微々たる愛
奈良観光を終えた冷泉学園高校二年生一同は、ついでとして立ち寄った京都府宇治市の観光地――具体的に言えば平等院などを巡り、その後夕方になって旅の本拠地である鴨川沿いのホテルへと辿り着く。
部屋に荷物を置きしばしくつろいだ後、大広間にてクラスごとに夕食。湯豆腐や京野菜を使った繊細な料理などが並ぶ豪勢ながらも京都らしさに満ちた夕食を堪能。残念ながら味覚を失っている悠人は堪能することはできなかったが。
そして食事を終えた後になり、一部の生徒にとっての一大イベントがついに幕を開けるのであった。
「風呂だあああぁぁぁっっっ!!」
「「うぉああああぁぁぁっっっ!!」」
「女湯だあああぁぁぁっっっ!!」
「「うぉああああぁぁぁっっっ!!」」
「覗きだあああぁぁぁっっっ!!」
「「うぉああああぁぁぁっっっ!!」」
一部の男子生徒による軒昂の雄叫びが、脱衣場中に響き渡る。
あまりにも迷惑極まりない大声であった。一般客はいなかったため、苦情を言われなかっただけまだマシである。
女子の裸体を観察できるチャンスを期待している思春期な彼らを、悠人と解は馬鹿馬鹿しげに見つめていた。
「……風呂くらい静かに入らせてほしいもんだよな」
「うん……。ああやって騒ぎたくなるほどに性欲が有り余ってるのかもしれないね……」
脱衣しつつ二人で言い合っていると、騒いでいた男子たちから一斉に殺意の視線を向けられた。
さらに運悪く、他の男子を先導していた一人の男子生徒に、何故か凄みの利いた声で怒られる羽目に。
「おい、そこのイケメン。お前らには女子との交流に飢えた俺たちの気持ちなんざ分からないだろうなぁ? だからそうやって興味無い素振りでいられるんだろ? あぁん?」
チンピラよろしく悠人に掴み掛かる男子生徒の名は神谷貴幸。顔だけしか取り柄の無い悠人のことを僻んでいる生徒の筆頭である。
何もかもスペックの高い解のことは無視し容姿のみしか優れた点の無い悠人を標的とする神谷のあくどさに、悠人当人はただ呆れていた。
「いや……お前ら、そんな簡単に女湯覗きができると思ってるのかよ」
「当たり前だろ!! たとえ男湯と女湯の仕切りに穴が開いていなくとも、せめて露天風呂の仕切りを登って上から覗くことなら――」
「このホテル、露天風呂無いぞ」
「何、だと……」
残酷な現実を告げてやると、神谷含めた男子生徒一同は面白いくらいに愕然とした表情へと一変した。
京の都のど真ん中にある宿だからだろうか。このホテルには露天風呂なるものは一切存在しなかった。
ホテル最上階にはゆっくり足を伸ばせるような大浴場があるものの、そこにて男湯と女湯を仕切るのは堅牢な石壁。つまりどう足掻いても覗きは無理。
「神は俺らに光雲を与えてくださらなかった……。……こんなの、あんまりだ……」
「日頃の行いが悪いからじゃないのかい?」
項垂れる神谷に、解がとどめの一言を突き刺す。それによって男子一同は完全に沈黙したのだった。
そんな彼らには目も遣らず、解は悠人の方へと駆け寄ってくる。
「彼らのことは放っておいて、僕たちは先に大浴場に行こうか」
「そうだな」
何も知らず勝手に騒ぎ立てていた彼らに同情することは流石にできない。悠人も同じく、未だ項垂れる神谷のことを差し置き、親友と共に大浴場に通じるスライド式のガラス戸を開けたのだった。
「あー……至福……」
入浴前に一騒動あったせいか、大浴場の湯加減はとても心地良く感じられた。
ほんのり緑色に色付く少し熱めの湯、浸かっていない上半身を温かく包みこんでくれる湯気、微かに檜の香りがする広い浴槽。こんな最適なコンディションで足を伸ばせるのはとても心安らぐことで。
(俺の自宅はおろか、四百年前でもこんなに広い風呂には入ってなかったしな……)
浴槽の縁に上半身を預け、仄かにオレンジ色の照明が灯る天井を眺めながら思考に耽る。
風呂の文化が途絶えていた近世欧州にしては珍しく、吸血鬼の真祖は律儀に入浴を行っていた。のだが、その際に入っていた風呂は旅館にあるような大きな湯壺ではなく、ちょうど一人だけが入れる大きさほどしかない猫足のバスタブ。その点も加味すると、悠人が大浴場で羽を伸ばした経験は本当に数えるほどしかない。
(たぶん最後に入った大浴場の風呂は、中学校の修学旅行で泊まった旅館のものだろうな……)
故に、久しぶりに浸かる広大な湯壺は、まるで初めて浸かったかのような新鮮な心地を与えてくれた。生新的な感覚を胸に抱きつつ、悠人は安堵の吐息を零す。
と、そんな中、先ほどまで身体を洗い流していたらしい解がこちらへと歩み寄って来る。
「はっきり言ってオジサン臭いよ、悠人」
「ぬかせ」
「でも、そういう風に極楽気分になっている悠人もまた新鮮でいいんだけどね」
一言だけで文句を言ってやると、彼はくすくすと笑いながら悠人の隣に身を沈めてくる。
「そんなに気持ちよかったのかい?」
「まあな。大きな風呂に入れる機会なんて、現代に暮らす高校生には滅多に訪れないものだし」
「それもそうか」
最初こそ、温泉の感想などといった当たり障りの無いやり取りをしていた二人。
しかしそれは、解が突然話題を変えてきたことによって波乱に満ちたものとなる。
「ところで悠人……フォーマルハウトさんのこと、どのくらい好き?」
「――っ!?」
出し抜けに訊かれ、動揺した悠人は湯壺の中で足を滑らせた。
縁に預けていた頭と背中がずり落ち、頭部含む全身が湯の中に落下。溺れることは無かったが、大量の湯が口の中に入り込み、さらにうっかりそれを飲み込んでしまった。
「ガ、ハッ、ゲフッ……! いきなり何てこと訊いてくるんだよ!!」
「あまり深い意味があって訊いたんじゃないんだけどなぁ……。単に僕は悠人の内心が聞きたかっただけで」
噎せつつ訴える悠人に、解は微苦笑で応える。この一日、どうも彼に感情を手玉に取られているかのような気がしてならない。
唸りつつ悠人は親友を睨むが、彼は何処吹く風といった体だった。
「悠人のフォーマルハウトさんへの恋心がどれくらい大きいのか知りたいだけだよ、僕は。例えば、初心な想いを抱いているだけなのか、いずれ結婚できるくらいまで親密な関係になりたいと思っているのか、それとも単に性行為したいっていうスケベな感情から生じたものなのか」
「少なくとも一番最後の奴だけは絶対に無いからな?」
いくら何でも宿敵同士で交接をするのはどうかと思う。
ローラに淡い恋心を抱いていてもなお、いずれ訪れる殺し合いの未来を懸念する悠人はそう思ったが、自分とローラの真の関係性を知らない解には絶対に言えるものでは無かった。
「言っておくが、俺のローラに対する想いは性欲とか熱愛とか、そんなものじゃないんだよ。何というか……共感というか同情というか。そんなものだって」
ローラのことが好きになったと自覚させてくれたのは、彼女と過ごすようになってから知らず知らずのうちに芽生えた、スプーン一匙の砂糖のような些細な感情。
それが何処で感じたものなのかは、悠人自身でもよく覚えていない。だから口でそれを表そうとしても、漠然とした言葉にしかならない。
「だから、ローラに対しての俺の感情は『ローラのことが好き』というよりも『ローラのことを放っておくことができない』に近いのかもしれない。確かに恋愛感情的なものはあるけど、それも抑え切れないくらい大きなものでは無い気がする」
「ふーん……」
悠人の回答を耳にした解は静かに頷くのみ。
そして彼は、折り曲げていた膝をぐいと伸ばし、
「……その『今は大きくない感情』が、いずれ取り返しの付かない事態を招くことがあるかもだけれども……」
「えっ……?」
解自身が立てた水飛沫と誰かが立てた湯桶の転がる音に阻まれ、その発言の全容を掴むことは叶わなかった。
ただ、彼の表情は何処と無くほくそ笑んでいるかのような気が……。
「解……今、何て言ったんだ……?」
「えっ? ……ああ、うん。何でもない」
尋ねると、先程の意味深な笑顔は何処へやら、すぐさまいつものように人当たりの良さそうな微笑みを作り出す解。
「ただ『悠人ってなかなかいい身体付きしてる』って呟いただけだから、本当に気にすることは無いよ」
「いや、その呟きは充分気にするに値するんだが」
無論、また解が同性愛を疑われかねない発言をしたことは、男風呂中を騒然とさせる。
「城崎……やっぱりお前……」
「俺、前から思ってたんだよな。暁美って本当は城崎と付き合うべきなんじゃないかだって」
「そうすれば俺らに叶ちゃんとかフォーマルハウトさんと付き合うチャンスが回ってくるし」
「いや、さっきのは誤解だからな!? 俺と解は間違ってもそんな関係じゃねーって!!」
「そう言うとますます怪しいよ、悠人……」
解の呟きを間に受けた男子たちの誤解を解消するべく奔走する悠人。
そうしている中、いつしか親友が意味深な表情を浮かべていたことに対する懐疑は心から消え失せていた。
*****
他方、同時刻の女湯にて。
「ローラちゃんって……ぶっちゃけ今の悠くんのこと、どう思ってる?」
「――なっ……!!」
ローラ・K・フォーマルハウトもまた、本音が抉り出されることを目的とした尋問を受けていた。
叶が質問を切り出したことにより、俄にざわつく女湯。
「あっ! アタシもそれ知りたい!」
「最近のフォーマルハウトさんって暁美くんと仲いいもんね!」
「今どんな感じなのか教えて!」
「……っ……!」
興味津々といった風の女子たちに群がられ、ローラは赤面しつつ口を閉ざす。
悠人に対する自身の感情に悶えている中、そのようなことを訊かれるのは非常に決まりが悪い。
「わ……私にとっての彼奴は、とりたて大した存在では無い! ただの居候相手だ!」
「本当に?」
苦し紛れの言い訳は、ローラを悩ます原因の一つである叶によって見破られていた。
「ローラちゃん……本当は悠くんのことを『悪くない』って思ってるんじゃない? 一体どうしてそこまで悠くんを突き放すのか分からないけど、もっと素直になった方が悠くんも喜ぶと思うよ」
悠人がローラに恋心を抱いていることを、叶は知っている。大切な幼馴染が何処からともなく現れた娘に取られることは屈辱であろうに、どうしてそこまで自分と悠人の中を取り持とうとするのだろう。それがローラにはとても不思議で堪らない。
「そ、そういうカナエは、ユートのことを一体何と思っているのかね?」
「えっ、あたし? えっと、それは……」
逆にローラに問いただされ、思わずたじろいでしまう叶。
しかしやや逡巡したような様子を見せたものの、彼女はそれを感じさせぬ微笑をすぐさま浮かべた。
それによってローラは、自分と悠人の仲を取り持とうとした叶の本心を誤解していたことを知る。
「悠くんは今でもあたしの……ううん、今以上に大切な幼馴染だよ。この前悠くんの本音を聞いた時、より強くそう思うようになったんだ」
叶が語った『悠人の本音』……それはあの時偶然聞いてしまった、悠人の「ローラのことが好き」という発言のことで間違いないはずだ。
「今までの悠くんは、あたしのことを傷付けないようにするため自分の本音を隠すことが多かった。でもそれだと悠くんはあたしのことを本当はどう想っているのか分からない……それがずっと不安だった。今までの悠くんなりの優しさは、悠くんでも知らないうちにあたしのことを苦しめてたんだよね……」
「つまり、彼奴の本音を知ったことで、カナエはその不安を払拭させたということかね?」
「まあ、そうだね。悠くんの本音はあたしにとっては不本意なものだったけど、それでもあたしは長年一緒にいても見ることができなかった本当の悠くんに触れることができてよかったって思ってる」
それから叶は、首をローラが座る方向へと傾け、
「だからなのかな。あたし……今以上に悠くんのこと『愛おしい』って思っちゃったかも。悠くんの想いはもうあたしに向いていないのに、そんな悠くんのことを無理やり振り向かせようとするのはいけないことだって知ってるのにね」
「……」
今でも悠人は叶のことを保護対象としているはずだが、恋愛対象として見られていないということが発覚した時点で、彼と幼馴染以上の関係になることを望む叶の敗北は確定している。
しかし敗北しているのにも関わらず、彼女に諦めた様子は無い。いつか巡って来るかもしれないチャンスを信じ、負けを認めつつも悠人のことを一途に慕い続けている。
「あたしがローラちゃんの本音を知りたかったのは、もしローラちゃんが悠くんのことをそんなに好きじゃないのなら、きっと悠くんとあたしが結ばれるんじゃないかって思ったから。ローラちゃんは悠くんをただの居候先の人としか思ってないことを悠くんが知れば、悠くんの恋心はあたしに向かうかも……なんて、すごく最低な考えだけどね」
要するに、叶はローラと対等になりたいのだ。
互いに悠人に心を寄せる者として、ローラには彼を賭けた女同士の戦いの舞台に登ってきてもらいたいのだ。
――ローラ・K・フォーマルハウトという娘が暁美悠人の宿敵であることを知らないから。
――ローラ・K・フォーマルハウトという娘が暁美悠人を殺す者であることを知らないから。
悠人とローラ――真祖とクルースニクが結ばれることが罪だと知らないからこそ。
「……」
何も知らないが故、自身の想いの実現に向け尽力する彼女のひたむきさが、ローラにはとても眩しくて切ない。
「……カナエは、すごいな」
彼女は自分よりも非力だが、自分には到底足りないとても大きな『何か』を持っている。
自分にもあるはずの『何か』の正体を未だに暴くことができないローラは、望まぬ結果を前にしてもめげていない彼女が羨ましくて堪らない。
そんな感情から思わず発してしまった羨望の言葉。幸いにも叶自身は、そして偶然聞いていた周囲の女子生徒たちは、その真の意味に気付いていないようだった。
「えっ!? ローラちゃんがそんなこと言っちゃうの!? あたしなんかよりもローラちゃんの方が何万倍もすごいのに!?」
「そうだよ!! 確かに叶も可愛いし愛嬌あるけれど、フォーマルハウトさんだって負けてないって!! 胸の大きさとか頭の良さなら勝ってるじゃん!!」
「ちょっとー、そんなこと言ったら叶が可哀想でしょー?」
「でもいいよねえ……あのクールな暁美くんの心をここまで惹き付けることができるなんて……。アタシなんて全然絡んだこと無いのに……」
頬を紅潮させ全否定する叶、そして冷やかしてくる女子生徒たち。
彼女たちがここまで盛り上がり、恋の進展を応援しているのは、自分と悠人を取り巻く運命の重さを知らないからなのだと思うと、急速に疎外感を感じてしまった。
(もし仮に、私がクルースニクでは無く何も知らない普通の少女だったならば……ユートに対する想いを素直に受け止め、カナエと対等な舞台に立つことができたのだろうか)
熱い湯に浸かっているはずなのに、心は尋常ではない薄ら寒さを訴えていた。




