彼女のいない一日
ローラ・K・フォーマルハウトは所用につき学校を欠席する――朝のホームルームで担任から告げられた一言は、僅かに教室を騒然とさせた。
しかしクラスメイトが一人欠席したところで教室や生徒の様子に異変が生じる訳でもない。最初はローラの欠席を疑問視したり嘆いたりする声は一限目の到来と共に沈静化し、彼女が欠けたことを誰も気に留めないまま、時間は刻々と進んでいく。
「えー、ローマ教皇ウルバヌス二世は十一世紀末に十字軍運動を提唱し、それは一〇九五年のクレルモン公会議で決定され……」
現在は四限目、世界史の時間。教師が連ねる淡々とした解説と共に、雑な世界地図やピンクのチョークで書かれる重要な単語が、次々と眼前の黒板を埋め尽くしていく。
だがそんな中、暁美悠人は授業内容とは無関係なことをずっと考えていた。
(……ローラ)
頭に浮かぶのは世界史の重要事項ではなく、今日は聖女としての務めのため席を外している居候のこと。
教室に、学校に、自分の傍に彼女がいない。たったそれだけで、悠人は自身が真祖であると知る時以前にまで時間が逆戻りしたかのような錯覚を感じていた。
実を言えば、朝のホームルームからずっとこんな感じであった。ずっと上の空でいたせいで、一限目の現代文では行を飛ばして朗読してしまったし、三限目の体育ではバレーボールを頭にぶつけ昏倒した。その時も頭に浮かんでいたのは、白い髪と銀灰色の瞳を持つ少女の姿。
自身が吸血鬼の真祖であることを拒絶していた以前は、彼女の姿が見えないというのは安堵を誘う光景であった。だが全てを受け入れた今はむしろ、彼女の姿が無いと妙に落ち着かない。
(きっと遊園地に行ってからだよな……俺がふと何気ない時にもアイツのことを考えてしまうようになったのって……)
ゼヘル・エデルとの戦闘の後、ローラと交わした一つの約束。『暁美悠人』が護りたいものを共に護っていこう、という誓い。それは提唱してきた聖女だけでなく、承認した自分のこともまた変えたのだ。
いや、そもそも約束を交わした時以前から、自分はローラに対し奇妙な感情を抱いていたような……
(俺の家や遊園地で普通の少女のように振る舞う彼女……聖女としての自分を忘れて年相応の少女のような様相を見せる彼女を見た時から、もしかしたら俺は……)
「……美」
彼女のことが頭から離れずにいるのは、度々目にした聖女でも何でもないローラ・K・フォーマルハウトの素顔に心惹かれてしまったからなのだろうか?
「……暁美。聞いているのか、暁美」
「何だ? ロー、ラ……」
ずっとローラのことを考えていたせいで、名前を呼ばれた瞬間、反射的にローラに尋ねられたのだと錯覚してしまった。
だが、目の前にいるのは白髪の美少女ではなく頭の禿げた中年男性。世界史を担当している教師である。一体何故彼は自分の目の前にいるのだろうか――
「……あ」
ようやく悠人は、今が世界史の授業中であることと、教師のことをうっかり『ローラ』と呼んでしまっていたことに気が付いた。
ようやく空想から現実に戻ってきた一生徒に、世界史教師は呆れたような表情。
「全く……フォーマルハウトが欠席しているのが気になるのは分かるが、せめて授業くらい真面目に聴け。あと私はフォーマルハウトじゃないからな」
「……すみません」
気恥ずかしさから思わず項垂れる。それと同時に、教室中からクスクスと笑う声が聞こえ始めた。
「あーあ、怒られちゃった。今日の暁美くん、ずっとボーッとしてたもんね」
「フォーマルハウトさんがいないのがそんなに気になるのかなぁ」
「やっぱり二人って付き合ってるのかもだよねー」
「そこ、うるさいぞ。人の失敗を笑うな」
教師が制裁の鶴声を上げると、再び教室には静寂が戻る。悠人の失態を笑っていたクラスメイトたちは、バツが悪そうな顔をしつつ教科書に視線を戻していた。
程なくして授業が再開される。教師は教科書の続きを朗読し始め、生徒たちも各々の授業風景を展開し始めた。
が、教師に窘められてもなお、悠人の脳内はここにはいないローラのこと一色だった。
「いやあ、驚いたよ。まさか悠人が先生のことをフォーマルハウトさんの名前で呼ぶだなんて」
昼休み。いつものように悠人の席の隣で昼食を摂りにきた親友の解が、腹を抱えて思い出し笑いをしていた。
「そんなに笑うなって……」
「これが笑わずにいられるのかい? 悠人には申し訳ないけど、先生のことを『お母さん』って呼んでしまうのとほぼ同じな凡ミスを親友がするだなんて……!」
普段の彼には似つかわしくないくらい笑い転げている解に対し、悠人は呆れたように溜め息。
ローラが不在なことに気を取られたままだった自分に落ち度があるとはいえ、そこまで大笑する必要性は果たして何処にあるのだろうか。暁美悠人のことを誰よりも考えてくれている親友ならば、そこは笑わず温かい目を送ってあげるのが普通ではないのか。
と、悠人が内心で不満を呟いていた時、
「……悠くん」
それまでずっと黙ったままクリームパンを齧っていた叶が、意を決したかのように言葉を発した。
「何だ?」
「今日は、ローラちゃんいないんだよね?」
「は? 今日は欠席してることは見たら分かるだろ? ……まあ、家に帰ってもいるかどうかは謎だけど」
「そっか……ちょうどよかった」
叶が小さく笑う。今朝に意味深な様子を浮かべていた時と同じの、安堵を秘めた微笑だった。
そしてすうっと息を深く吸い、悠人に向けて言ったのだった。
「じゃあ、今日はマネージャーのお手伝いしてもらえるねっ!」
「「……はい?」」
その発言には、悠人のみならず解も困惑を見せていた。
表面だけでは悠人と最近仲睦まじいローラに対しての羨望があったのではと思ったが、そんな彼女から出た言葉は「マネージャーの仕事手伝って」。意味が分からない。
当然、悠人は理由を尋ねる。
「……お前、何考えてるんだ?」
「えっ? そのまんまの意味だよ? 実はマネージャーやってる子が病気でしばらく学校休んでて、それで今結構うちの部活大変なんだよね……」
「それでまた俺にマネージャー代理をやれと?」
「うん。悠くんはお人好しだから、頼めば引き受けてくれることを知っていたし。それに今はローラちゃんいないから、ローラちゃんが悠くんのこと引き止めるってことも無さそうだし」
「ローラが俺のこと引き止める、って……アイツはそこまで執念深い奴じゃねーぞ?」
「ううん……最近のローラちゃんは、どう見ても……」
再び意味深な表情を見せる叶。今朝に見せたものと同じ、何かを考え込んでいるかのような表情だった。
が、すぐさまハッと元のはつらつとした笑顔に戻る。空になったパンの袋を丁寧にまとめ、椅子から立ち上がった。
「……いいや、とにかく今日はよろしくね! あたし、部長に報告してくるから!!」
そして、逃げるようにして悠人たちの元から去る叶。
「本当にどうしたんだろうな、今日のカナ」
突然不在になる居候も変だったが、意味不明な呟きを多く残している幼馴染も変だ。先ほどまで叶が座っていた椅子と大きく開かれた教室の引き戸を見比べつつ、悠人は再三の困惑。
そんな中、悠人と同じく困惑の感情を浮かべていたはずの解が、悠人にこっそりと耳打ちしてきた。
「……悠人、少しは浅浦さんのことも大切にしなくちゃ駄目だよ」
「は?」
どうやら親友も、今日は変になっているらしい。
(カナは幼馴染なんだから、大切なのは当たり前だろうに……)
*****
「……えっと、ここの部員の浅浦叶にお願いされて、また今日もマネージャーの手伝いをさせていただくことになった――」
「ぎゃああああああああっっっ!!」
プールサイドに立つ黒髪赤目の姿を目にし悲鳴を上げる競泳水着姿の女子たち。彼女たちの阿鼻叫喚を目にした悠人は重々しい溜息を吐いた。
帰宅部でありながらこうして水泳部のマネージャーの仕事を手伝うことは、何も悠人にとってこれが初めてのことではない。水泳部の本来のマネージャーが欠席している時、そしてうっかり叶の機嫌を損ねてしまい彼女が罰を要求した時は、度々こうしてマネージャー業務を幼馴染命令で手伝っているのである。
それにしても毎度思うのだが、自分が練習場所に姿を見せただけで部員たちが悲鳴を上げるのは一体何故なのだろうか……?
「うふふふふふふ……よくやったわ叶……! 流石、我が冷泉学園高校女子水泳部の期待の部員ね……!」
何故か防水性のカメラを構えている水着姿の女子高生が、ニヤニヤと含み笑いながら呟いている。
彼女は冷泉学園高校二年生の結元愛実。女子水泳部の部長でありながら写真部の部長も務めているという非常に変わった人物だ。これだけ兼部をしておきながら学年の成績はトップクラスなのだから恐ろしい。
愛実は構えていた首に下げる形のカメラを下すと、悠人に向かって握手をする。
「いやあ、本当にありがとね! わざわざ手伝いに来てくれちゃって!」
「いや……俺は浅浦さんに頼まれただけなんで。お礼を言うなら彼女に言ってください」
「もう、謙虚だなあ……ま、そんなところも暁美くんらしいけどね! 叶ー! 本当に連れてきてくれてありがと! これで暁美くんのことを盗さ……じゃなくて撮影するチャンスが」
「写真を撮るなら俺じゃなくて部員なんじゃないですかね? そもそも今は水泳の方に集中するべきだと思うんですけど」
「う……うん、そうだね! それじゃみんな!! 暁美くんにいいところ見せられるように頑張るのよ!!」
愛実が鼓舞すると、部員たちは「おおーっ!!」と雄叫びを上げながら準備体操に取り掛かり始めた。このやる気は一体何処から来るのだろうか。
そして悠人のことをマネージャー代理として雇った叶も叶で、上機嫌でアキレス腱を伸ばすストレッチをしている。たかが幼馴染が手伝いに訪れたくらいで、何故彼女までこんなにやる気を出しているのだろうか。
まあ、女子の考えというものは異性の自分には分かるまい。そう割り切り、部員ではないため準備運動する必要の無い悠人は近くのプラスチックベンチに腰掛ける。
マネージャーとして手伝いに来たものの、準備運動中は特にすることが無い。だから女子部員たちが上げている威勢のよい掛け声をBGMにしつつ、ガラス張りの壁の向こうに広がる黄昏の空を眺めることにした。
(……もうこんな時間なのか)
ずっと彼女のことばかり考えていたため気付かなかったのだが、ローラからの監視を受けなかった一日は思ったよりも早く過ぎていた。だんだん昼が短くなっている季節だからというのもあるだろうが、つい先ほどまでは澄み切った青だと思っていた空は、すでに橙色と紫色と黒色が溶け合った色と化していた。
もう夜が近いからなのだろうか、窓の向こうの黄昏の空には、白銀色の一番星が瞬いている。
(……ローラ、もう帰ってきてるのかな)
その星がどうもローラが銃剣から放つ銀色の弾に見えてしまい、その結果自然と彼女そのものの姿も脳裏にちらついてしまう。
聖女としての務めはもう終えて、家に帰っているのだろうか。それとも自分には想像も付かないような大掛かりな任務の最中なのだろうか。もし仕事が吸血鬼狩りであるのならば、吸血鬼の能力が飛躍的に向上する今の時間帯には任務を完遂してほしいと思うのだが、まさか不意の一撃により命を落とすなんてことが――
(――いや、クルースニクなんだからそれは無いか)
そう、最悪の考えを振り切りたいところではあったが。
(……待て、ゼヘルもカインもまだこの周辺に潜伏してる可能性があるよな? あと、未だ表舞台には姿を見せていない残りの四使徒も……)
いくらクルースニクであれど、本気の四使徒に遭遇すれば無事では済まない。先日のゼヘルとの戦闘の際に命の危機に瀕したローラのことを目の当たりにしてからは、それをより痛感している。
まして自分とローラは互いに敵同士であることを承知の上で共闘を誓い合っているのだ。誓約し合う直前、四使徒筆頭のカインは「ユークリッドを無闇に引き戻すことはしない」と約束していたが、その共闘が筒抜けになれば忠実な彼であっても容赦しないはず。彼は「クルースニクを襲わない」とまでは言っていないのだから。
(任務の最中に四使徒に襲われてなければいいんだが……)
ローラがゼヘルに胸を斬り裂かれる光景が勝手にフラッシュバックしている。思い起こされるその痛ましい光景に顔を顰めながらも、悠人はローラの身を案じた。
と、そんな中、遠くから聞こえてくる愛実の呼び声。
「暁美くーん、準備体操終わったよー。これからウォーミングアップやるから声出ししてもらえないかなー? 正直暁美くんに声出ししてもらえると私の……じゃなくて部員たちのやる気が……ゲフンゲフン」
「あっ……はい」
どうやら考え事をしている間に、あちら側の準備運動は終わったらしい。準備体操にはさほど時間はかからなかったのか、それともこちらが長く思考に耽りすぎたのだろうか。
ともかく、応援して部員たちのモチベーションを上げるのもマネージャーの立派な仕事だ。マネージャー代理である以上仕事はきちんと遂行しなくては。
悠人は立ち上がり、プールの縁へと向かう。
今はすべきことに心を専念するべきだ。ローラのことを考えている暇など無い。そう、今ここにはいないローラのことは……
「暁美くん!! 危ない!!」
「えっ」
次の瞬間、急に途切れるタイル張りの床。そして身体から失われる重力。
鼻腔に届いたのは塩素の匂い。肌で感じたのは温水の生温かさ。目に映ったのはプールの底の水色。
そして、
「――っ!!」
「ぎゃーっ!! 悠くんが落っこちた!!」
バッシャーン!! という大きな音と水飛沫を上げながら、悠人は見事に水没したのだった。
暁美悠人がプールの中へ水没する光景を、偶然窓の外から見ていた者たちがいた。
「何をしているんだ、彼は……」
「でも兄様、内心では『水に濡れる暁美はとても扇情的だ』と思っているのでしょう?」
「どうやらお前の方が水没したいらしいな。もし次にそのようなことをほざいたらそこの池に突き落とすぞ」
共に艶やかな黒髪と藤色の瞳を持つ少年少女――冷泉院の双子である。
屋内プールで展開される一場面を眺めつつ互いに冗談を言い合う霧江と海紗であったが、その中で巡らせている思考は二人とも同じだった。
「……それはさておき、暁美くんがあそこまでぼんやりしているのって」
「間違いない。今日は欠席しているらしいフォーマルハウトのことが気掛かりなのだろう。何故欠席しているのかは不明だが」
答えつつ、霧江は渋ったような表情を浮かべた。
「しかし、これは俺たちにとっては好都合かもしれないな。暁美がフォーマルハウトと共闘しているという事実は不都合でしかないが、暁美が彼女に心を寄せているというのは、彼のことを釣るという点ではむしろ好都合だろう」
「……そう、ですね」
兄とは対照的に、妹は僅かに悲痛な表情。せっかく友人関係になれたというのに、こちらを信用し切っている彼の心に付け込み利用する……そんな行為に対し抵抗感があったからだ。
だが彼女は、その抵抗感をそっと押し殺した。
――自分にとって重要なのは友情なのではない。重要なのは、大切なのは、家族以外に無いのだから。
「……とにかく、このことは父様に報告しなくては」
「ああ、そうだな」
海紗は悲愴を殺した無表情で、霧江は何を考えているか不明な無感情で、それぞれ屋内プールのある棟から静かに立ち去る。
父親の願いを叶えることこそが自分たちの使命。
両者共に、そんな決意を秘めながら。




