憎悪宿る瞳
渡月橋での不毛な争いも沈静化し、ようやく嵐山の観光を再開することができた悠人。
あれ以降、奇跡的に何の荒波も立たない平和な状況が続いていた。故に悠人たちの班員プラス一名は、非常に落ち着いて観光を楽しむことができた。
とはいえ相変わらずローラとゼヘルは睨み合っていたのだが、天龍寺にて曽源池庭園などを眺めているうちに平静さを取り戻したらしく、最初と比べると敵意をぶつけ合う頻度は格段に減っていた。
しかし、野宮神社に赴こうとした際、再び波乱は訪れる。
「あ」
何故か、順路とは逆の方向からダインスレイヴが姿を現したのだった。
ローラとゼヘルのいがみ合いが終息しつつあったといえ随分と静かになり過ぎていたような気がしていたが、その原因がダインスレイヴの失踪にあったとは。
彼の失踪に悠人は全く気付いていなかったのだが、手綱を握る役割を担っていたゼヘルだけははっきりと気付いていたらしい。隻眼を鋭く尖らせ、突然消えた青年を難詰する。
「貴下、一体何処に行っていた?」
「トイレ」
ダインスレイヴは短く返答。
特に変な回答でもないだけに、誰も何も反論したり文句を言ったりすることができなかった。
「まあ、何も言わずに消えちゃったのは謝るよ。ごめんね。……はい、ということで次の目的地行っくよー!」
すごい気の変わりようだった。
ダインスレイヴは悪びれた様子の無い謝罪を述べた後、咄嗟に悠人たちを移動を急かす。
旅行ガイドよろしくダインスレイヴに連れられた場所は、偶然にも次に悠人たちが向かおうとしていた野宮神社で。
「さっき現地の人から聞いたんだけど、この神社って縁結びのご利益があるらしいよ。とか言ってる僕には別に結ばれたい相手なんていないんだけどねー」
誰に聞かせている訳でもない独り言を口にしながら、入り口に佇む黒木の鳥居をくぐるダインスレイヴ。悠人たちもまた、彼の後を追って苔生す境内の中へと立ち入った。
そんな中、悠人はぼんやりと本殿を見上げる。
(縁結び、か……)
その単語に、悠人自身も思うところはあった。
(まだそんなに大きな想いじゃないとはいえ、一応俺はローラに恋しているんだよな、そういえば……)
それはまだ『放っておけない』の領域にある感情だが、敵であり居候でありクラスメイトであり共闘関係である彼女に恋心を抱いていることに変わりはない。小さい感情だが、自分は確かに彼女を「好き」だと感じている。
ローラ・K・フォーマルハウトを愛したい――それは、自分のことを慕ってくれていた幼馴染の想いを裏切ることを覚悟してでも、自分自身で迷わず選んだ決断だった。
しかし自分は吸血鬼の真祖。本来ならば自分のために彼女を殺さねばならない立場。
そんな自分が聖女を愛してしまうなど、自分を取り巻く運命が黙っていない。
そう、分かっていた。思っていた。
でも……
(……それでも、俺が吸血鬼の真祖でも、)
彼女に向かって「好き」と意思表示することもできない身だけれども。
神と対になる邪悪な存在が、神に祈るなど変な話だけれども。
(赦されるのなら、ここで願ってもいいのかな……)
解が複雑そうに、ゼヘルが怪訝そうに、ダインスレイヴがにやにやと笑いつつ、三者三様の視線にそれぞれ射貫かれながらも、悠人は神憑ったかのように本殿に近寄る。
全ては、自分の力じゃどうにもならない想いを、神に聞き届けてもらうために。
(人類の敵である俺が、人類の救世主であるローラのことを愛してもいいのか、って……)
寂寥と苦痛を思い浮かべつつ、悠人が賽銭箱に小銭を投げ入れようとした時、
「――見つけたわ!」
突如、ロリータファッションを纏った西洋人の少女がものすごい剣幕でこちらに駆け寄ってきて、そのまま胸倉を掴んできた。
「え、は……!?」
「あんたが、あんたがお姉様を……!!」
少女が憎悪の篭もった視線で睨んでくる。彼女と出逢ったのは、今この時が初めてのはずなのに。
「絶対に、赦さないわ……!」
「お、おい、ちょっと待てって。誰だよお前は……!」
殺気立った彼女に詰め寄られ、悠人は困惑する。
見ず知らずのこの少女を怒らせるようなことをした記憶は一切無いし、彼女が口にした「お姉様」というのが誰を指しているのかも分からない。何が何だか、理解する隙さえも与えられなかった。
「悠人!」
「真祖様!」
悠人の危機となると黙っていられない解とゼヘルが、少女のことを引き離さんとするべく動き出そうとする。
が、彼らよりも先に動いたのはローラだった。
「いい加減にしたまえ! ルチア!」
彼女は怒り心頭といった様子で、ルチアという名らしい少女を咎める。
「貴君、何の理由を以て彼を殺そうとしているのかね!?」
「……お姉様こそ、」
ルチアの発した声で、悠人は彼女の指した「お姉様」がローラのことだったと知る。
(……ん? ということは……)
同時に、彼女の正体を知る。
その思いつきを確信付けたのは、やはりルチアが発した声で。
「お姉様こそ、どうして彼を庇うのですか!? だって彼は最低最悪の吸血鬼の王――真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムなのに!」
悠人のことを「ユークリッド」と呼ぶのは、吸血鬼と教団員くらいしか存在しない。その中で悠人に対し殺意を露わにするとすれば、それは教団に所属する者としか断定できない。
故に悠人は、ルチアがマリーエンキント教団の団員だと特定することができたのだった。
そしておそらく彼女が突然ここに現れた目的は、悠人と共に行動をしているローラの目を醒まさせること。共闘の盟約を結んだ時から、いずれは起こるだろうと薄々予測していた事態だった。
「とにかく、今は真祖を殺すことができなくても、ローラお姉様を連れ帰ることはできる! だからお姉様、こんな奴らのことは放っておいて、一緒に教団へ帰りましょう!? いつまでも俗世に馴れ合っていたらお姉様が穢れてしまうわ!」
「お前……!」
その言葉に、悠人は激昂する。
ルチアはローラのことを人間として見ていない。吸血鬼殺しのための存在として捉えている。
だが、悠人は知っている。ローラは真祖を殺すために生まれてきたクルースニクだが、特別扱いされ俗世から隔離されることは望んでいないと。普通の少女らしく生きることを望んでいるのだと。
遊園地ではしゃいだり、クラスメイトとしりとりを楽しんだり、楽しそうに鹿と触れ合ったり……普通の少女として今を楽しんでいるローラの笑顔を、再び教団に連れ戻すことで曇らせたくない。そんな強い想いが、悠人のことを強い怒りへと駆り立てた。
「ローラのことを道具扱いするな! こいつだって普通に楽しく生きる権利はあるだろうが!」
「分かってないのはあんたの方じゃない! 敵同士だと分かっていながらお姉様に近付いて自分の理想を押し付けて……そうやってお姉様のことを丸め込んで生き永らえようとしているんでしょう!?」
ルチアは聞く耳持たない。よほど教団へ帰依する心が強いのか、悠人の発言を頑なに拒んでいる。
この場には叶や解を含め、吸血鬼側の事情に巻き込む訳にはいかない人たちが多くいる。だからあまり大声で騒ぎ立てられるのは困るのだが……と、悠人は方々困り果てる。
その時救いの手を差し伸べたのは、ルチアの語る「お姉様」本人。
「ユート、彼女のことは私でなければ手に負えんだろう。ここは私に任せて、貴君は気にせず観光を続けたまえ。集合時間までには戻る」
と、ローラは口にし、ルチアの手首を鷲掴み。そのまま何処かへと去って行ってしまった。
ローラへの危惧とルチアへの憤怒が脳内で渦を巻き佇むばかりの悠人。そんな時に声を掛けたのは、何も知らぬ一般人である叶だった。
彼女はそっと悠人の元へと寄り、小声で囁く。
「あたし……あの子に新幹線で会ったんだよね。その時は随分といい子だなって思ってたんだけど……悠くん、あの子にそんなに恨まれるようなことしたの?」
「単なる妄言だろ。少なくとも、お前が気にすることじゃねーよ」
本当は恨まれる理由が大いにあったのだが、今はそれをはぐらかした。
吸血鬼のせいで絶大なトラウマを負うことになってしまった彼女のことを、吸血鬼絡みの厄介事に関わらせる訳には絶対にいかないから。
「わーお。何だか面白そうなことになってきたねえ」
叶たちを巻き込ませないことを再確認した悠人の背後では、ダインスレイヴがにやにやと笑いながら独り言ちっていた。
*****
「改めて聞きます、お姉様。どうしてなのですか」
野宮神社の参道から少し離れた場所にて、ローラはルチアより改めて尋問を受けた。
彼女の表情は真摯なものだったが、その中に含まれていたものは困惑、そしてそれ以上の怒り。
「お姉様なら察しが付いているとは思いますが、あたしが本当にここを訪れた理由は日本におけるお姉様の実態調査。『一向に真祖を仕留める様子が見られない』と事態を危ぶんでいるロベルト・ヴァレンシュタイン猊下の命令によるものです」
「……やはりか」
苦虫を噛み潰したような表情を形作るローラの脳裏には、数週間前に電話越しに聞いた言葉が蘇る。
あの時は上手くはぐらかしたつもりだったが、あれ以降「真祖を仕留めた」という報告どころか「真祖と交戦した」という報告も無ければ、彼がそう疑念を抱くのは当然だろう。
「夜戸市の近辺で活動している他の聖騎士から、お姉様が今潜入している学校の行事で京都を訪れているということを知り、あたしはこの都市へと向かいました。そして目にしたのは、お姉様が真祖と仲睦まじく馴れ合っているという由々しき光景だったという訳です」
そして彼の命を受け斥候として派遣されたルチアは、クルースニクが宿敵たる真祖と友人のように仲良く接しているところを目撃してしまった。
今のクルースニクから『真祖を殺す』という意志が失せているという残酷な事実を、ルチア・タルティーニという敬虔な信徒は知ってしまったのだ。
「ねえ教えて、お姉様。今のお姉様にとって、真祖は一体何なのですか? まだ真祖のことを『倒さねばならない敵』だと思っているのですか?」
「……私にとっての、ユートは、」
こちらをまっすぐに射貫いてくる緑の瞳が「嘘を吐くことは許さない」と訴えてくる。正直に白状しなければ殺す、という意志を感じるほどの凄まじい真摯さが溢れていた。
真祖と友のように振る舞っていたところを見ていた証人がここにいる以上、彼との関係を誤魔化すことはもうできない。聖女としての矜持に傷が付くことへの怯えはあったが、ローラは震える心に鞭を打って口を割った。
「ユートは……今は私ととある契約を結んでいる仲だ。敵だということは自覚しているが、今は訳合って互いに停戦している」
「その結果が、あの馴れ合いだとでも?」
「……」
ルチアの糾弾が耳に突き刺さり、精神に激痛を与えてくる。
「今の真祖には人間としての一面があることは知っています。だから真祖との戦いを今は止めざるを得なかったのは、運悪く真祖と深い関わりを持ってしまった人たちを気遣った結果だということは分かりました。でも……そうだとしても、まるでそれが当たり前であるかのように真祖と仲を深めているのは理解に苦しみます」
ルチアの発言はある意味では正しい。
人間として蘇った真祖と強く関わっている者たちを巻き込むことを避けるために彼を生かしておくというのならば、別にわざわざ仲良くなろうとする必要なんか無い。他人行儀のように遠巻きにしているだけで事足りる。
故にクルースニクと真祖が交流を結ぶ理由など、情が流されたというもの以外存在しないではないか。
募る危惧からそう思い至ったのか、ルチアは縋るように訴える。
「お姉様、目を覚ましてください! 人類の存亡のため、真祖は絶対に倒さなければならない存在! そして神に忠義を誓った聖騎士として、絶対に友好関係を結んではいけない存在です!」
こちらを射抜く瞳には、ローラへの行きすぎた尊敬と、吸血鬼への絶大な憎悪が在った。
そしてそれ以上に、「自分の大切な者を絶対に奪われたくない」という重くて固い覚悟が在った。
「彼は生かしておくだけで害悪です! 今は無害な人間のようであっても、いつ残虐な本性を露わにするか分かりません! それでお姉様が死ぬようなことがあったら……」
しかし、
「貴君は何も分かっていない」
戸惑いの感情が強かったローラであったが、その言葉だけははっきりと口にすることができた。
『俺はもう『ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム』を恐れて運命と戦いから逃げたりしない。だからといって『暁美悠人』を否定する吸血鬼たちに縋るつもりも無い』
ルチアは知らないが、自分は知っている。
『俺はただ今在る俺として、大切な存在を――父さん母さんとか解とか、そしてカナとかをちゃんと護ることができる存在として生きる。そう決めたんだ』
かつて彼が目の前で口にした誓いを。
大切な者を護るため、自分の本能が孕む悪意敵意殺意を利用してでも奮闘する彼の姿を。
人間の敵であることを自覚しながらも、それでも『暁美悠人』という一人の人間として運命に抗おうとする彼の生き様を。
彼の全てを間近で見ていたからこそ、これだけは胸を張って言い切ることができたのだ。
「私は、彼が自身の悪意にそう簡単に呑まれるような奴ではないと、信じている」
「……」
ルチアは愕然としていた。
説得されようと真祖との現状を変えようとしない憧れの人を前にし、失望の色を宿した瞳を極限まで見開き、ただ茫然と立ち尽くしていた。
ルチアは今、何を思っているのか。
それはローラには分からないことであり、また、分かろうともしたくないことであった。
「さて……集合時間が迫っているが故、私はここで失礼させてもらう。私のことを連れ帰ろうなどという馬鹿な考えは止め、貴君は本部に帰りたまえ」
意固地な少女に別れを告げ、ローラは颯爽と去る。
彼女が納得したかは不明だが、自身の本気を汲み取り諦めてくれればそれでいい。
踵を返したローラには、ただその思いだけがあった。
「……もう、お姉様は、真祖に毒されていたというのね……」
後ろ姿を見送るルチアが零した空虚な呟きは、非情にも届かず。




