そして炎は燃ゆる
自分でも訳の分からぬまま、情けなく闇夜を駆け抜けた悠人。吸血鬼の特性が故にこのまま何処までも行けそうな気がしたが、そこまで遠くに行く気にはなれず、ある程度走り抜けたところで足を止めた。
「は、あっ……」
ずるずると崩れ落ちるように、たまたま近くにあった民家の塀に寄り掛かる。そうしてしばらく深呼吸を繰り返しているうちに、少しは気が楽になってきた。
とはいっても、先ほどの忌々しい出来事が消え去る訳ではない。一度ローラと叶の顔を交互に思い出せば、一縷の安堵はすぐに消え去り嘔吐感が蘇ってきた。
「うぐっ……が、はっ……」
堪え切れず、思わず嘔吐。民家の持ち主には申し訳無いとは思うが、見ず知らずの家主に対する罪悪感よりも自分自身に対して募る嫌悪感の方が勝っているのだから仕方ない。
(俺は、最低だ……っ!!)
強く目を閉じて耳を塞いでも、自分を「最低な男」と責める幻視と幻聴は止まらない。募りに募る負の激情に身を震わせる。
叶とローラ、二人の想いをそれぞれ尊重できない自分に憤怒した。一方に想いが傾けばもう一方を蔑ろにしてしまう自分に幻滅した――。
(何で、俺は両方の想いを大切にできないんだよ……! 何でローラにばかり気を取られて、カナのことを大事にするっていうことを忘れてるんだよ……!)
こんな時、かつての自分なら、間違いなく自身の想いに蹴りを付け、片方を蔑ろにしてでももう片方を選んでいた。が、過去の傍若無人な振る舞い方を忘れ善人としての心に染まってしまった今となっては、四百年前の自分と同じ行動を取ろうとすれば良心が痛んだ。
こんなにも苦しむのならば、『暁美悠人』を構成する優しさなど捨て去り、蘇る前の自分に戻りたい。自身の欲望に忠実に行動していたい。
なのに、蘇った後に培われた中途半端な優しさが、そうすることを赦さなくて――
「どうかしましたか?」
――と、思考を巡らせていた時、もたれかかっていた民家の外壁の所有者が、門からこちらを覗き込んでいることに気付く。
最初は暗闇のせいで外見がよく捉えられなかったが、じっくり目を凝らすと、その容貌が明らかとなった。
黒髪のところどころに混じっている銀髪と穏やかな光を湛える藤色の瞳を有する、ようやっと二十歳を超えたばかりに思える痩身の青年……に見せかけた中年。見紛うはずもない、冷泉学園高校理事長にして冷泉院家当主――冷泉院暮土その人であった。
「あれ……ってことはここ、冷泉院家……?」
視線を側方へとずらす。木造と煉瓦造を織り交ぜた和洋折衷の大きな屋敷が、初めて訪れた時と同じように建っているのが見えた。
「生徒会の仕事が立て込んでいるせいで帰宅が遅くなっている息子と娘のことを出迎えようと思って外に出たんです。そうしたら家の前にいたのはボクの子供たちではなく君……正直びっくりしましたよ」
「俺だって、まさかいつの間にか理事長の家に辿り着いていただなんて思いもしませんでした……」
微笑を浮かべる暮土と重く溜め息を吐く悠人。対照的な反応であった。
だが、笑っていた暮土がふと真剣な表情となる。
「ところで、君はどうしてボクの家の前に?」
「そ、それは……」
理由を尋ねられると、つい口ごもってしまう。まさか「幼馴染のことを傷付けてしまった後悔からここまで逃げてきてしまいました」と白状する訳にはいくまい。
だが暮土は、何故悠人が考えあぐねているのかを、悠人自身が発言する前から見抜いていたようで。
「……何かありました?」
「えっ……」
「君の目に迷いが映っているように思えたので。おそらく人間関係の悩みのように思えますが」
「……」
「うーん……余程言えないことなのですね……」
図星であるが故に重く口を閉ざした悠人に、暮土は弱ったような表情。
解決策を練るためしばらく考え込む暮土。そして、
「……とりあえず、ここで話すのも何ですし、落ち着いて話せる場所に移動しましょうか」
彼がそう提案してきた理由は分からなくもない。人間関係の悩みについて腰を据えて打ち明けるには、やはりそれなりに落ち着ける空間の方がいい。それにこのような路上だと、通りすがりの第三者にうっかり聞かれてしまう可能性だってある。
だから悠人は、暮土の案に素直に頷く。すると、向こう側は安心したような笑顔を浮かべたのだった。
「それはよかった。……ここで断られてしまっては……してしまうところでした」
終わりの方で呟いていたことはよく分からなかったが、とりあえず暮土が安心しているということは分かる。
「ついてきてください。秘密の相談事に最適な、とっておきの場所があるんです」
無論その誘いの言葉に、悠人は何の疑問も持たない。
(吸血鬼と人間の間から生まれた理事長なら、きっと俺の抱えてる悩みも分かってくれる……よな……?)
甘えとも取れる期待を胸に、真祖は半吸血鬼の後を追った。
が、暮土の足が辿り着いた場所は、この前霧江たちに案内された屋敷内の応接間ではなかった。
というよりも、屋敷の中ですらなかった。
「あの、ここは……?」
「そうですね……酒蔵、というべきでしょうか。今はもう使っていませんが、父親が健在の頃はワイン樽がこの中に幾つも貯蔵されていたのだとか」
「いや、蔵なのは見たら分かるんですけど……まさか、この中で話をする気じゃ……」
「そうですよ?」
そのまさかだった。
赤煉瓦で造られた巨大かつ立派な蔵を、悠人は改めて見上げる。子供の頃であればこのような離れにある建物の中で内緒話をすることにロマンに感じたのであろうが、夢を忘れ現実主義者となった今では蔵の中で会談をするなど馬鹿馬鹿しいとしか思えなくなっていた。
が、その呆れを真っ向から否定するくらいに、暮土の意向は強制力を持っていて。
「とにかく入ってください。屋敷の中は今ちょっとてんやわんやなので」
「いや、そんなこと言われても納得できないんですが……」
「いいから」
先ほどよりも強く命じられ、悠人は渋々と中に立ち入る。四百年前の自分ならば彼の横暴さに激昂しただろうが、長い物に巻かれることを覚えてしまった現代人・暁美悠人は、面倒事を避けるため従うことを選んだ。
蔵の重い鉄の扉を開ける。すると、夜空よりも暗い闇と舞い散る埃が眼窩に、土と黴の匂いが入り混じった独特の臭気が鼻腔に、それぞれ入り込んできた。
後から続いて立ち入った暮土が閉めたのだろうか、ガタンと戸が閉まる音がした。
遅れて、照明が灯される。
だんだん明々と光が増していく。それと比例するように増幅する、室内の熱、蒸し暑さ、高熱。
そして、火の粉と黒煙。
「は……?」
ここで悠人は、何かがおかしいと気付く。
ただ照明を灯しただけでこんなにも室温が上がるものだろうか。それに光源がランプか蝋燭であったとしても、ここまで煙が立ち込め火の粉が飛び散る訳が無い。
ここで火事が起こったというのならば、まだ理解できなくも無いが……。
(ん……? もしこれが火事だとしたら、火は何処から……)
膨れ上がる疑問を胸に、悠人は振り返る。
そして、見た。
「死んでください」
右手に炎を宿した、冷泉院暮土の姿を。
同時、暮土が右手の炎を悠人に向けて放つ。
それは決して生温いものではない。浴びれば絶対に焼け死ぬであろう、摂氏千度を超えた業火であった。
「――っ!!」
彼の殺気をすぐに感じ取ったのが幸運であった。悠人は人外の力で飛び上がり回避。標的を捉えそこなった爆炎は後方に転がっていた樽にぶつけられた。
遅れて増す熱。樽が新たな火種として発火したのが原因だ。
「……仕留め損ねましたか。心の迷いに気を取られている今なら、殺すことはできなくても致命傷を負わせられるだろうとは思ったのですが」
先ほどの微笑みは何処にも無い。まるで暗殺者のような、血も涙も存在しない無の表情がそこにある。
「……どういうつもりですか。いきなり襲ってくるなんて」
「君に理由は教えられません。ただ死んでくれさえすればいいのです」
「生憎、俺はアンタには殺せませんよ。真祖はクルースニクでなければ殺せない――それくらい知っているでしょう?」
「――それとこれとは別です」
どうやら意地でも答える気は無いらしい。返答の代わりとして、新たな炎が放たれる。
またしてもそれを回避する悠人。後方の樽がまた新たな犠牲となった。
「……どうやら、死んでも口を割らぬつもりであるようだな」
向こうが明確な殺意を見せている以上、平和主義な『暁美悠人』の人格は邪魔となる。悠人の人格を精神の深淵に沈め、冷酷非道なもう一つの人格――ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムを表出させた。
ユークリッドの残虐性を剥きだしにしたことで、ローラと叶に対しての罪悪感、そして自身に対する嫌悪感と迷いは消えた。現在自身に残っているのは、目の前の敵を屈服させんとする気概と残虐性のみ。戦闘にはそれで事足りる。
「吸血鬼にも人間にも成れぬ劣弱な存在よ、貴様は敵にする相手を間違えた。優等生物たる吸血鬼――その頂点に立つ余が、たかが中途半端でしか優等の血を継いでおらぬ貴様に殺される理由が無かろう?」
秀麗な容貌に暴悪を灯し、赤々と輝く瞳に凶悪を宿す。そして口の端には奸悪を乗せた。
吸血鬼王に相応しく、精神を悪意の色に染めた状態に至った悠人は片手を前方へと突き出し、自身のもう一つの牙を顕現させる。
「来たれ、我が半身――『魔帝ノ黒杭』!!」
放出された闇と共に現れた黒い両刃の大剣を素早く取り、悠人は暮土目掛け疾駆する。
「この余が身の程知らずな貴様に絶望を刻み付けてやろうぞ!!」
――そして、死を纏う剣と殺意を孕む業火は激突する。
*****
「――悠くん? あたしの家には来てないよ?」
「そうか……急に訪ねてすまなかった」
ローラ・K・フォーマルハウトは、急に自身の前から姿を消した悠人のことを捜索している最中であった。
最初は家の周辺を探していたのだが見つからず、それで思い至ったのが「もしかしたら幼馴染の家にいるのでは」という考えだった。が、いざ叶の家に向かってみても彼の姿は無い。一体彼は何処に行ったのだろうか。
そう考えていた時、叶が神妙な表情で訊いてきた。
「悠くんが急に家を出て行った、って……もしかして何かあったの?」
「……少しばかり、奴と揉めてな」
数十分前のことが思い起こされる。
吸血鬼の真祖に好意を抱いたことで起こってしまった弱体化――そのことについて、自分は悠人をひどく詰った。悠人は一度はその真意を汲み取り心を慰めてくれたものの、自分が抱き締めた途端、彼はいきなり何の前触れも無く自身を拒絶したのだった。
そう――まるで何かに怯えているかのように。
そのことをやや脚色しつつ説明すると、叶の表情がみるみるうちに曇っていって。
「……あたしのせいだ」
両目いっぱいに涙を浮かべ、小さく呟く。
「あたしが、悠くんがローラちゃんのことばかり気にしてることにやきもちを焼いたりなんかしたから……」
「ユートが、私のことばかり気にしていた……だと?」
「うん……今日の悠くん、ずっと変で。先生のことをローラちゃんの名前で呼んだり、プールの中に落ちたり……それがみんな、今日一日ローラちゃんが欠席していたことが関係しているらしくて」
その話を耳にしたローラの心には、周囲の状況も忘れるほどまで自分に専心していたらしい悠人への呆れ、そして嬉しさが在る。
(ユート……そこまで私のことを想ってくれていたのだな……)
自分が彼にとって特別な存在と化している――そう思えば思うほど、心がぎゅうっと切なくなる。悠人の姿を思い起こす度に激しくなる心臓の鼓動が、自分にとってもまた彼が特別な存在と化しているのだと教えていた。
『今はそれが恋だって認めたくないのかもしれないけれど、自分の本当の感情にはもっと素直に向き合った方がいいと思うわ』
まだ二十四時間が経ってもいないうちに向けられた言葉が蘇ってきた。
が、それをローラは首をぶんぶんと振ることで否定する。
(……否! それが恋だとは分からないであろうに! ただ特別な存在となっている、それだけのことだ!!)
真祖を狩るクルースニクでありながら獲物に絆されそうになっている自分に心で喝を入れる。興奮した精神を静めるため深呼吸を幾度か繰り返し、再び叶の話に耳を傾けた。
叶はローラの異変には気付いていない。暗い表情で告解を続けている。
「たぶんローラちゃんのことを悠くんが突き飛ばしたのは、あたしがローラちゃんに嫉妬しているんだってことを察したから。ローラちゃんのことを選べばあたしが傷付く、けど逆にあたしを選べばローラちゃんが傷付くって思っちゃったんだよ」
「……」
「結局、悠くんって優しい子なんだよね。あたしたちが傷付くってことを知ったら、どちらか一人を選択なんてできないんだろうね……」
翳りのある表情を浮かべていた叶が、不意に見せた微笑み。それを目にした瞬間、ローラの胸の高鳴りは嘘のように消え去っていた。
(カナエは……一人の人間としてのユートの内情を誰よりも知っている。吸血鬼王としての裏の顔に気を取られ彼の人間性に目を向けようとしない私とは大違いだ……)
……ならば、どの道彼の敵対者にしかなれない自分ではなく、叶と悠人が結ばれた方がいいのではないか。
心が先ほどとは違う切なさと苦しみに喘いでいたが、それをそっとしまい込む。
真祖とクルースニクは互いに愛し合ってはいけないのだから、これでよかった。自分の心が悲鳴を上げていようが、それで構わなかった。
その時、こちらの思考を遮るように、不意にローラの携帯電話が短く鳴った。
「……誰からだ?」
知らないメールアドレスからメールが届いている。しかも件名は「無題」。昨今のダイレクトメールでも件名はちゃんと書いてあるのに、誰かも分からない者から要件不明のメールが届くのは妙である。
だが要件が不明であるとはいえ、流石に本文を見れば不明の差出人がメールを送った旨が分かるだろう。ローラはメールを開き、素早く本文を読んだ。
そこには、こう書いてある。
『さっき暁美くんが家の前で座り込んでいたので、我が冷泉院家の方で保護しました。様子がおかしいみたいなのでお屋敷まで迎えに来てあげてください』
「冷泉院家、ってことは……たぶん生徒会長たちだよね……?」
「ああ。彼奴、あの屋敷まで行っていたのか……」
悠人が冷泉院家まで逃げ込んだ理由は何となく理解できた。ローラだけでなく叶とも気まずい関係となっている今、彼が縋るような思いであの双子を頼るだろうことは想像に容易い。
ローラは閉じた携帯をポケットにしまうと、叶に向き合い礼を述べた。
「カナエ、協力に感謝する。後は私が奴を連れ戻せばいいだけの話であるが故、気にするな」
「うん。もう夜も遅いから、くれぐれも気を付けてね」
「ああ」
短く応答し、ローラは踵を返そうとした――その時、
「あっ……ちょっと待って!」
「何だね? 何か言い残したことでも?」
叶に引き止められ、足を止める。彼女の表情は、先ほど告解した時と同様に翳っている。
「あのさ、ローラちゃん……。もし、悠くんのことを連れ戻したら、伝えてくれないかな?」
須臾の間を置いた後、彼女は決意を秘めた声で告げた。
「『今はローラちゃんに心惹かれているのだとしても、それでもあたしのことをちゃんと思っていてくれてありがとう』、って」
その一言に、ローラは何も言わず、だが充分信頼の置ける凛とした表情で頷いた。




