして楽観的かもしれないが、悠人はそう捉えることとした。
「えー? あの人たち帰っちゃったのー? 話してて楽しかったのにー」
親しくなった者たちとの突然の別れが信じられないらしい叶が、がっかりしたような顔で嘆いている。
実は彼らの正体はお前の大嫌いな吸血鬼なんだが。そう言える訳も無く、悠人は呑気な幼馴染に対して無言で苦笑した。
そして実際にゼヘルたちが別れ行く現場に直面していた当人も、悠人と同じように苦笑していて。
「僕としてもあの発言はちょっと意外だったかな……。だって二人とも、悠人に対してすごく独占的だったじゃないか」
「まあ、そうだけど……でもあいつらもあいつらで、仲良くさせてもらってる友達にこれ以上甘えてちゃ駄目だって自覚したんじゃねーかな。仮にもあいつらは立派な大人な訳だし」
「うーん……でも僕としては、彼らがまたこっちに帰ってきそうな気もしなくは無いけどね。一応僕が灸を据えたとはいえ」
悠人と同じく、解もゼヘルとダインスレイヴの動向を密かに危惧しているようだ。嘆息しつつ、彼らが消えたと思わしき入り口付近の大鳥居を眺めている。
とにかく、ダインスレイヴはともかくとしてゼヘルまでもが何故突然行方を眩ませたのかは分からないが、彼らが無関係な人々を巻き込まないことを祈るばかりだ。解と共に、悠人は内心でそう祈った。
そんなやり取りの中、ローラは腕を組み何かを思索していた。
「……」
険しい顔で考え込む彼女の異変を感じ取った者は、誰もいない。
*****
だが、ゼヘル・エデルは無事に旧知の仲と再会できた訳では無かった。
……否、厳密に言えば再会できていたものの、その光景はほのぼのとしたものでは無い。非常に殺伐としたものだった。
「やあ、ゼッちゃん。こんな場所に呼び出して何の用?」
「少しばかり貴下に伺いたいことがあってな」
場所は伏見稲荷大社の本殿の裏。人目の付かない場所にあるこんもりとした茂みの陰。
そこでゼヘルは、ダインスレイヴと対峙していた。
あの後、今回自分が京都を訪れた件において裏で根回しをしているカインの助力もあり、ダインスレイヴのことを簡単にここまで呼び寄せることができた。これも、現在真祖が欠けている吸血鬼社会において真祖の代理を務めている彼の力があってこそなのだと、ゼヘルは思う。
それ以上に運が良かったのは、はぐれていたダインスレイヴが偶然この観光名所を訪れていたということであったが。
「所詮、貴下はあまり時間を掛けすぎると昨夜のように脱走するであろう。故に単刀直入に伺わせてもらう」
ダインスレイヴが再び口を開く前に、ゼヘルは先手を切って本題を切り出す。
尋問中に逃げられぬよう、片手に自身の異能で創り出したリボルバー式の拳銃を携えて。
「昨日から今日にかけて、貴下は時折姿を消しているようだが、その目的は如何なるものか?」
「なーんだ。随分神妙な顔してるなーって思ったけど、そんなことだったんだ」
こちらは真面目に問うているのだが、彼にはその意思が伝わっていなかった。
嘲り笑いつつ、ダインスレイヴは自身の真意を明かす。
「単純なことだよ。僕の本来の依頼主――ラリッサ様のために動いていただけ」
「ほう。ならば具体的には何を行っていたのか聞かせてもらおうか」
「それは――」
勿体ぶるように言葉を溜めるダインスレイヴは、不意に片手を頭上に突き上げ、瞬時にそれを振り下ろした。
その所作を見た途端、ゼヘルの顔色が豹変する。咄嗟に拳銃の引き金を引き、彼の動きを牽制せんとした。
だが、無駄。
「――部外者になんか言える訳、無いよねえ?」
ダインスレイヴが腕を振り下ろした瞬間に生まれたのは、不可視の鎌鼬。
空気が圧縮されたことで生み出された見えない凶刃が、牽制のために放った弾丸を細かく切り刻み、そのままこちらの身体を断裁せんと向かってきた。
だが、こちらは真祖と同等の力を有する吸血鬼。弱体化している真昼間であるが故に多少苦労はしたが、咄嗟に横に跳躍することで回避に成功した。標的を見失った鎌鼬はそのまま直進し、背後の木々を木っ端微塵に砕く。
「あーあ、避けられちゃった。避けられるだろうとは思ってたけど」
避けられたことに襲撃者は軽く舌打ちしたものの、すぐさまいつもの軽佻浮薄な様子で語り始める。
「知ってるよ。ゼッちゃんがこの都市を訪れてるのは、僕とラリッサ様の計画を邪魔するためなんだってことは。だからゼッちゃんたちに計画を邪魔されないようにするために、今まで僕はゼッちゃんに金魚の糞みたいに一緒に行動してたって訳」
あれは自分から「手綱を握る」と提案しただけなのだが。
そうツッコミを入れたいところではあったが、流石に緊迫した空気ではそうする訳にはいかなかった。だからダインスレイヴの発言に鋭く聞き返す。
「……ならばこの現在、素直に自分からの招集に応じたのも、」
「そ。足止め」
とても軽い調子で返答したダインスレイヴは、こちらが詰問しつつ繰り出している連射攻撃をひらりひらりとかわしている。正直、真昼に弱体化しているとは思えない。
(埒が明かぬか……)
ダインスレイヴとラリッサの計画がどのようなものかは不明瞭であれど、彼らの狙いが真祖であることはすでに明瞭となっている。これ以上好きにさせないようにするためには、今ここでダインスレイヴのことを行動不可にしておく必要があった。
故に確実に仕留めるべく、ゼヘルは手に握る拳銃を片手剣へと変換。決定打を与えるのには扱い慣れている武器の方がいい。
現在の時刻はおよそ午前十時。おまけにここ数日は吸血を行っていないため最盛時よりも力が欠けている。最悪の条件が重なっているため、自身の身体能力と血で形成した剣の強度にかなりの不安はあった。
だが、それはきっとあちら側も同じのはずだ。短い呼気と共に、ゼヘルは瞬時に前進を図り――
「ごめんね。大親友の君に恨みは無いけど、依頼されたことだからさ」
――それと同時、ダインスレイヴは今まで何処からともなく大鎌を召喚し、それを軽やかに撓らせた。
瞬間、先ほどとは比べ物にならないほどの空気の歪みが生じ、見えない斬撃の塊として形成され、
「――っぐ、あっ!!」
ゼヘルの上半身と下半身を綺麗に分断した。
大量の血が弾け飛び、周囲の地面に鮮やかな赤い雨が降り注ぐ。へし折れた木々と根こそぎ刈られた草花が堆積する土の上に、肉片の雪が降り積もる。
遅れて、下半身と別れたゼヘルの上半身がうつ伏せに倒れた。
「うぐ……っ」
ダインスレイヴ=アルスノヴァは四使徒に匹敵するほどの力を有している。こちらが手を抜いていれば、彼は簡単に勝ってしまう。それほどの実力が彼にはあった。
しかし、こちらは手を抜いていない。時刻が昼間かつ血が足りないという悪条件が揃ってさえいなければ、こちらは勝利を収めることができるはずなのに。
おまけに、自身が被っている悪条件は、ダインスレイヴの方も被っているはずなのだが……
「……よもや、貴下は自身が見ておらぬ間に、」
「あは、気付いたみたいだねえ? 気付くの遅いけど」
愕然と理解したゼヘルの目の前で、ダインスレイヴはにんまりと嗤う。
「ゼッちゃんが見てない間に、僕は人間の血をお腹いっぱい吸っていたのさ。まずはラリッサ様から頂戴した報酬としての血が何本か。そして……この旅の中でダブルブッキングしたもう一人の契約相手から頂戴した新鮮な血液。それをゼッちゃんがいない隙に飲んでいてね」
「もう一人の契約相手……?」
「あ、これは言っちゃいけないって決められてたんだった。僕自身のマイルールで」
これ以上、ダインスレイヴは答えてくれなかった。地に伏せるゼヘルをちらりと一瞥し、凄惨な殺戮場から立ち去っていく。
最後に一言だけを残して。
「それにしても……何でゼッちゃんたちは止めようとするんだろうね? この計画が成功した暁には、真祖様とクルースニクの仲が引き裂かれるっていうのに」
そして、辺りには誰もいなくなる。
「真祖様……」
脂汗を垂らしながら、ゼヘルは茂みの中で横たわる。
すでに失われた下半身は再生を始めていた。
出血はすでに止まっている。傷口を火炙りにされているかのような灼熱は徐々に薄れ、欠けた両脚もじわじわと元の形を取り戻しつつある。
それでも、去り際にダインスレイヴが呟いていた言葉だけはなかなか治らない傷口のように残っている。
(真祖様をラリッサ殿だけのものとする訳にはいかぬ……が、彼らの計画の完遂が真祖様とクルースニクの決裂に繋がるというのは、果たして真か否か……)
彼の心は今、望む未来と望まぬ未来との間で揺れている。




