親知らず、子知らず
冷泉院海紗は嘘をついている。
暁美悠人とローラ・K・フォーマルハウトに対し、嘘をついている。
(ごめんなさい。貴方たちに接触したのは、貴方たちに協力するためではないんです)
先ほど悠人たちを家まで送り届けた際、自身は兄よりも父親に依存していないような素振りを見せていた。
が、それが虚飾なのである。本当の自分は兄同様、父のことを誰よりも尊敬し、父が望むことならば何にでも手を出そうとしているのだから。
(本当はわたし……貴方たちをこれから利用するために、接触を持ちかけたんです)
その点で、悠人が血に飢えているという事実は都合がよかった。
何の接点も無い後輩に何の理由も無く接触を試みようとすれば怪しまれるのは確実だった。だから彼が吸血鬼の真祖であることを知る者として、彼に食糧を施す役目を担うことができたのは、ある意味ではとても幸運だったと言えよう。
そしてローラはともかくとして、悠人は自分たちのことを生徒会の一員として充分に信頼し切っている。この様子ならば自分たちの目論見に勘付かれる確率はほぼゼロであろう。
(暁美くんたちを騙しているのは心苦しいですが、わたしにとって一番大切なのは家族なんです。家族の利のためには、それ以外を犠牲にするしかないんです)
一瞬だけ胸によぎった罪の意識を押し殺す。
自分は兄よりも非情にはなれない。だが、何者よりも尊敬している父の望みを果たすためには、優しさを捨て非情を纏うしかないのだ。それだけは絶対に忘れてはならない――
「あら、海紗。帰ってきていたのね」
――そう思考に耽っていた時、声を掛けてきたのは自身の母・冷泉院ひかりであった。
彼女は父やエルネとは異なり、特殊な力は持ち合わせていない。つまりごく普通の人間である。
が、彼女は人間でありながら吸血鬼に関して博識だ。大学教授として東欧の民俗学を研究しているからというのも理由だが、それ以上に半吸血鬼の妻だからというのが理由としては大きいだろう。
「……母様」
慌てて平静を装い、自身の母に向き合う。もちろん、取り繕った笑顔も忘れずに。
だが流石は母。娘が何を考えていたのかを、ひかりは見抜いていた。
「……分かっているわ。暮土さんのことを考えていたのでしょう?」
「いえ、そういう訳では……。あ、えっと、次の即売会に出す予定の同人誌について――」
「無理して誤魔化さないで。貴女がそんな深刻な表情をしている時は、たいてい暮土さんのことを考えている時だって知っているから」
どうやら取り繕うのは無駄のようだ。
観念した海紗は笑顔の仮面を外し、苦悩の表情でひかりに向き合う。
「……実は、どうすれば父様の苦しみは癒えるのかと、ここ最近ずっと考えていて……」
「あら、そんなことだったの」
海紗に比べ、ひかりは随分と楽観的だった。
それもそのはず、彼女は霧江と海紗が父のために企てようとしている計画を知らないのだ。
「確かに暮土さんは初めて逢った時からずっと悲愴的な思考を抱いていた。だからあの人の子供である貴女がそれを気にするのも無理ないわね」
それからひかりは、海紗に諭すように言った。
「でもね、貴女が暮土さんのために頑張る必要は無いのよ? あの人のことを一番支えていかなきゃいけないのは、妻である私の方なんだから。あの人の苦しみを癒してあげたいっていう気持ちは分かるけど、その役目は私に引き受けてくれないかしら?」
「……母様ならそう言うと思っていました。もちろんお願いされた以上、わたしは母様の言う通りにするつもりです」
「本当に? ……でも、そう言ってくれて本当によかった。貴女の優しさを無駄にするつもりは無いけれども、貴女は霧江と一緒にこれまで通りの生活を送ってほしいって思っていたから。それだけでも幸いだわ」
「……」
はにかむひかりを、海紗は複雑な表情で見つめる。
暮土の本心を、ひかりは知らない。それは彼女が理解しようとしていないからではなく、夫の方が真実を曝け出すことを頑なに拒んでいるからであった。
(父様の本当の願いを知ったら、母様は何とお思いになるのでしょうか……)
海紗が空想したその時、ふと思い出したかのようにひかりが話題を変えた。
「あ、そうそう。そういえば冷泉学園高校に吸血鬼の真祖が通っているんでしょう? 確か『暁美悠人』っていう名前で」
「はい。すごく優しい人でした。ほとんど話したことの無い私たちにも屈託無く接してくれて……冷酷非道な真祖であることが嘘のようです」
悠人のことを話す度、胸がキリキリと詰まる。
吸血鬼としての彼はよく知らないが、人間としての彼は本当に優しすぎる。これから自分たちが何をしようとしているかも疑わず、ただ「生徒会だから信用できる」という理由で全面的に信頼してくれた少年――そんな彼を利用しようとしていることが、本当に心苦しい。
そして悠人本人と同様に、ひかりも真祖を利用した計画を知らない。
だからこそ彼女は、期待に胸を弾ませながら、本当に呑気な願いを口にしたのだった。
「そう……そんな彼に、いつか会ってみたいわ。あの残虐だったらしい真祖からどうしてあんな人間らしい善の感情が生まれたのか、とても調べ甲斐がありそうだもの」
「お茶でも飲みながら語り合いたいわね」などといったことを口にしつつ、何も知らないひかりは悠人に会える日を心待ちにしていた。
そんな彼女の姿は、全てを知っている海紗にとっては目に焼き付けられないくらい眩しくて、見ているだけでも良心が悲鳴を上げそうなもので。
(……ごめんなさい、母様)
心の奥底で、ひかりに謝罪する。
残念ながら、母が望む『いつか』は二度と訪れないだろう。
何故なら暁美悠人は、数日後に父親の願いを果たすために捧げられる贄となる運命なのだから。
――冷泉院暮土の悲願を叶えるために必要なのは、真祖の命。
*****
海紗が自身の母親と会話している頃。
冷泉院霧江は父親と対面していた。
「父さん。計画通り、暁美悠人に――いや、ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムと接触することができました。幸いにも、向こうはこちらの思惑には気付いていないようです」
「そう……ご苦労だったね、霧江」
書斎の椅子に腰掛けていた父親・冷泉院暮土が息子の方を向く。
一見すれば、ようやっと二十歳を超えたばかりに思える痩身の青年だ。黒髪のところどころに混じっている銀髪、そして穏やかな光を湛える藤色の瞳が、彼が純粋な日本人ではなく外国人とのハーフであることを物語っている。
しかし彼は半吸血鬼、通常の人間よりも圧倒的に加齢速度が遅い。見た目上では霧江の兄のようにも見えるが、実年齢は五十を超えている。そのため彼の存在が冷泉学園高校の七不思議の一つに数えられていたりするのだが……それは余談か。
まっすぐに向き合ってくる息子に対し、暮土は微笑みかける。だが、その笑顔は何処かやつれ切っていた。
「本当にボクの我儘に協力してくれてありがとう。そして、こんなちっぽけなことに付き合わせてしまって本当に申し訳なく思う」
「謝らないでください。父親に尽くすことは息子としての義務なのですから」
霧江は淡々と答える。
これからすべきことに対しての罪悪感は全く無い。自身の行為によって誰かが不幸になっても、父がそれで幸せになってくれさえすればいい……
……というのは、建前。
表面上では納得しているように見せかけ、本心では父親の無謀な願いに心を痛めていた。
断言するならば、この一連の計画は不幸しか生まないだろう。幸せになるのは暮土当人だけ。それ以外は計画の完遂と同時に大きな悲しみを背負うことになる――手伝っている霧江でさえも。
(……俺は何故、父さんを止めようとしないのだろう。何故、父さんに手を貸しているのだろう)
憔悴を孕んだ暮土の笑顔を見る都度、そう考えてしまう自分がいた。
手を貸しているのは、誰よりも尊敬している父親に尽くしたいという孝行の想いがあるからだというのは分かっている。だがそれと同時に、その孝行によって悲しむ人が生まれるというのも知っている。
では何故心の底では望んでいない親孝行を進んでしようとしているのか。それは互いに矛盾している想いを抱える自分が本当にすべきことを見失っているからであった。
幸か不幸か、息子があまり乗り気でないことに、父親は気付いていないようであった。
「これでようやく……ボクが望んでいたものが手に入る……。長かった……ここまで、本当に長かった……」
歓喜しながら歔欷する暮土。何かから解放されたかのように安らかな表情を浮かべながら、自身の苦しみを涙として体外に廃棄していた。
そんな彼の姿に良心の呵責を刺激された霧江は、思わず訊かざるを得なかった。
「父さんは……本当にこれでいいと思っているのですか?」
「……何がだい?」
「母さんの想いを裏切って一人先に逝くことに関してです」
「ああ……ひかりのことか」
尋ねると、暮土は疲れ切ったように笑った。
「……彼女のことは、いいんだよ」
それはまるで、全てを投げ出し命を断つ覚悟をした自殺者の姿を見ているようで。
「ひかりは半吸血鬼なんかと結婚なんてするべきじゃなかったんだ。だって、吸血鬼にも人間にもなれないこんな呪われたボクと永遠を約束なんかしたら……彼女の方まで不幸になってしまうから。もちろん、それは霧江と海紗にも当てはまることだけど」
「でも、今でも母さんは貴方のことを愛しているし、貴方もまた母さんのことを愛しています。『結婚しなければよかった』というのは言い過ぎな気がするのですが」
「知っているよ。でも一心に愛し、また一途な愛を貰っているからこそ、ボクの運命にひかりを巻き込みたくないんだ」
全てを諦めたような表情をしながらも、暮土は自身の独りよがりな考えを撤回しようとしなかった。
それは決して自分勝手に欲望を満たそうとしている訳ではない。愛する人たちを自身の問題に巻き込ませないようにするため、意地でも無謀な計画を遂行させんとしているのだ――
――その結果、愛する人たち以外が犠牲になるのだとしても。
「霧江」
刹那、父が子の名を呼ぶ。
「何でしょうか、父さん」
「本当に急で申し訳無いけれども……できれば明日、計画を実行したい」
「……え」
あまりにも唐突な意思表示に、霧江は咄嗟の対応ができなかった。
ようやく真意を尋ねることができたのは、暮土が発言して一、二分が経過してからであった。
「父さん、いくら何でもそれは急なのでは……」
「いや、あまりもたついていると周囲に勘付かれる。特に現在この街には四使徒が潜伏している。彼らに計画が露見すると、ボク以外の家族も無事では済まないだろう」
「……」
確かに彼の発言には一理あるが、それでも突飛な計画実行には懐疑心を抱かずにはいられない。
(だが……いくら何でも父さんは急ぎすぎな気がする)
一体今の彼の心を駆り立てているものは何なのだろう。家族愛か、自己犠牲か、それとも罪悪感なのか――
そうぼんやりと思っているうちに、暮土はもう話が終わったものと片付けていたようで。
「さあ、もうそろそろ夕食の時間だ。早くしないと冷めてしまうよ」
「でも、父さんは……?」
霧江を急かすものの自身は椅子から立ち上がろうとしない。それを訝しみ呼びかけるが、
「夕食は後で一人で摂るから、ボクのことは気にしなくていい。今はちょっとひかりとは顔を合わせたくないからね……」
暮土は悲しそうな表情で微笑んだだけだった。
彼の瞳は、まだ涙に濡れている。




