生贄捧ぐ祭壇に火を
「おそらく誘いを受けたからでしょうが、貴女ならば必ずここに来るであろうと確信していました」
不自然なほどの平静を装った状態で、赤い瞳の暮土がこちらに声を掛けてくる。喉から発せられたそれは、驚くほど無感情なものであった。
ローラは倒れ伏す悠人と目の前で佇む暮土を交互に見遣りつつ、折れそうなほどまでに歯ぎしりをした。
「……貴様、どういうことだね? 何故、半血でありながら純粋たる吸血鬼と同等の気配を匂わせている?」
一瞬、悠人の血を飲んで吸血鬼したのかと考えた。
だがもしそうだとすれば、悠人が満身創痍の状態で倒れているなどあり得ない話だ。基本的に吸血鬼は真祖には逆らえない。絶対的な力を有する主のことを、力の面で大いに劣る配下が傷付けることなどできる訳がないのだから。
尤も、ゼヘル・エデルのように行き過ぎた忠誠心の強さが主君への襲撃へと向かった例もある。だが吸血鬼になったばかりの暮土が――ましてや吸血鬼の血を忌み嫌っていたはずの暮土が、そこまでの忠義を悠人に持っているとは考え難い。
「ああ、貴女でも半吸血鬼の最大の特性は知らなかったようですね」
推測していた最中、暮土が口を挟んできた。
彼が纏っている質の高そうなベストの裾が、熱風に煽られ翻る。そこから覗いていた白いシャツは、致命傷を負わせられたのだということが一目で分かるほど、夥しい血で赤く染められていた。特に胸の辺りの出血が激しいようだ。
「……貴様、一度ユートの反撃を食らったようだな」
「ええ。彼の剣戟によって、一度ボクは命を落としました。ですがこれが、今ボクがここにいる理由でもあるのです」
「何だと?」
暮土の発言は矛盾している。一度死んだはずの人間がどうして生き返っているのか、どうしてここにいる理由となっているのか。それが分からない。
半吸血鬼にも再生能力が機能しているのならば話は別だが、吸血鬼の弱点である心臓の損傷に再生が適用されるはずが無い。胸を抉られた以上、真祖でも無い限り蘇生できるなんて起こり得ない。
……否、そこにまだ誰も知らない半吸血鬼の最大の特性が秘められているのではないか?
「その顔から判断するに……察したようですね」
瞠目するローラに、暮土が言い放つ。
「半吸血鬼は死んだら『人間』としての生を終えることにはなりますが、『吸血鬼』としての生は終わらない――つまり、命を落としてしまった半吸血鬼は、今度は吸血鬼として生まれ変わるんです」
「……道理で、吸血鬼の気配が増した訳か」
無知な自分に舌打ちするローラ。半吸血鬼について少しでも知っていたら、多少は彼の計画を阻害することができたのだろうか。
だが実際に計画が滞りなく進んでしまった以上、後悔しても後の祭り。
「貴様が何を考えているのかは知らんが、ユートを利用してまで阿漕な真似を働こうというのならば、聖女として糾弾せざるを得んな」
「聖女の癖に真祖を庇うのですか?」
「――っ、黙れ!!」
ローラは銃剣を抜き、素早く構えた。
『Gloria in excelsis Deo(いと高きところには神に栄光)!』
無数の散弾を放ち、足留めを狙う。最愛の妻がいようが、二児の父親であろうが、吸血鬼として覚醒し誰かを害そうとしている以上、放置しておく訳にはいかなかった。
しかし現在時刻は本格的な夜に差し掛かったところ。力が増幅する時刻に吸血鬼と化した暮土は、ローラが撃った弾を全て避けた。
そして彼は、誰かの名を呼ぶ。
「――霧江、海紗」
だが、その声で姿を現したのは眼鏡の少年だけ。彼の妹は姿を見せなかった。
「お待たせしました、父さん」
「ああ。ところで海紗は?」
「それは……」
「……言えない事情があるということか。まあ、いいや。とにかく、援護頼んだよ」
「……はい」
何かを躊躇っているかのような暮土の息子――霧江の頷き。そして彼は、やはり躊躇っているかのような手付きで懐から自身の得物を抜く。
姿を見せたのは、刃渡り十五センチメートルくらいのバタフライナイフ。規律に厳しい生徒会長でありながら、今までこんな物騒なものを忍ばせていたのか。
「……悪いな、父さんからの命令なんだ。大人しく屈服してくれないか」
「断る!! 理由が分からぬ以上、貴様らにひれ伏す訳にはいかん!!」
霧江の弁明を切り捨て、神術を詠唱。
『Agnus Dei, qui tolls peccata mundi(神の小羊、世の罪を祓われし御方よ)――』
全貌が見えてきた半吸血鬼の特性に対し、半々吸血鬼の特性は未だ不明。唯一、バタフライナイフ一本でクルースニクに立ち向かおうとしているその姿勢から、それなりの戦闘力はあるのだということは見抜けたが。
果たして暮土と同様殺せば吸血鬼として覚醒するのか、それとも何も起きないのか――真理が分からない以上、迂闊に致命傷は与えられない。故に、彼の刃を握る手に銃撃を放つことを決意。
『――dona eis requiem sempiternam(彼らに永遠の安息を与え給え)!!』
定めた狙い通り、銃弾は霧江の右腕へ。
しかし吸血鬼の血が混じっている所以か、彼は身を翻しただけで弾を避けた。僅かに掠ってはいるのだが、その程度では大した損傷とはなるまい。
そして次の一撃を放つ僅かな隙を狙い、霧江はこちらに進撃する意向を見せる。
彼が予備動作を行っている間に、ローラは神術を撃とうと――
「――う、っ!?」
それは一瞬のこと。
予備動作として踏み込んだ一歩、たったそれだけで霧江はローラに肉薄し、煌めく刃による刺突を浴びせていた。
「流石に不本意だな。吸血鬼狩りの聖女でありながら半々吸血鬼の力を侮ってくれるとは」
刃に付いた血糊を振り払いながら、霧江は鼻を鳴らした。
「普通の吸血鬼や半吸血鬼には劣るが、半々吸血鬼も人間を超えた能力は有している。尤も、俺は双子の妹と力を対等に分け合っているがために、吸血鬼のような異能力を扱うことはできないのだが」
霧江は悠長に語ってくるが、ローラとしてはそんな暇など無い。
こうして喋っている間を狙い、暮土が灼熱の炎を次々とこちらに放ってきているのだから。
『Ave,maris stella, Dei Mater alma,atque semper Virgo,felix caeli porta(めでたし海の星、慈しみ深き神の御母、永遠なる乙女、幸いなる天の門)!』
詠唱、そして溢れ出す水。どうせ再び炎上することとなるのだろうが、一旦ローラは周囲で燃え広がる炎を消火した。
そしてそのまま霧江に対しての攻撃態勢へ。
悠長に語ってくるとはいっても、霧江は攻撃の手を止めた訳ではない。今は一時的に斬撃と進撃はしてこないものの、間違いなく次の一手を窺ってはいるだろう。
「しかし異能力が使えないことを代償として、俺は絶大な身体能力を得た。それを幼少の頃に仕込んだ武術で補強することで、聖騎士たちと比肩できるくらいの戦闘力を得た――例えばこのようにな」
語りつつ、霧江はまた一歩だけでローラに肉薄。
だが流石に、今度ばかりはローラも避けた。後退し、躱し、銃撃の機会を狙う。
「そのような瞬間移動じみた身体捌きも武術の賜物なのかね?」
「ああ。地面を蹴るのでは無く引力による自然落下を以て跨ぐように移動する――『縮地』と呼ばれる沖縄武術の一環だ」
またも霧江が急接近。そして暮土が炎を放ってくる。親子による猛攻の二重奏が奏でられた。
『Ave,maris stella(めでたし海の星)!!』
咄嗟の詠唱で水を喚び起こす。肉薄してきた息子を水圧で追い流し、父親が放ってきた火炎を水流で受け流した。
「……流石にクルースニクの戦闘力も相当なもののようだね。真祖には及ばないけれど」
「はい。生半可な攻撃はほとんど通用しません」
「でも、ボクの読みはだいぶ当たっている。このまま押し切ればどうにかなるだろう」
言葉を交わした後、彼らはそれぞれ移動する。霧江は前方へ、暮土は後方へ。
場所を変えるや否や、各々が攻撃を繰り出してきた。
「――っ!」
ローラは前方からのナイフ捌きに対応するだけで精一杯だった。後方からの火炎放射は避け切れず、足を凄絶な灼熱に舐めさせることに。
「ぐ、あっ!?」
不意に負った火傷の痛みに悶えている隙に、前方からナイフが突き込まれる。手の甲に鋭い一撃を喰らい、思わず銃剣を落としそうになる。
「――やはり、」
突如、暮土が言葉を漏らす。
「貴女が弱体化しているというのは、本当だったみたいですね」
「――っ!!」
一番されたくなかった話を敵に持ち掛けられた衝撃と屈辱、それらがローラに襲い来る。
「貴様、それを何故……!」
「その反応から見るに図星ですか。ボクは妻から聞いた話を元に推測していただけでしたが、それが実際に目の前で分かっただけでもよかったです」
真祖に交情を抱いたせいで自分は弱体化した――今日までに再三抱いてきた屈辱がまたも蘇り、ローラは歯噛みする。
(……そうだ。ユートに好意的な想いを寄せているままでは、奴らに打ち勝つことはできない……)
自分は吸血鬼を滅ぼす聖女。真祖や四使徒はともかくとして、たかが覚醒したばかりの吸血鬼と並よりも劣る半々吸血鬼に殺されることはあってはならないのだ。
火傷と裂傷。二つの傷の痛みに悶えながらも、ローラは立ち上がる。
その過程で悠人への好意を忘れようとした。彼に対し敵意以外の感情を抱いたままでは、自分は弱いまま何一つ変わらないから。
なのに――
『今度は俺がお前以上に戦うって誓う。今まで俺のために戦ってきたお前の代わりに、取り戻した力を振るうって誓うから』
(何故、忘れることができない……!!)
再び真祖と敵同士だった頃のように振る舞おうとしても、心がそれを赦してくれない。一度交わした「互いの利害のための共闘の盟約」を破棄することを、何故か本能が赦してくれなかった。
聖女としてあまりにも腑抜けてしまった自身の思考と感情に愕然とするローラ。
当然、彼女を降伏させることを望む敵たちは、そんな彼女に同情の言葉を投げ掛けるようなことはしない。
「これ以上甚振られたくないのであれば大人しく屈服してください。ボクはマリーエンキント教団を殺したいくらいに憎んではいますが、貴女が言うことをきちんと聞いてくれさえすれば命だけは見逃してあげます。ボクたちよりも弱い存在を必要以上に虐めようなどという気はありませんから」
「戯け、を……」
反論しようとするが、思うように言葉が出てこない。
対して暮土は、何処までも饒舌かつ何処までも冷酷に、自身の要求を告げた。
「暁美悠人をこの場で殺してください」
「何、を……!?」
あまりにも理解不能。
何故ここで彼の名が出てくるのか、ローラは目を白黒させながらその所以を問う。
「馬鹿なのかね貴様……! 吸血鬼の真祖である彼を殺せば、同胞たる貴様も道連れになるのだぞ……!?」
「構いません。それこそがボクの望みなのですから」
相変わらずの無表情で、だが声だけは何処か嬉しそうに、暮土は今まで口にしなかった自身の目的を語った。
「ひかりから聞いているんでしょう? かつてボクが自身の死を望んでいたと。ですがボクは、ひかりと結婚し霧江と海紗を授かり幸せな生活を送っている今でもなお、その願いを抱き続けているのです」
「何だと……!? 貴様、自身の家庭を捨ててまで自らの死を望むと……!?」
「家族を捨てるのはとても心苦しい。ですがそれ以上に、こんな罪深いボク自身が生き続けていることの方が余程心苦しいんです」
ローラと一緒に話を聞いている霧江は、何故か悲しそうに顔を伏せている。父親の告解を耳にして彼が何を思ったのかは……分からない。
一方語り続ける暮土もまた、赤の瞳に涙を浮かべ悲憤の表情を繕っていた。
「ボクへの不干渉と引き換えに父が身代わりに死んでから数十年が経った今でも、ボクは教団に監視され続けている。どころかボクの妻や子供たち、使用人までもが監視の対象となっている。ボクのせいで無関係な彼女たちを巻き込むのは御免なんですよ」
それから彼は、血が滲むくらいまで自身のは拳を強く握り締め、
「大切な人を不幸な目に遭わせる禍根はここで絶たなくてはならないんです。ここで真祖が死ねばボクも消える……これでもう誰も不幸にならずに済むんです……!」
「意味が分からん。ならば貴様だけが死ねばいいではないか」
「いいえ、それでは意味が無い。たとえボクが死んでも他の吸血鬼は生き続ける。吸血鬼がこの世に在る限り、ボクの両親ように運命の悪戯で吸血鬼と人間が惹かれ合い、そしてボクのように癒えぬ傷を背負う人々が生まれてしまう。そんな人たちを見るのは嫌なんです」
糾弾の姿勢を見せるローラに、暮土は人差し指を突き付ける。
「――それに、貴女だって、聖女として穢れずに済む」
「――っ!!」
ローラは狼狽えた。
彼の魂胆を知らないひかりがうっかり口外してしまったのだろうか、暮土はローラが真祖に対し特別な想いを抱き始めていることを見抜いていた。
図星を衝かれ、思わず心身が膠着する。
クルースニクとして『ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム』を殺さねばいけないことは分かっている。だが『暁美悠人』の人間性に触れてしまった現在、思っていても実行することを身体が拒んでいる。そうでなければ「真祖としての暴虐が露わにならない限り殺さない」といった盟約を結んでいないのだから。
しかし約束を交わし合っているというのに、自身の中の聖女としての気概は「ここで彼を殺さなければ一生弱いままだ」と悪魔の囁きを投げ掛けていた。
そして、悠人を受け入れることを決意しておきつつもなお聖女として落ちぶれることに恐れを抱いているローラは、その囁きに身を委ねさせかけていた。
「さあ、だから真祖を殺してください。ボクが先に彼を襲撃したのは貴女がトドメを刺しやすくするためなんですから。早くしなければ復活して手に負えなくなりますよ」
「……」
暮土が催促する。霧江は終始黙っている。悠人は未だ目覚めない。海紗は、ひかりは、エルネは、現在どうなっているのであろうか。
ローラは銃を握ったまま黙考する。
ここで彼を殺せば聖女にあるまじき惰弱さと決別できる。ついでに真祖を殺すというクルースニクとしての使命を完遂することができる。
だが、そうすることはしない。できない。
『もし、悠くんのことを連れ戻したら、伝えてくれないかな? 『今はローラちゃんに心惹かれているのだとしても、それでもあたしのことをちゃんと思っていてくれてありがとう』、って』
ふと蘇る、数十分前に頼まれた伝言。
彼にとっても自分にとっても護る対象となっている少女。仮に彼女にとって何よりも大切な存在が知らぬうちに死んだのならば、彼女は何と思うのだろうか?
思い至ったローラは、銃を前方へと突き出し、
「――そのような身勝手な要求、私が受けるとでも?」
そのまま手を離し銃をわざと落としたのだった。




