ただ、それだけで
「……ひかり」
愕然と目を見開く暮土。顔面を蒼白にし肩を小刻みに震わせる彼は、まるで怯える子犬のよう。
「どうして、ここにいるんだ……」
「エルネさんが『時殺し』を解いたからよ。海紗が彼女のことを説得してくれたらしいわ」
毅然と語るひかりの背後には、凛とした表情で静かに父親を見据えている海紗の姿がある。
「申し訳ございません、父様。父様の計画に手を貸すような挙措を見せておきながら、最後の最後に裏切るような真似をしてしまって」
若干悪びれたような雰囲気を見せたものの、すぐに海紗は取り乱すことなく謀反の理由を語った。
「わたしはやはり、自身が死ぬことによって全てを解決するようなやり方は間違っていると思いました。確かに暁美くんを殺すことで父様が死んだのならば、父様は苦しみから解放されるし、父様と同じ思いをする人も二度と現れなくなる……でも、父様がそうすることで、悲しむことになる人が多くいることに、どうか気付いてほしかった。……これが、わたしの裏切りの理由です」
「……海紗、お前はとても心優しい子だから、ボクの計画に従わないだろうということは分かっていたよ」
どういう訳か、暮土は反逆した自身の娘を咎めることをしなかった。
その代わり、深い悲しみを孕んだ瞳で彼女をじっと見据えながら、縋るように問うてきた。
「だけど、ボクには分からない。どうしてボクがいなくなることをみんながそんなに恐れるのかが。ボクがいなければ、みんな巻き込まれて不幸な目に遭わずに済むのに、ボクと同罪の者としてマリーエンキント教団に敵視されることも無くなるのに……」
「待て、それはどういうことだね?」
そこで口を挟んだのは、教団が偶像として掲げる聖女であるローラ。
何も知らず教団に奉られていた彼女にとって、その暮土の発言内容は未知の領域。眉根を寄せて問わずにいられなかった。
「まさかとは思うが、我が教団は貴様だけではなく、貴様の妻や子息にまで牙を剥いたということでは……」
「……そのまさかですよ」
何気なく口にした仮定を、暮土は肯定してしまう。
「数年前の話でした。仕事を終え帰宅している最中、ボクはマリーエンキント教団員がよって集ってボクの妻を脅迫している光景を見てしまったのです」
――お前は洗脳されている。
――一刻も早く奴と離別しろ。
――さもなければ容赦はしない。
――息子と娘に危害が及ぶのを避けたければ従え。
「……と、妻の胸倉を掴みながら、教団員は妻を脅していたのです。それがボクには、とても耐えられなかった。せっかくひかりや霧江や海紗のおかげで薄れた罪の意識が、その瞬間に全て蘇ってしまって……」
「故に貴様は、一度は断念した自殺に再び踏み込もうと?」
「ええ。ボクを疎む者の魔手が妻や子供たちにまで迫ってしまった以上、もうボクはこの世に生きていてはいけないと思った。だから……ボクについて行くと言ってくれたひかりには申し訳無いとは思いつつも、ボクは今度こそ死ぬことを決意したんです」
彼が放つ激烈な悲憤のオーラから見るに、嘘を言っているようには到底思えない。それに、もしこれがデマであるならば、当事者であるひかりが反論せず黙っている訳が無い。
彼自身の口で彼が真相を吐いたことによって、改めてローラはマリーエンキント教団の異常性を思い知らされることとなった。
それから暮土は、悠人とローラを交互に見遣りつつ。
「その点において、真祖がこの街に転生してくれたこと、そしてクルースニクがこの街を訪れ真祖と邂逅したというのは好都合でした。先ほど貴女には言いましたが、真祖ごと殺してしまえばボクだって死ぬことができるし、ボクと同じ不幸な生まれをする子もいなくなる。でもボクの力では真祖は殺せないから、貴女がクルースニクとして殺めてくれれば……そう考えていました。でも、それはもう、叶わないことですが……」
「……貴様は、」
涙を零しつつ、諦観の笑みを浮かべる半吸血鬼。弱々しく紡がれたその告解を、クルースニクの少女は何故か突き詰めなければならないような気がした。
……家族が見ている前でも、彼がまだ死にたいという欲求を抱えているのかどうかを確かめるべく。
「貴様はまだ、自らの死を願っているのかね?」
暮土は無言。
だが首が小さく縦に動いたのを、この場にいる全員が見た。
そしてその瞬間、真っ先に動いたのは――
「まだ……まだそんなことを考えているの!?」
暮土の妻・ひかりが怒鳴り声を上げる。
それから彼女は暮土の元へと駆け寄り、顔を両手で挟み込んだ。
「私、あの時言ったわよね!? 『貴方に『君が必要だ』って思わせられるような存在になってみせる』って!! なのに私を置いて先に逝こうってまだ考えていただなんて……貴方にとって私は最初から要らない存在だったの!?」
「……そんなことは無い。そんなことは無い、けれど……」
「全然分かっていないじゃないの!! もし分かっていたのなら、私の意向を無視して、私の知らないところで、密かに自殺の計画を立てたりしない!!」
ひかりの目元から零れるものは、熱く澄み切った一雫。それを断続的に溢れさせながら、必死に暮土を責め立て続けた。
「たとえ何があろうと暮土さんに付き従うって、私はあの時誓った!! 世界を敵に回す覚悟も、教団から白眼視される覚悟も、戦いに巻き込まれる覚悟も、全て理解している上で私は暮土さんと共に在ることを誓っているのよ!! なのに、なのにどうして貴方はそれを分かってるくれないの!?」
「……本当は分かっていたよ。ひかりは全てを理解した上でボクを愛し、ボクを支えようとしている、ってことを。でも……そんな君の姿が、いつしかボクの重荷になっていたんだよ……!!」
暮土もまた涙を流し、ひかりに訴えかけるように言葉を吐く。
「ボクは、怖いんだ……!! 父を亡くしたあの日のように、ボクに味方をしたひかりが教団に殺されてしまうのが……!! せっかく愛を取り戻したのに、この世界に生きていてもいいって思えたのに、ひかりまでもが奪われてしまったら、ボクは……!!」
「――その心配は無用だ」
その時、肩を震わせ嗚咽を漏らす暮土に声を掛けたのは、マリーエンキント教団の聖女ローラ。
「クレド・レイゼイイン、まずはマリーエンキント教団の聖女として、今までの教団の卑劣な行いを謝罪する。今更謝ったところで赦してはもらえないことは承知の上だ……が、吸血鬼を憎むあまり一般人までもを手に掛けるような真似は、主が唱える恩寵に反している。神を信ずる者として、彼らの行為は非常に罪深く、恥ずべきものだ。本当に申し訳無い」
「……」
深々と頭を垂れ謝罪の意を述べるローラには、暮土が今どんな表情で自分を見ているのかは分からない。ただ、ごくりと息を呑み込むような音が微かに響いたことから、生半可な気持ちで向き合ってはいないということだけは確信を持てた。
「故に私は教団を率いる象徴たる身として、貴君に精一杯の償いをせねばならないと思っている。その贖罪として私は、貴君の大切な者たちが……具体的に言うのであればレイゼイインの者たちが貴君を庇った罪として教団に弾劾されぬよう護る、という方法で手を打とうと考えているのだが……どうだね?」
「余としても、ここはクルースニクの意見に賛同すべきとは思うがな」
さらには悠人までもが、ローラの妥協案に乗じ始めた。
「冷泉院暮土、貴様の欠点は己のみで全てを背負い込まんとしている点だ。己が犠牲になれば万事が解決する――その思考は愚の骨頂としか言わざるを得んな」
何処か静かな怒りを秘めたその説教は、かつて似たような想いを抱えたことのある悠人だからこそ言えるのではないかと、ローラは密かに考える。
「貴様は他力本願を覚えるべきだ。辛ければ頼れ、苦しければ縋れ。決して己のみで全てが解決できるとは思うでない」
「……でも、ボクは貴方たちに酷いことをした。なのに今更頼るなんて、できる訳が……」
「気の小さい男よの。その程度の矮小なことなど、従いさえすれば来歴などどうでもいいこの余が気にするとでも思うておるのか?」
「悔しいが、私も真祖に同意する。吸血鬼と化した以上いずれ貴君は倒さねばならないが、貴君が吸血鬼化した原因に我が教団が犯した過ちが関わっているのであれば、私は償いの意味も込め貴君に手を貸さねばならないと思っている」
今度はローラが、悠人を軽く嘲笑いつつ発した意見に乗ずる。
かつて冷酷非道だった真祖が情を以て敵に救いの手を差し伸べ、かつて使命にのみ従順だった聖女が吸血鬼の罪を進んで赦そうとしている。
双方が己なりの考え方を以て、かといって互いの意見を否定すること無く共通の敵を共に救おうとしているというその事実は、吸血鬼と人間の在り方が少しずつ変化していることを紛れなく表していた。
「……分かるかしら? 二人とも、自分が何者であろうと知っていながらも、これが自分の立場上赦されないと分かっていながらも、それでも掟を破ってまで暮土さんのことを死なせないようにしているの。そして、それはこの私だって同じなのよ」
いずれ互いに殺し合わねばならない関係にある二人の想いを受け取り、ひかりが暮土に言う。
彼女の顔には、もう怒りは無い。今は、目の前にいる不幸な生涯を送ってきた男に対しての憐憫と慈悲と愛情を、柔らかい微笑みの中に湛えているのみ。
「暮土さんが教団から敵視されるのならば、私だって教団の敵になる。暮土さんが命を狙われ死にそうになっているのならば、私だって命を捧げる。私は何の力も持たない人間だけど、暮土さんのためだったら自らの身の安全なんてどうだっていいって思っているわ。だって……それだけ、暮土さんは唯一無二の大切な夫なんですもの。自分の命なんて比にならないくらい、ね」
「ひかり……」
暮土は大きく目を見開き、ぼろぼろと涙を流し、茫然とひかりを見つめている。泣いてはいるものの、藤色から深紅に塗り替えられた瞳から溢れ出す雫は、悲泣よりも感泣から流されているものなのだろうと、この場の誰もが感じていた。
おそらく彼は「死んでほしくない」「誰かが必要としている」という想いを受け取ってくれたのだろう……確信めいたものを心に抱いたひかりは、最後に優しく告げた。
「……だから、私の気持ちを差し置いて、一人で死のうだなんて考えないで」
瞬間、暮土の膝が頽た。
それはまるで、戦意を削がれた兵士のようで。あるいは、神の姿を幻視した教徒のようで。
咄嗟に身体を支えてくれたひかりの腕の中に抱かれながら、暮土は静かにすすり泣いた。
「……ごめん。本当に……ごめんね……」




