吸血鬼たちの夜
そして約束の深夜零時。消灯時間をとうに過ぎた頃。
同室の男子たちが全員眠りについた頃合いを見計らい、悠人は客室のベランダから屋外へと出た。
普通の人間ならば、ベランダからホテルの敷地外へと出ることはできないと考えるだろう。だから見回りの教師たちも、ホテルの廊下は見張っていても客室の中からベランダにかけてを見張ることは無い。
しかし、暁美悠人は人間では無く吸血鬼。夜の訪れと共に身体能力を大幅に強化させる闇の種族。それを知らぬ教師たちは、彼がこれからしようとしていることを看破することはまず不可能。引率として付いてきている養護教諭・薬研エルネだけは看破できるのかもしれないが。
ガラス窓をそっと開け、物音を立てぬよう手すりにそっと飛び乗る悠人。それから唾を飲み込み心を奮起させ――
「――っ、と……」
数十メートルも下にある地面を目掛け飛び降りた。
常人ならばその行為を取っただけで即死。脳漿が潰れ骨格が砕け、たちまち熟れたトマトのような屍が出来上がるであろう。
しかし繰り返すが、悠人は身体能力に富んだ吸血鬼。故に無傷で着地することなど造作も無いことであった。
飛び降りた先はホテル裏の駐車場付近。見たところ警備はそこそこずさんなようだ。
しかし、もしかしたらという場合も考え、念入りに警戒。それでも何事も無いと判断できると、悠人は従業員用の通用口からそっとホテルの敷地外へと出た。
件の人物は、三条大橋の真下にある河川敷でこちらを待っていた。
「来られましたか」
悪意も敵意も無い声。それに加え、奈良公園で目にした際に纏っていたパーカーとジーンズを未だに着用していることが、彼の目的が戦闘でないということを証明している。
相手を睨みつつ階段を降り、鴨川沿いの河川敷へ。そうして接近すると、こちらを呼び出した吸血鬼は、忠誠の意として恭しく跪いた。
「今宵は自分の私的な用事であるにもかかわらず、わざわざお越しくださり有り難く存じます。約束通りお独りで来られたようで何よりにございます」
「跪く必要は無い。少しは人目を気にせよ」
「御意に」
深夜とはいえ、このような大都市なのだから夜に出歩く人がいてもおかしくは無い。通行人に訝しがられることを避けるべく、悠人は鋭く牽制した。
万が一のことを考慮し、現在悠人はユークリッドの人格を表出させている。こうすることで、仮にゼヘルが一般人に危害を加えようとした場合に絶対命令権で強制的に制御させることが可能だからだ。
尤も、最悪の事態に備えている悠人とは異なり、呼び出した当人――四使徒が一柱ゼヘル・エデルは相変わらず戦意を見せようとはしなかったのだが。
「そこまで警戒なさる必要はございません。昼にもお伝え致しました通り、今回の目的は真祖様の奪還でも民草の襲撃でもありませんが故」
「ならば早く要件を言え。余はあまり気が長い方ではあらぬ」
鋭く言い放つと、忠実な配下は素直かつ迅速に要件を告げた。
「端的に申し上げるならば、今回の自分の目的は監視にございます」
その表情はやけに神妙で。なおかつほんの少しだけ困惑を見せていて。
「監視……とな?」
「はい。真祖様がこの地を訪れている裏で、自分と同じ四使徒が一柱が奸計を働いているようなのです。そしてその一環として、一人の吸血鬼を雇い遣わしているようでして」
「四使徒……おそらく可能性として考えられる者はフォルトゥナ・リートかラリッサ・バルザミーネの二択であろうが、実際は如何程か?」
真祖の目の前で淡々と事実を告げているゼヘルが主犯とは思えない。そして真祖が望む通りの行動しか取らない四使徒筆頭カイン・シュローセンは、最も主犯から遠い人物と言えよう。
故に悠人は、奸計を働かせている四使徒を、どちらかと言えば秩序よりも己の欲望に忠実な残りの二人ではないかと踏んだのだが。
「は。先日一連の密談を様子を窺っていたカイン殿曰く、主犯はラリッサ殿である模様にございます。とはいえ先ほども申したように、ラリッサ殿自体はこの地に滞在している訳ではございません。自身は赴かず、わざわざ他の吸血鬼を先兵として遣わすことに何の意味があるのかは、この自分には理解し得ないことでしたが……」
「そうか。だが今憂慮すべき存在は、この地にはいないであろうラリッサ・バルザミーネでは無く、彼女が遣わしたとされる吸血鬼であろうがな」
ラリッサ自身が動いていないということは、遣わした吸血鬼伝に何らかの情報を得ることが彼女の狙いなのではないかと推測できる。
手に入れたいものは自分で手に入れ、排除したいものは自分で排除する――それがラリッサ・バルザミーネという娘の常套手段だと、真祖の過去の記憶が知っているから。
「然して、ラリッサが遣わしたとされる吸血鬼について、カインは何か掴んでおるのか?」
「……それは、」
途端にゼヘルが口ごもった。苦り切ったような表情を浮かべているが、何か訊かれたくない事情でもあるのだろうか。
奇妙な所作を見せた彼を、悠人が怪訝に思った時、
「それは当の人物がここにいるからってこともあるだろうね?」
咄嗟に気付いた。
橋の欄干に何者かが立っている。
ゼヘルが口ごもったのは、当事者がすぐそこに接近していたことを察したからなのだろう。
「お取り込みのところ悪いけれど、失礼するよん」
当の人物は欄干を飛び降り、こちらへと歩を進めてくる。
高身長かつ細身の青年だった。
前髪の上に古めかしいデザインのゴーグルと薄汚れたカッターシャツとベスト、擦り切れた黒い外套という、みずぼらしく時代錯誤な様相をしている。間違っても華やかな祇園の街でするような恰好では無い。
だがボロボロな姿よりも目を惹いたのは、背中に携えられた大鎌。自身の身長を優に超えたその巨大な武器が、彼の得物なのだろうと判断することは容易であった。
突然の介入者に、二人だけの時間を邪魔されたゼヘルは不愉快そうに顔を歪めている。
「……ダインスレイヴ=アルスノヴァ、自分がここで会合を行わんとしていたことを掴んでいたか」
「僕としてはその長い名前じゃなくて『ダインちゃん』って気軽に呼んでほしいんだけどなー。ま、カタブツのゼッちゃんには無理か」
「そのふざけた呼び名はやめろ」
真祖の次に位の高い吸血鬼に対し、この無礼な態度。悠人にはそれが、上下関係を度外視するほどの絶対的な自信に見えた。
実際には違ったのだが。
「……突然お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ございません。彼はふざけた言動の多い軽薄才子にして野卑滑稽な者でして」
「ちょっとゼッちゃん、そういう風にストレートに侮辱されると傷付いちゃうんだけど」
苦々しげに顔を歪め謝罪するゼヘルに対し抗議の声を上げたダインスレイヴは、今度は呆然と様子を窺っていた悠人の方へと顔を向けた。
「あ、そこの吸血鬼の坊ちゃん。ここにいるゼッちゃんのことは気にしなくていいからね? 彼は頭の固い言動が多い枯木寒岩で四角四面な奴だから」
「……」
「それにしてもびっくりだなあ。あのゼッちゃんがこんなもやしみたいな吸血鬼の坊ちゃんのことをこんなに気遣うなんてさ。これはもう賄賂を疑うしかないかもだね」
「……貴様」
その発言に、悠人は驚きを通り越して激しい呆れを感じた。もはやこの不躾は絶対的な自信というものではなく、むしろ無知蒙昧というか馬鹿というか、そんなものから生じているのかもしれない。
無論、真祖に対し無礼な態度で接したダインスレイヴという名の馬鹿に、真祖を絶対的な主君として崇め讃えているゼヘルは激怒した。
「貴下! この御方をどなたと心得る!」
「どうしたのゼッちゃん。急にそんなに怒って」
「貴下は我らが吸血鬼の頂点に立ちし者――真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム様の御前におるのだぞ!?」
「……え」
怒鳴られたダインスレイヴの顔が、面白いくらいに蒼白になっていく。
ずっと「もやしみたいな吸血鬼の坊ちゃん」として小馬鹿にしていた少年の正体をようやく知り愕然とする彼に、馬鹿にされた当人はとどめとして言ってやった。
「よくぞ真祖を前にして斯様に無礼を働けたものだな」
四百年前であればこのような態度を取られた時点で彼の首を飛ばしていたが、すっかり性格が丸くなってしまった今では流石にそこまではできない。それでも真祖当人が放つ一言は馬鹿な吸血鬼には効果覿面であったようで。
「えっと、その……マジで申し訳ございませんでした。めちゃくちゃ謝りますから斬首だけはしないでくださいお願いします死にたくない」
急にかしこまり膝をつくダインスレイヴ。そのまま頭を下げ、自身の欠礼について必死に土下座をする。
それでもなお慇懃無礼な口調ではあるものの、先ほどよりはしおらしくなったのではなかろうか。概ね彼に従う意思が見られたのを確認すると、悠人は本題について口火を切った。
「さて、ダインスレイヴ=アルスノヴァとやらよ。貴様の目的は一体何だ?」
「……」
「吐け」
言いたくない事情でもあるのか押し黙るダインスレイヴだが、吸血鬼を強制的に従える能力を持つ真祖の前で黙秘は無意味。悠人が鋭く鶴声を放つと、ダインスレイヴはびくんと身体を震わせた後やおらに開口した。
「えっと、僕がここにいるのはラリッサ様から依頼を受けたからでして。ほら、僕って有名じゃないですか? 『困った時にはいつでも何処でも駆け付けるフリーランス吸血鬼』って。だから――」
「前置きは結構。本題のみを語れ」
話が長くなりそうだったので一旦打ち切らせてもらった。
「……まあ単刀直入に言うと、ラリッサ様に頼まれたんですよね。『自分の鴨になりそうな人物がいるから、自分の目的を果たすためにその人物と接触してこい』って」
「目的……というのは概ね如何なるものか推測できるが、貴様と彼女の語る『鴨になりそうな人物』とは何を指している?」
「そこまでは聞かされてねーです。……本当ですよ? 言いたくないから黙ってるとかじゃねーですからね?」
「分かっておる。絶対命令権が発動している最中、貴様のごとき一介の吸血鬼が余を前にして虚言をすることなどできまい」
他者を利用し目的を遂行させる……自らの手を汚すことを嫌う彼女らしい手段だとは思う。そのような習性が故、自称「困った時にはいつでも何処でも駆け付けるフリーランス吸血鬼」だというダインスレイヴを雇うことにしたのだろう。
そしてラリッサの嗜好を考えれば、他者を雇ってまで果たしたいという目的が真祖の奪還であるのは確実。しかしそこに不明瞭さは潜んでいて。
「だが、分からぬな。仮にラリッサの目的が余だとすれば、今ここで貴様は余のことを拉致でもせんとするのではないのか?」
「ところがどっこい、そうでもねーんですよ。『今は攫うな』ってラリッサ様から忠言食らってますしね。何処ぞの誰かさんみたいに、人質使ってでも真祖様を攫おうなんて気はさらさらねーですって」
苦笑するダインスレイヴの目が、不自然に悠人の脇へと逸らされる。悠人に代わって視界に捉えられた当人は不服げに鼻を鳴らした。
それから嘲笑された当人たる彼はそっと顔を悠人の耳元に寄せ、小声で言ってきた。
「真祖様、彼の話を真に受けるだけ無駄ですぞ」
「ああ、分かっておる」
悠人もまた、小声で応答し頷いた。
真祖に対して慇懃無礼、四使徒に対しては失礼至極――格上の存在を前にしても全く臆した様子の見られぬこのふざけた態度は素なのか演技なのか、それが全く見受けられなかった。現在だって表では自分に忠誠心を誓っているが、実は内心では先ほどのようにこちらを嘲弄している可能性だってある。
したがって、こんなふざけた態度で語られる彼の話は何処まで信用すればいいのか分からなかった。こういう時は信用しなければいいだけの話なのだが。
(……それにしても、)
ダインスレイヴへの懸念は一旦置いておき、悠人は新たに思考。
よもや修学旅行という学生にとっての一大イベントの最中に、このような厄介事を処理する羽目になるとは。
性格に大いに問題があるダインスレイヴの手綱を握っていなければ、何も知らない生徒たちまでもが巻き込まれかねない――と危惧した悠人は大きく溜め息を吐き、ダインスレイヴとゼヘルを交互に見渡した。
「ダインスレイヴ=アルスノヴァよ、貴様自身並びに貴様を遣わしたラリッサの目的が分からぬ以上、貴様の存在を野放しにしておく訳にはいかぬ……のだがな」
厄介者のダインスレイヴはこのまま放置しておけない。何をし出すか分からない者を放っておくなど、恐ろしくて出来やしなかった。
手元に置いて監視をするのが最適解なのだが、現在の悠人は修学旅行を満喫する学生の身。事情を分かってくれそうなローラやエルネはともかく、素性不明の外国人と行動を共にしていれば他の生徒や教師にあらぬ誤解をされかねない。
ならば、ここですべきことは一つしかなかった。
「仕方が無い。この場で殺すか」
「自分もそれが正しいと思われます」
「ちょっと待ってってば!!」
互いに合意した悠人とゼヘルに、ダインスレイヴが待ったを掛けた。
「さっき『死にたくない』って言ったじゃねーですか!! なのに僕の訴えを無視して殺害に踏み切ろうとするなんて酷いですよ!! この人でなし!!」
「貴様も人でなしではないか」
「それとこれとは別!!」
よほど己の生に執着しているのか、ダインスレイヴは「とにかく、死ぬのは嫌ですからね!!」と叫びながら地面に寝転がり、そのまま足をバタつかせて駄々を捏ね始めた。仮にも大の大人なのに、加えて他者の目があるというのに恥ずかしくないのだろうか。
まるで子供のような挙動に出始めたこの吸血鬼を非常に見苦しく感じ、悠人は思わず視線を逸らす。視線を逸らした先にいたゼヘルもまた、自分と同じように苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
しかしゼヘルは、何かを諦観したかのように重く溜め息を吐き、
「……背に腹はかえられぬか……」
と呟くと、悠人の方へ視線を合わせてきた。
「……真祖様。ここは一つ、この自分に任せてはくれませんでしょうか」
あれほどダインスレイヴを嫌がっていたはずのゼヘルによるまさかの宣誓。忠臣だった者による意外な発言に、たちまち悠人は目を丸くする。
「貴様、よもやこの馬鹿の監視を担うというのか?」
「仰る通りにございます。たかが監視対象が一人増えることなど自分にとっては問題無いことにございますので」
そして彼は、意を決したかのような清々しい笑みをこちらへと向け、
「要するに、自分がこの与太郎の手綱を常に握っていればよろしいのでしょう?」
「あ、ああ。そうだが……」
何故だろうか。
とてつもなく嫌な予感がした。




