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神の小羊は沈黙のまま

*****





 ()がこの世に生まれる直前のこと。


『おね、がい……この子が、生まれたら……私の代わりに、この子を育て、て……』


 激しい陣痛に苦悶の表情を浮かべながら、床に臥せる彼女は言った。


『私の生命は、この子を産み落とすのに、耐えられそうに、無い……。産んだら、間違い無く、私は、死ぬわ……』


 想像を遥かに超えた激痛により息も絶え絶えになっているのにも関わらず、彼女は静かに笑っていた。


『でも私、自分の生命と引き換えに、この子を産むことは、後悔、していない……』


 何百年も保ってきた己の生命を捨てることさえもを恐れないその姿に、その場にいた誰も彼もが絶句していたことだろう。

 彼女の夫も、彼女の使用人も……彼女の従者たる吸血鬼も。


『些末な吸血鬼にしか、過ぎない私は……どうなったって、構わない……。けど、生まれてくるこの子は……私と貴方の、愛の形として、そして……吸血鬼と、人間が、互いに共存し合っている、世界の、象徴に、なり得るから……』


 だんだんと胎動してくる新たな生の気配。それと反比例するようにだんだんと薄弱になっていく彼女の生の気配。


『この子の名前は、もう、決めてあるわ……。この子の名前は、クレド……『我は信ず』という、意味……。そんな名を与えられた私の子と一緒に、私が夢見た新しい世界を、作ってほしいの……。私の、代わりに、ね……』


 そう言い終えた途端、苦しげに発せられていた声が急に穏やかになった。

 が、苦悶と同時に、今まで保持していた生命までもを放棄したようであった。


 そして、今際になって苦しみから解放された彼女は、最期に最上級の笑顔を見せたのだった。


『……だから、私の思い描いた夢を、どうか、叶えて……みんな』





 それは、一つの生命の終わりと、一つの生命の始まり。


 彼女の言葉と息が途絶えると共に、新たに産み落とされた異端の児が産声を上げる。

 同時に、彼女が最も愛した男が死と生を目の当たりにし大粒の涙を流し始めた光景が見えた。



 ……その時、ただ呆然と立ち竦むことしかできなかった自分は、いったい何を想っていたのだろう。







*****





 ――ローラが暮土と交戦をし始めた頃より、少し前のこと。



 冷泉院海紗は、時間の停止した屋敷の中をひたすらに駆け回っていた。

 目指すのは、ただ一つの場所。時間を停止させた張本人がいると思わしき場所であった。


(私の婆様を深く慕っていたあの人なら、きっと身を隠している場所は……)


 ややあって、目的地に辿り着いた彼女は、その内部へと至る観音開きの扉を強く開ける。


 その部屋は、豪奢でありながらも落ち着いた雰囲気を持つアンティーク調の内装が特徴的な応接室。

 そして、冷泉院暮土の母親だった吸血鬼――アニュス・ディートリヒの肖像画が飾られている、屋敷内において唯一無二の場所。


「これはこれは……意外な人物が来たもんだねェ」


 肖像画に背を向けるようにして置かれたソファの上に、海紗の目的の人物は腰掛けていた。


「……エルネさん」


 アニュスのたった一人の従者だった吸血鬼――エルネスタ・メディチ。

 いつになく真剣な様子の彼女を視線に捉えた海紗もまた、真摯めいた姿勢で対峙する。


「お願いがあります。今すぐに『時殺し(トーテンツァイト)』の発動を解いてください」

「何故わざわざ訪ねて来てまでアタシに希うのか、その理由を言ってもらいたいものだね」

「父様の死を阻止したいんです」

「……」


 こちらが理由を語った途端、エルネは分かりやすく沈黙した。

 果たして彼女は何を語るのか……海紗が期待と不安に胸を膨らませる最中、再び開口したエルネはたった一言だけ言葉にする。



「無理だ」



「――どう、して、ですか……!?」


 つい、理由を追及している自分がいた。

 拒否されることは薄々察していたというのに、それでも彼女が頼みを拒んだ理由(わけ)を求めんとしている自分がいた。


「エルネさんはわたしの父様のことをとても大切に想っているのでしょう!?」

「ああ、そうだねェ」

「ならば、何故……!」

「大切に想っているからこそ、だよ」


 深い溜め息を吐いた後、エルネは答えの続きを口にした。


「アタシは彼の想いを最大限に尊重したいと思ってる。それはアタシの主人が死んだ時からずっとだ。母親の代わりとして彼を育てるということを約束した時から、アタシは『不幸な境遇に生まれてしまった彼の幸福は阻まない』と決めているのさ」

「父様の幸福とは自らの命を絶つことだって分かっていたのですか……!?」

「ああ。その願いは彼が父親さえもを喪ってしまった時から望み続けているものだからねェ。その時から生きているアタシはもちろん熟知しているさ」

「その結果、この件に関して無関係なはずの暁美くんの命が犠牲になってしまうのですよ!?」

「それがどうしたというんだい? 真祖が死ねば世界は平和になるじゃないか。アタシも死んでしまうというリスクはあるが、真祖を贄として吸血鬼を根絶やしにする方が人間社会には余程有益なんじゃないのかい? そう考えると、彼が不幸な境遇から逃れるために自らの死を望むのは理に適っているとは思うがねェ」

「……っ」


 何を語ろうと即座に突き返される現状下、海紗の心には徐々に焦りが生まれていた。


(このままだと父様は死んでしまう……! それに、暁美くんだって……!)


 彼自身が何と思っていようと、自分は父親に死んでほしくない。そして自分の家庭事情に、こちらの問題などつゆ知らない悠人たちを巻き込みたくない。この一件の解決のために誰かの命が贄として捧げられるなんていう結末を、海紗は心から望んでいない。

 しかしこのまま誰も阻止を実行しなければ望まぬ未来は現実に――そんな焦燥感によってとうとう心を逼迫(ひっぱく)された海紗は、


「……分かりました、エルネさん。そこまで拒むのであれば、わたしも強硬手段を取らざるを得ません」


 自身の右手に()()()を灯し、エルネと対峙することを選んだ。


「ほう……。普段は平和を好むアンタもでも、大切な者が死に瀕している時ばかりは戦わざるを得ないということか」


 そう、エルネの言う通り、これは海紗の本気の証。

 吸血鬼の血を引いている者ならば当然のように有している人外並の身体能力を全部双子の兄に託し、それと引き換えに吸血鬼の血を引いている者ならば当たり前のように持ち合わせている異能力を兄の分まで譲り受けた、そんな少女の本気の証明であった。


「貴女がいくら拒否しようと、この想いはもう誰にも譲れません。貴女がわたしの想いに理解を示し、そして協力する意向を見せるその時まで、わたしはこの炎を貴女に繰り出し続けます」

「屋敷が焼けたらどうするんだい」

「家よりも大切なものが失われようとしているというのに、その程度の犠牲なんて気にしてはいられません!」


 真率な心持ちを露わにした海紗は、身に纏う蒼白の炎を無数、エルネに向けて放つ。


 海紗が灯す蒼白の炎は、父親が灯す紅蓮の炎と比較すると、火力の面では大きく劣る。だがその反面、炎の中に含まれる熱量は、娘の異能たる炎の方が圧倒的に勝っていた。

 当然、普段は体験することの無い凄絶な温度を孕む燐火をまともに喰らえば、人間以上の身体能力を持つ吸血鬼であれどただでは済まない。


 ……にも、関わらず、


「――っ!」


 迎撃も防御も退避も一切せず、エルネは己が身に海紗が放った燐火を直撃させたのであった。


 エルネが有する『時殺し(トーテンツァイト)』であれば、吸血鬼の血を継ぐ海紗自身の動きを停止させることはできないものの、海紗が繰り出した燐火の流れを停滞させたり防いだりすることはできるはず。

 なのに彼女はそうすることを選ばず、生身で攻撃を受けることを選んだ。やる気が無いのか死を望んでいるのか分からない選択と実行をした吸血鬼は、海紗にとっては胡乱者以外の何者でも無かった。


「何故反撃しないんです? 貴女はわたしの考えに拒否反応を示しているのでしょう? ならば、わたしの攻撃に少しでも抵抗し、無理やりにでもわたしを捻じ伏せて諦めさせるのが当然の行為ではないのですか?」

「普通ならばそうしていただろうねェ」


 身体を燐火で燃やした状態で、エルネは口を開く。身を焦がされる苦しみなど微塵も感じていないかのような、とても静謐な声で。


「だが、今はどうしても反撃する気にはなれないのさ……自分が本当に何をしたらいいのか、自分でも分かっていない状態だからねェ。そうでなければ、生身でアンタの攻撃を受けようだなんて考えていない」


 彼女が紡いだ言葉は支離滅裂と言っても過言ではないほどに意味の取れないものであったが、それを意味あるものだと錯覚させるほどの強制力を伴った意志を含んでいた。

 その不思議な魔力を持った声に惹き付けられ反論をすることさえできなくなっている海紗を見つめながら、エルネは語り続ける。


アニュス(あの人)を亡くした代わりに生まれたばかりの暮土(アイツ)を引き取った時、アタシは『吸血鬼と人間が互いに共存し合っている世界を私の息子と共に作ってほしい』というあの人の意志を継ごうって漠然と思っていた。あの人の血を飲まされ従者となった身としては、これが当然のことだと思っていたからねェ」

「……つまり言い換えれば、婆様の遺言というのはわたしの父様を生かしてほしいということなのではないでしょうか。それなのに、婆様の意志を継ごうとした貴女が今は父様の死の演出に協力しているなど、わたしにはまるで理解できませんわ」

「何故あの人の意志を継ごうとしながら今度はアイツの死を手助けしようとしているのか――その答えはひどく単純なものだよ。冷泉院暮土への同情の方がアニュス・ディートリヒへの慕情よりも勝った、っていう、とてつもなくありきたりなものさ」


 ぶすぶすと身体が焼け四肢の末端が炭化してゆく状況の中、エルネは静かな声の中に郷愁を乗せた。


「最初こそはあの人の遺言を守ろうとしていたんだけどねェ……アイツが父親を亡くした時からなんだろうねェ、アタシの考えが変わったのは。己のせいで肉親を喪った不幸な彼に『吸血鬼と人間の共存の象徴となれ』とあらかじめ運命を決めつけるのはあまりにも酷じゃないか」

「……」

「それにあの人が吸血鬼と人間の共存を望んでいようと、マリーエンキント教団や四使徒がそれを赦さなかった。アイツの父親が殺された時のように、下手をすれば実力行使で考えを改めさせようとしたくらいだからねェ。だからアタシは、アイツに運命に縛られない生き方をさせることを選んだのさ」

「……」

「どうせあの人の遺言の通りにはならない、だから遺言を気にせずアイツの好きなようにさせてやりたい、自身が世界から消えることを望むアイツの願いを叶えてやりたい、あの人の遺言を闇に葬り去りたい、ってアタシは考え――」

「――それは解釈違いですわ」


 我慢ならず、海紗は口を挟んだ。

 それと同時、指を弾くことによってエルネに放った燐火を全て消火する。尋常では無い火傷のダメージに耐え切れず床に崩れ落ちた吸血鬼に対し、哀れみの視線を向ける。


「何も婆様は、自身の遺言を『二種族の争いを止めるための方法として解釈しろ』と言った訳では無いと思うのです。自分の息子と共に吸血鬼と人間の争いを止めるのでは無く、ただ息子と共に普通の生活を送ってさえくれればいい――そういうことなのではないですか?」

「だが、あの人は自身の息子について『吸血鬼と人間が互いに共存し合っている世界の象徴になり得る』と言った。つまりそれは、彼にこの世界を変えろと言っているのと同義なんじゃないのかい?」

「ですが、実際に『変えろ』と言ってはいないのでしょう? だとすれば、自身の出生のせいで心に深い傷を負ってしまった父様を、わたしと兄様と母様、そしてエルネさんで協力して支えながら懸命に日々を生きることもまた、婆様の遺言に即しているのではないでしょうか」

「……」


 反論に反論を重ねることで抵抗していたエルネが、とうとう言葉を詰まらせた。

 燐火に燃やされたがために幾分か短くなった黒髪で表情を隠す彼女が、沈黙を徹底的に守り続けること一、二分。重々しく溜め息を吐いた後、一言だけ呟いた。


「……本当に、アンタが暮土の娘でよかったと、心から思う」


 そう語った口の端には、微かに笑みが浮かんでいて。


「エルネさん……?」


 何故彼女はそんなことを言ったのか、そして何故彼女は笑ったのか。

 尽きない猜疑(さいぎ)を代わる代わる脳裏によぎらせる海紗を前にして、エルネはさらに言葉を付け足す。


 今現在、海紗がとても望んでいたことの成就を如実に表す、とても端的な一言を。




時殺し(トーテン・ツァイト)――解除』




 刹那、止まっていたはずの冷泉院邸内の時が、再び廻り始める。

 廊下を歩く使用人たちも、密かに屋敷に侵入していた鼠も、窓から入ってきた羽虫も、吹き抜ける風も、再び止まっていた時を進めるべく動き出した。


 そして、暮土の死を食い止められないようにするために動きを停止させた冷泉院ひかりもまた、止まっていた時をやり直すために動き出し――


「……まさか、わたしのお願い、聞いてくれて……」


 彼女の心境の変化に対しての吃驚、そして自身の想いが届いたことへの歓喜が波のように押し寄せてきたせいで思わず身体を硬直させてしまう海紗に、エルネは薄く笑いながら言った。



「早く向かったらどうだい。暮土のことも暁美のことも、死なせたくないんだろう?」





 エルネの背後では、暮土の母たる吸血鬼アニュス・ディートリヒの生前の姿を描いた肖像画が、変わらぬ笑顔を湛えてこちらを見つめている。

 まるで遺言の内容が果たされたことを、心から祝福するかのように。



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― 新着の感想 ―
[良い点] な、るほど、そういう受け取り方もあるのか 反論に反論を重ねる二人がとてもドラマチックだった!
2020/01/30 01:24 退会済み
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