鹿と聖女と吸血鬼
修学旅行一日目。
京都市街の散策は旅の後半に回し、今日は京都と隣接する県である奈良の中心部の観光を行うことになっていた。やはり京都に修学旅行に行く以上、京都と同じくらい歴史的建造物が集っている奈良も同じく外せない観光地なのである。
京都駅で新幹線を降りた後、一行はバスに乗り奈良県へ。
目的地は奈良市東部に位置する大公園――奈良公園である。
公園内には彼の有名な東大寺をはじめ、春日大社や興福寺などといった見どころが多々存在するのだが、生憎今時の高校生たちは仏像や寺社にはほとんど興味を示さない。
彼らの目を惹き付けるに充分すぎるものたちは、公園の至るところに点在していたのだから。
「うわあ……!! かわいー……!!」
叶が陶然とした声を上げつつカメラのシャッター音を切る。
彼女の目の前では、黄金色の毛並みをした一頭の獣が地べたに座り込み、うつらうつらとしつつくつろいでいた。
「ねえ、悠くんも可愛いって思わない!? だって鹿だよ!?」
「微妙に論点の合ってない話はやめろ」
冷静にツッコミを入れるが、悠人自身も奈良公園のシンボル的な獣である鹿のことは純粋に可愛いと思っている。
眠たげなどんぐり眼に短くもふかふかな毛並み、締まった身体からはみ出たような短い尻尾、お辞儀をしてから観光客にせんべいをもらう仕草。何処を取っても鹿という生物には可愛い要素が詰まっているのでは無かろうか。
そして、普段はあまり物事に興味を示さない悠人自身でさえ鹿に萌えているのだから、自分と同じく物事への関心が疎い聖女も鹿に萌えているのは当然であって。
「何と……あれは紛うことなき鹿の群れ……!」
肩をぷるぷると震わせ、頬を薄く紅潮させながら、鹿の前に立つローラ。おずおずと手を伸ばし、鹿の頭をそっと撫でた。
美少女に撫でられご満悦なのか、どんぐり眼をすっと細め彼女にされるがままになる鹿。それに釣られさらに興奮を露わにする聖女。
「この毛の感触……このあどけない表情……! 成程、此奴は聖女たる私を癒すために存在していたのではないかね……!?」
「それは絶対に無い」
またも悠人のツッコミが炸裂するも、ローラは全く聞く耳を持たない。普段の凛とした佇まいが演技であるかのように思われるほどの蕩けた笑顔で、無心で鹿のことを撫で繰り回していた。そろそろ鹿が鬱陶しがっているがいいのだろうか。
それにしても、いつもは冷静沈着なはずのローラがこれほどまでに過剰に鹿に興奮と感動を剥き出すとは。悠人はいつもとはまるで印象の違う彼女の挙措に妙な感情を抱きつつも、単純に気になったことについて尋ねてみる。
「なあ、ローラ。鹿をそんなに可愛がってるってことは、実はお前って鹿が好きなのか?」
「鹿だけに留まらず、動物全般はとても好きだ。悪意の無い純粋無垢な瞳と滑らかな毛並みが何とも堪らん……ってこら、舐めるでない」
鹿を撫でつつ微笑みつつ、ローラは素直に答える。鹿にぺろぺろと手を舐められても、楽しそうに笑っていることが、その発言が真のことだと裏付けていて。
そして、動物を前にはしゃぐ彼女は、吸血鬼狩りの使命を担った誇り高き戦士ではなく、戦場など知らぬ年頃の娘にしか見えなくて。
「ああ、そうだ。あとは……この国に来る前の楽しみといえば、動物と触れ合うこと程度しか無かったからかもしれんな。私がここまで動物に対し慈しみの心を持っているのは……」
先ほどの返答に思い出したかのように付け加えられた言葉の中には、微かな苦しみと寂しさが潜んでいるように思われて。
「……」
気付けば、悠人は沈黙していた。
暁美家に居候を始めるようになってから普通の少女らしい振る舞いを多く見せるようになった彼女、それに反して教団に暮らしていた時のことは一向に語りたがらない彼女。二つの側面を有する白き聖女を見て、悠人はふと考えてみる。
そんな彼女に対してギャップと同情と、そして愛おしさと庇護欲を感じたことが、自分の恋心へと繋がったのではないか……
……という、ふとした瞬間にそういった恋慕に満ちた考えがぐるぐる脳内を巡っていたというのも沈黙の理由なのだが、
「……ローラ」
まだ鹿を撫でている少女をじっと呆れたように見つつ、悠人は苦言を呈する。
「お前……いくら何でも鹿に群がられすぎじゃねーか……?」
気付けば白い美少女の周囲には、それはそれは多くの茶色い偶蹄目の獣が密集していた。
ローラは鹿たちの好物である鹿せんべいを持っている訳では無い。にもかかわらず、彼女の鹿からの人気ぶりは異常であった。
彼女の手を舌で舐め、頭をぐりぐりと擦り寄せ、挙句の果てには彼女のスカートの下に頭を突き入れ……と、鹿たちはやりたい放題。ほんの数頭が集まっているのならば微笑ましいと思える光景も、あまりにも大多数が群がっているともはやグロテスクな光景に等しい。
こんな状況でも相変わらず鹿に萌えたり笑ったりしていられるローラの神経が、悠人はそろそろ心配になってきた。
「うわ……。ローラちゃん、あんなに鹿に好かれてるなんてすごいや……」
「鹿せんべいを持っていないのに鹿を呼び寄せられるだなんて……。ひょっとしたらフォーマルハウトさんには鹿飼いの才能があるんじゃないかな……」
いつしか悠人の傍にやって来た叶と解も、ローラの鹿からの異様な人気ぶりには唖然としているようであった。
二人とも手には露店で購入した鹿せんべいを携えているのだが、不運なことに全く見向きもされていない。それほどまでにローラを取り巻く現状は異常であった。
悠人一行以外の冷泉学園高校の生徒たち、他校の修学旅行生、国内外の観光客、露天商の店主までもが鹿に群がられる西洋人美少女を茫然自失といった体で眺めている。
そろそろ集合時間までのタイムリミットが危うくなってきたのだが、一向に鹿たちが離れる気配は無し。このままでは奈良公園での観光時間を全て参道での鹿との戯れに費やす羽目になってしまいそうだ。
痺れを切らしたのか、解が悠人に耳打ちで文句を垂れてくる。
「……悠人。僕、そろそろ東大寺の観光に行きたいんだけど……」
「それは俺も同じだって。この公園には大仏とか春日大社とか見どころがたくさんあるっていうのに、こんな場所にいつまでも屯してるだなんて悲しすぎる」
「じゃあさ悠人、ちょっとフォーマルハウトさんのこと呼び戻してくれるかい?」
「……は?」
親友に無茶な頼み事をされ一瞬目を大きく見開く悠人。だが、すぐに彼の真意を察することができた。
どういう理由か絡んでいるのかは分からないが、解とローラの仲は未だに良好とは言い難い。故に解が勇んでローラのことを呼び戻そうとしても、鹿と戯れることを純粋な心で楽しんでいるローラが反発することは目に見えている。
しかし彼女とそこそこ親密な関係にある悠人ならば、渋々な反応はするだろうが言うことは聞いてくれるはず――解にはきっとそんな魂胆があるのだろう。
当然、親友の意向を察した悠人は依頼を行動に移すことを決意。
「……まあ、分かったよ。要するにローラと鹿を引き離して、ローラの気を鹿から逸らせばいいんだろ?」
「うん。くれぐれも鹿の機嫌を損ねる真似だけはしないでくれよ。せっかくの悠人との楽しい修学旅行なのに、悠人が鹿に攻撃されて大怪我を負うことになったら元も子も無いから」
「あ、ああ……」
実際には吸血鬼特有の驚異的な再生能力があるため大怪我をしてもすぐに完治するのだが、吸血鬼のことを何も知らない解にそう打ち明ける訳には流石にいかない。故に悠人は、愛想笑いを含んだ二つ返事だけで了解の意を示した。
周囲から奇異の視線の集中攻撃を受けつつも、悠人は鹿に囲まれるローラの元へ。
「おいローラ、そろそろ鹿と戯れるのは後にして、もっと他の場所を見て回――」
刹那、「邪魔をするな」という意志表示なのか、鹿の一頭が悠人に向け殺気立った頭突きを繰り出した。
「――ぐはあっ!?」
悠人の吸血鬼としての身体能力が生かされるのは夜が更けてから。普通の人間並みにまで弱体化している真昼では、鹿の頭突きを受け流したり躱したりすることもできなかった。
「悠人!?」
「あっ、悠くんが……」
「ユート、一体何なのだね? せっかく楽しんでいた最中であったのに」
切羽詰まった解の叫び声、再びの唖然とした叶の声、娯楽を邪魔されたことを不服に思うローラの声。それらを一斉に浴びせられながら、力強い一撃を喰らった悠人は後方へと一直線に飛ばされる。
そして不運なことに、他の観光客と激突してしまうこととなった。
「う、っ……!」
「……む」
ぶつかった相手が大柄だったが故か、不可抗力によって突進してきた悠人の方がはじき返される。激突の反動で前のめりに倒れてしまった。
幸いこちらが受けたのは頭突きのダメージだけ。だがそれと同等のダメージが、今さっきぶつかった観光客にも与えられている可能性もある。よろけながらも悠人は立ち上がり、相手側への謝罪を試みた。
「あの、すみません! こっちが不注意だった、もの、で……」
「否、不注意だったのは自分の方だ。謝罪すべきはこの自分……」
双方の謝罪は不自然な形で止まった。
「……な……っ!?」
最初にぶつかった時、何処かで聞き覚えのある声の持ち主だとは思っていた。しかしその時は「似たような声の持ち主なんて何人でもいるだろう」と、特に気に留めなかった。単に激突したことに気が動転していたというのもあるが。
だが相手の姿を見て、悠人は愕然とすると共に自身の認識の甘さを呪う。
(……な、んで……!!)
黒いパーカーにジーンズというカジュアルな服装。目深に被ったフードの陰から覗く白い医療用眼帯と赤銅色の髪、そして猛禽のように鋭い深紅の瞳。それらを余すこと無く有した、身長一九〇メートル超の案外若々しい偉丈夫。
悠人に敗北したことを契機に表舞台から姿を消したはずの吸血鬼が、拠点たる夜戸市から遠く離れた地に、悠人たちの前に立ち塞がる壁として、静かに佇んでいた。
「……何で、こんなところにいるんだよ……ゼヘル・エデル……っ……!!」
彼の全身を視認した瞬間、悠人の背には言いようも無い怖気が走る。
何故ならこの場には、かつて彼による奇襲を受けた、自分にとっての大切な幼馴染・叶がいる。加えて、親友の解を含め超常的な存在に対し無力の生徒たちや一般の観光客も多数いる。
つまりそれは、一度ここで戦闘が行われれば、彼らが皆巻き込まれてしまうということで……。
「……ああ、誰かと思えば真祖様でいらっしゃいましたか。これはとんだご無礼を働いてしまいましたな」
歯を軋らせ身構える悠人とは対照的に、ゼヘルは冷静な様子であった。
人間社会に溶け込むための服装を剥ぎ漆黒の鎧を纏うこともせず、ゼヘル・エデルはただこちらに謝意と敬意の視線を送るのみ。悪意も敵意もそこには存在していなかった。
(……? ……戦闘が目的じゃ、ないのか……?)
まさかこの戦狂いに限ってそのようなことがあるのだろうか……と疑念を抱くも、敵が間近にいる中で武装もせずにただ突っ立っているだけなのだから、そう視野にも入れてしまう。
そんな猜疑を察したのだろうか、ゼヘルは悠人に薄い笑みを向けた。
「ご安心を。四使徒筆頭殿に固い制約を受けておりますが故、今の自分には真祖様を迎え入れる権利もクルースニクを抹殺する権利もございません」
「じゃあ、何でこんなところにいるんだよ。夜戸市からこんな遠く離れた地で再会するだなんて、神様の悪戯にしてはよく出来過ぎたことだと思うんだが」
「仰る通り、自分がこの西の地を訪れたことも、真祖様に接触したことも、明確な目的があってのことにございます。ですがそれは真祖様に危害を加えるものでは無いと確約致しましょう。無論、真祖様の現在のご友人を巻き込むつもりもございませんとも」
「巻き込むつもりは無い」と語っているものの、悠人にはその発言がどうも胡散臭いものにしか感じられなかった。今は敵意悪意が無くとも、どうせ数時間後には誰かを手に掛けているに違いない。
いくら説明しても絶対的忠誠を誓っている主に疑われることに、そろそろ辟易としている様子のゼヘル。
「とはいえ、いつまでもこのように人気の多い場所に異端たる自分が居れば、真祖様が疑いなさるのは当然のことでしょうな。ここは一旦退くことに致しましょう」
言いつつ、彼は悠人の傍を静かに離れ、東大寺南大門の方向へと立ち去っていく。
そして悠人にのみ聞こえるよう、振り向きざまに言い残したのだった。
「詳しいお話は後ほど致します。今夜零時に三条大橋なる場所にてお会いしましょう……ああ、くれぐれもクルースニクは同行させぬようお願い致します。二人のみでお話がしたいが故」
慈しむような微笑を最後に見せ、そのままゼヘルの姿は雑踏の中に掻き消えた。
「何だったんだ、一体……」
未だにゼヘルの真の目的が見えないことに心地の悪さを感じつつ、悠人は呟きを零す。
その時、ようやく満足し鹿の群れから抜け出してきたらしいローラが、今度はこちらにやってきた。
「貴君……先ほどゼヘル・エデルと接触していたか」
鹿と触れ合っている中でもこちらの様子を窺っていたのだろう。獣臭さを全身から漂わせつつも、彼女は咎めるように告げてくる。
「奴の言葉を真に受ける必要は無い。おそらく奴は貴君を騙し連れ去るつもりだ」
「ああ……分かってる」
一応了解したものの、悠人はとある目的のためにわざわざ京都に足を運んでいるというゼヘルのことが気になって仕方が無い。
(……奴が何を企んでいるのか知らないが、とにかくこの四日間の修学旅行が何事も無く終わってくれればいいんだけどな……)
忠告してくれたローラには悪いが、情報を引き出すために今日の夜はゼヘルに逢いに行くべきだろう。
誰にも知られぬよう、悠人は心の中で静かに決心した。




