停止する世界
現在作者の多忙につき、更新が不定期となっています。
なるべく間を空けないよう心掛けたいですが、おそらく11月中までは不定期更新になるかと思われます。
連載を楽しみにしてくださっている読者の皆さん、本当に申し訳ございません。
「……そうか、真祖が……」
夜七時を回った冷泉院邸。その書斎にて、当主の暮土は息子たちからの報告に真摯に耳を傾けていた。
彼の表情は凛々しく締まった真顔だったが、口の端には微かな笑みが浮かんでいた。
「四百年前の記憶と人格、そして力を取り戻した以上、彼のことをおびき寄せて捕らえるのは容易じゃないと思っていたけど……今の真祖がクルースニクに専心しているとなれば、霧江の言う通り、利用しない手は無いだろうね」
「しかも彼は冷泉院家のことを信用し切っている様子。俺たちの計画が事前に察知されるようなことは無いに等しいでしょう」
父親を前にして、息子の霧江が淡々と語る。無表情の仮面を装着し感情を表に見せまいとしているが、眼鏡の奥に潜む眼光にだけは微かな苦悶が入り込んでいた。
無論、彼の隣には妹の海紗も控えている。しかし彼女は無表情の仮面を被っていない。貝のようにひたすら口を閉ざし、悲しげな表情で俯いていた。
そんな海紗を、暮土も霧江も咎めたりはしない。何故なら彼女は真祖やクルースニクのことを気のいい友人として捉えていたから。友を想うという人間として正しい感情を遵守する者を責めることが間違いであることは充分分かっているのだ。
人としての道理に外れた行為をさらに遂行せんとしている今現在は、特にそう想っているはずだ。
「ところで父さん、具体的な計画の内容というのは?」
「流石にボクの力では真祖の命を狩ることができない。だから彼と何度か接触しているはずのクルースニクのことを使う。どうにかして彼女の心を真祖討滅に向かわせるんだ」
「……それは難しいのではないでしょうか」
それまで口を閉ざしていた海紗がポツリと言葉を零す。彼女の声に、暮土も霧江も一斉に振り向いた。
二つの視線に射抜かれながらも、海紗は言葉を続けた。
「ローラさ……クルースニクもまた真祖に専心しているみたいです。先ほど、そんな話を母様からされました」
「……ちょっと待って。ひかりとクルースニクは逢っているのかい?」
暮土が制止の声を上げる。先ほどとは打って変わって、彼の表情には動揺が見られた。
「まさかひかりは、ボクの過去までもを語ったんじゃないだろうね?」
「流石にそこまでは……ですが母様は、クルースニクが真祖に敵意とは違う特別な想いを抱いていると言っていました。もしそれが本当ならば、彼女のことを真祖の討滅に利用するのは不可能なのではないでしょうか」
さらに海紗は続けた。
「それに、母様はクルースニクと真祖が友好関係を結ぶことに協力的みたいでしたし……」
「……それは分かっていたさ。だってひかりは、ボクが半吸血鬼だと知りながらもボクのことを選んだんだから。彼女が考えている愛の形には人間か人間じゃないかは関係無いようだしね」
苦笑する暮土。それは何処か、諦観しているようで。
「それで話を戻しますが、クルースニクが使えない以上、父さんは一体どうするつもりなのですか?」
「それは……」
霧江が尋ねるも、暮土は言葉を止める。選択肢に迷っているのだろうか、彼は逡巡の様子を見せていた。
が、ややあって彼は自身の決断を述べた。
「……いや、大丈夫だ。たぶんどうにかなる」
言い切った暮土の顔にもう迷いは無い。「不都合があろうと何がなんでも成し遂げる」という意志に満ちた顔が、そこに在った。
「霧江、そして海紗、計画はこのまま進めよう。ひかりの見解を知って、ボクに一つの確信ができた。もしその確信がその通りならば、きっと上手く行くはずだよ」
「確信……?」
息子が首を傾げると、父親はつい先ほどまでと同じ表情を――口の端を軽く上げた真顔を作る。
「世界の敵たる吸血鬼の王に好意を抱いた以上、クルースニクはかつてのように強大な神術は使えないだろう。世界の敵を愛するということは、神の御心に背くことと同じなのだから」
と、彼がそう口にした瞬間のことであった。
――コンコン
外側からノックされる書斎のドア。おそらく使用人の一人かが夕食の支度の完了を告げに来たのだろうか。
「開けてやってくれ」
暮土が子供たちに命じる。すぐさま霧江がそれに反応し、ドアをゆっくりと開けた。
が、その先にいたのは使用人ではなかった。
「やはりここにいたのかい」
ふわふわとした無造作な黒髪を靡かせた美女――冷泉院家に護衛役として雇われている吸血鬼の薬研エルネ、もといエルネスタ・メディチであった。
「……エルネ? 何かあったのかい?」
常日頃から自堕落な彼女が自ら暮土を訪ねてくるとは珍しい。しかもその表情はひどく真剣そのもの。これは何か有事の出来事があったということだ。
そしてエルネは、霧江が踏んでいる通りのことを口にした。
「現在冷泉院邸の前に、偶然にもユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムがいるんだが……どうするんだい?」
「……そのようなこと、選択肢は一つに決まっているじゃないか」
何故何も知らないはずの真祖が冷泉院邸の前にいるのか――そのような疑問すらも差し置き、暮土は応答した。
今まで以上の無の感情を湛えて。
「これよりボクらは作戦を決行する。各々、あらかじめ割り振った通りの役を遂行してくれ」
そう言うと暮土は立ち上がり、エルネを伴って書斎を出た。言った当人である彼もまた、自身のすべきことを果たしに行くつもりなのだ。
彼の行動に迷いは見られない。踏み出す足にすら確固とした意思が宿っている。のだが……
「……ようやく、これでボクの願いが叶う」
去り際にそっと呟いた時の顔は、霧江と海紗にはとても悲しげな色を孕んでいるように見えていた。
*****
一方その頃、冷泉院ひかりは厨房にて夕食の調理に勤しんでいた。
大学での講義がある日は、食事の準備は使用人たちに一任している。しかし請け負っている講義の無い今日みたいな日くらいは、母として家族に食事を振る舞いたいのだ。
今日の献立はハヤシライス。愛しの旦那の好物である一品。
「……うん。今日も完璧の味ね」
深手の鍋に入ったデミグラスソースを一口含み、満足げに頷く。今日も彼好みの味に仕上がったようだ。
あとは味が馴染むよう数分間鍋の蓋を閉じてそのままに。本当は一日寝かせるとより美味しくなるのだが、そこまでは待てないのが現実である。
(在り余りの野菜でサラダを作るなどして時間を稼げば、きっとそれなりには味が染み込むことでしょうね)
悪戯っ子のように無邪気に笑いながら、ひかりは巨大な冷蔵庫の野菜室に手を伸ばし――
「……ひかり」
――たところで、旦那である暮土が厨房の入り口に立っていることに気付いた。
「あら、暮土さん。一体どうしたの?」
暮土の顔にはいつものように微笑が湛えられている。その中に僅かに非哀を宿しているのもいつも通りのことだ。
が、そんな彼の背後には何故かエルネが控えている。常ならば堕落していることの多い彼女が、いつになく真剣な表情を浮かべて護衛として寄り添っているのは滅多に無いことだ。そのことに対しては一抹の疑問を感じる。
(何かあったのかしら……?)
一瞬だけ不安になるが、ひかりはそれを敢えて装わないことにした。たとえ暮土が大きな不安を抱えていても、せめて自分だけは平静を保っていなくては――彼と出逢った時から、ずっと念頭に置いていることだ。
懐疑心を察知されぬようにっこりとした笑顔を浮かべながら、ひかりは暮土に優しい言葉を投げ掛ける。
「今日はね、ハヤシライスを作ったの。暮土さんの好物でしょう? 今日のデミグラスソースには特に自信があって――」
「……ひかり、本当にごめん。今からボクは、君の想いを裏切る」
が、出し抜けに暮土が放った一言が、押し殺した懐疑心を一気に再浮上させる。
何故、彼は謝ったのだろう。
何故、彼は開口一番にそう言ったのだろう。
そんなの、理由など一つしか考えられないではないか――
「えっ……待って暮土さん、まさか……」
「やってくれ、エルネ」
命令に合わせ、控えていたエルネが一歩足を前に踏み出した。その妖艶な美貌に真摯さを宿したまま。
口がおもむろに開く。息が軽く吸われる。唾を飲む音、そして短く詠唱が紡がれる。
『時殺し――発動』
刹那、ひかりの動きが、声が、止まる。
愕然とした表情を浮かべたまま、今にもこちらに駆け寄らんとする体勢を取ったまま、まるでビデオの映像を一時停止したかのように、彼女はピクリとも動かない。
否、それだけではない。廊下を歩く使用人たちも、密かに屋敷に侵入していた鼠も、窓から入ってきた羽虫も、吹き抜ける風でさえも、皆動きを止めていた。
たった今冷泉院邸は、外界と時間の流れが隔離された、全くの異空間と化したのだった。
「ありがとう、エルネ。無理な協力をさせてしまって済まないね」
「全く……アンタは相変わらず人遣いが荒い奴だ。あの人の息子で無ければ断っていた案件だったよ、これは」
「ごめん。後で報酬として休暇をたっぷりと与えるから、今しばらく我慢していてくれ」
音と動きを失くした世界で、暮土とエルネは何事も無いように会話をしている。
だが、これは当然のこと。吸血鬼の血を持つ者だけが動ける世界の中では。
「ところで、本当に後悔はしてないんだろうねェ?」
不意にエルネが尋ねてくる。
「アンタの父親も母親も、アンタには普通に生きていてほしいと願っていた。なのに両親の願いを放棄し、誰も望まぬ手段に手を出した。そのことは覚悟しているのかい?」
「……今さら、後には引けないよ」
暮土は小さく苦笑した。
「ボクがここに存在している以上、誰かにまた不幸が訪れることとなってしまう。だから、禍根は早く断たなきゃいけないんだよ。これが両親にとって不本意なことなのだとしても、ね……」
「……そうかい」
全てを投げ出す暮土の発言に、エルネはそれだけ応答。計画遂行を願う本人が望んでいる以上自分に決定権は無い、とでも言いたげな反応だった。
そんないつも通りの反応を見せる彼女に安心したのか、暮土は苦笑から苦の部分を取り去った。
「とにかく、ボクは下準備の最後の仕上げをしてくるとしよう。エルネは誰にも見つからない場所でゆっくり休んでいてくれ」
「言われなくてもそうするつもりだったさ」
互いに最期の言葉を交わし合った後、暮土は踵を返す。
「……じゃあね、エルネ」
彼が向かう新たな場所は、冷泉院邸の門前。
現在偶然にも真祖がいるとされていた場所であった。




