少年と少女
『生殺与奪』。
真祖が有する力は、その名で呼ばれていた。
この能力は、自身が傷を負わせた者に限り生命を操作できるというもの。死には遠く及ばないかすり傷を負わせただけでも死に至らしめ、逆に命に関わるような重傷を負わせた場合でも五体満足で蘇生させることができる――そういったように。
それに加えて、この能力は相手の傷の具合をも操作できるのであった。真祖の手に掛かればどんなに些細な傷口でも広げることができる。そしてその傷口を塞がらぬよう施すこともできるのだ。
この世の如何なる生死でも、真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムは手玉に取ることができる。「生かすも殺すも我次第」とは、まさしく彼のためにあるような言葉であった。
そして数百年ぶりに真祖に生命を掌握されたのが、彼の忠実な眷属であった吸血鬼ゼヘル・エデルであったのだ。
「――っ……!!」
ゼヘルの首が地へと転がり落ちる。思った以上に重い頭蓋骨の落下音が、軽く地面を震わせた。
しかし首を斬り落とされたのにも関わらず、残されたゼヘルの身体は未だ健全に屹立している。致命傷を負わされてもなお生きている。
心臓を貫かれなければ吸血鬼は死なないのだから、まだ生きているのは当然だ。斬首されれば人間は即刻死亡だが、吸血鬼にとっては単に命に別状の無い重傷にしか過ぎない。
「……はは」
ゼヘルの首玉が乾いた笑い声を上げる。そして何事も無かったかのように頭部の無い身体が切り離された頭部を拾い上げ、元あった場所に接着した。
それでも当分は首が不安定なのか、こちらを襲撃することは無い。ようやっと傷が癒えたローラと冷たく目を細めているユークリッドのことを、じっと静かに見つめているだけだ。
しばらく硬直状態が続く。
それを破ったのは、数分後にゼヘルが発した小さな苦笑。
「……真祖様は、自分の知らないところで変わられ、この自分が知らぬ新たな強さを手に入れた……そういうことなのだろうな……」
だがその時、
――オォーン……
獣の咆哮が、唐突に森の中に響いた。
しかも子供向けの遊園地にはいるはずもない、どころか日本ではとうに絶滅したはずの狼の鳴き声だった。
狼の咆哮に、ゼヘルがハッと目を見開く。
「……迎えか……」
彼がそう口にした矢先、四本足の獣が林間を掻い潜り、ゼヘルとローラたちの間に割り入った。
予測通り、姿を現したのは狼。しかしその黒色の体躯は、通常の狼の体長を優に超えている。おそらく四メートルはあるのではないだろうか。
北欧神話の怪物フェンリルを連想させるその狼は、ユークリッドとローラには目も暮れず、呆然とするゼヘルにかぶり付いた。かと思えばそのまま彼をひょいと自分の背に乗せる。
ひと仕事終えた狼は、そこでようやくユークリッドたちの方へと向き合い、
「ユークリッド様、この度は同胞が大変ご迷惑をお掛けしました。彼に代わり僕が謝罪いたします」
普通の狼には絶対に有り得ない、流暢な言語を口より発した。
だが、ローラもユークリッドも特に驚かない。
何を隠そう、ゼヘルのことを「同胞」と呼んだ彼もまた、れっきとした吸血鬼なのだから。
「その姿から判断するに貴様……四使徒筆頭の吸血鬼だな? 確か名前は――」
「――カイン。四使徒筆頭カイン・シュローセン。仮にも君はクルースニクなんだから、せめて僕の名前をちゃんと素早く言えるくらいじゃないと」
ローラの詰問にも、狼は――カインは臆しなかった。冗談めいたことを口にしつつ、今度は黙ったままそちらを見据えているユークリッドに首を向ける。
「今回の件に関して、きっとユークリッド様は僕の差し金とお思いのことでしょう。ですが僭越ながら弁明致しますと、ゼヘルがユークリッド様の心臓を貫く真似をしたのは完全に彼の独断であり、僕は無関係です。どうか誤解無きようお願いします」
「……貴様が言うならば、真実なのであろうな」
意外にも、ユークリッドはカインの発言を素直に信用していた。いかに彼が四使徒筆頭として真祖に一目置かれていたのかが理解できる。
尤も、単に面倒だから適当に返事をしている可能性も否定できないが。
ユークリッドの納得の意を受け取ったカインは、ゼヘルを背に乗せたまま起用に頭を縦に動かす。敬礼のつもりらしい。
「改めて、今回は同じ四使徒が大変な無礼を働き申し訳ございませんでした。この償いとして、当分はユークリッド様を無闇に吸血鬼側に引き戻すことは致さないと約束します」
「それは真か? 余に随分と心酔している貴様ならば、何としてでも余のことを引き戻すとばかり踏んでいたのだが」
「本来ならば僕でも一刻も早くユークリッド様にお戻りになってほしいと思っているのです。しかし、それは現在貴方がお望みになっていることでは無いでしょう? ならば僕にそれを邪魔する権利はございませんとも」
喉を鳴らして笑いながら、カインは尻尾をユークリッドたちに向ける。ここから立ち去るつもりのようだ。
そして、
「僕は貴方の肯定者。貴方のお望みを満たしてあげることこそが僕の役目です。たとえ僕自身がそれを望んでいなくとも」
そう言い残し、カインはゼヘルを伴ったまま疾風のごとき速さで疾駆し、須臾の間に森林の奥深くへと行方を眩ませたのだった。
*****
吸血鬼たちが去ってから数十分後のこと。すっかり夜を迎えたアスレチック広場では、聖女と真祖、そしてまだ気絶したままの人間の少女のみが居残っていた。
「……特に目立った外傷は無し、か。危害が無いようで何よりだ」
遊具の上で眠る叶を視診し、ローラが安堵する。
おそらく彼女には人質以外の役割は無かったのだろう。頸動脈を軽く絞められ意識を奪われていただけのようだ。無論、ゼヘルに吸血されたような痕も見当たらない。
だが彼女の目が覚めないのをいいことに、解決すべき問題点を片付けなければならない。ローラは眠る叶から視線を外し、遠くからこちらを様子見している黒髪の少年に問いかける。
「ところでユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム、貴様にはいろいろと聞かねばならぬことが――」
「無理してその名を呼ぶ必要は無いぞ。あくまでも今の余は『暁美悠人』という名の男子高校生なのだからな」
「暁美悠人」であることを主張しているものの、その古風で堅苦しい喋り方は完全にユークリッドのもの。口調と発言内容の激しいギャップに、ローラは大いに困惑した。
「今の貴様はどちらだ? アケミか? それとも真祖なのか?」
「……ああ、この口調であるが故に混乱しておるのだな。ならば、貴様にとって馴染みのあるものに戻すとしよう」
そう言った後、普通の男子高校生相応の話し方に戻すユークリッド、改め悠人。
「……あー、ゴホン。今の余……じゃなくて俺だけど、正直に言えば暁美悠人でもありユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムでもあるんだ」
「……真祖としての意識と普通の学生としての意識が混在してるということか?」
「ちょっと違うな。転生して培われた普通の人間としての意識に、今まで失われていた真祖としての記憶と気概が上乗せされた――そんな感じだ。だから今の俺には中学・高校の青春の記録もあるし、四百年前に人間を虐殺したっていう事実もある。もちろん、カナが負ったトラウマのこともちゃんと記憶に残ってるさ」
それまで平穏な日々を送ってきた暁美悠人と、かつて惨劇の舞台で生きてきたユークリッド。二人の価値観や思考は絶対に分かり合えないはずなのに、今の悠人にはそれを気にしているような様子が全く見られなかった。
「要するに、俺は現代日本に生まれ変わる前の記憶を取り戻し、忌々しい真祖としての過去を素直に認めただけ。人間としての一面と吸血鬼の一面、それを両方抱えて生きることにしただけだよ」
仕方なく受け入れたという雰囲気は感じられない。大切な者を護るため、覚悟の上でその選択肢を選んだのだという意志を、ローラは悠人から強く感じている。
「俺はもう『ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム』を恐れて運命と戦いから逃げたりしない。だからといって『暁美悠人』を否定する吸血鬼たちに縋るつもりも無い。俺はただ今在る俺として、大切な存在を――父さん母さんとか解とか、そしてカナとかをちゃんと護ることができる存在として生きる。そう決めたんだ」
「……」
吹っ切れたように笑う悠人を前に、ローラは沈黙する。
真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム。クルースニクとしての使命故に、彼のことはいずれ断じて殺さねばならない。
しかしユークリッドを殺す使命があるのだとしても、ただの高校生である暁美悠人を殺す理由は、「真祖と同一人物だから」というもの以外に存在しない。
ならば、真祖としての自分と人間としての自分を両方受け入れた少年は、いったいどのように処断すればよいのだろうか。
それは、ここ数日の間に自然と抱いてしまった『新たな感情』が、そっと教えてくれたような気がした。
「……ユート」
ローラに唐突に名を呼ばれ、悠人が吃驚する。
「お前、今俺のことを名前で呼んで……」
「そんなことは今はどうだっていい。私は貴君にどうしても言いたいことがあるのだ」
それまでは「アケミ」と苗字で呼んでいたのを名前で呼ぶのに改めたのには列記とした理由があった。
悠人がユークリッドを受け入れたのと同じように、自分もそれまで否定していた『新たな感情』を受け入れた。それを確固なものにするための一種の意思表明である。
「簡単に言えば、貴君に一つ提案をしたい」
「……提案?」
悠人が首を傾げるが、気にせずローラは続けた。
「貴君の人間としての一面が消えない限り、私は貴君を殺さないと決断する。それに加えて、私は貴君の護りたい存在を、貴君と共に護っていくことを誓おう」
先ほどローラに「ユート」と名を呼ばれた時以上に、彼は大きく瞠目している。
当たり前だろう。ほんの数日前までローラは悠人に対して好意を抱いていなかったし、むしろ明確な殺意と敵意を向けていたのだから。そのような扱いをしてきた者からこんなことを言われれば驚くのも理解し難くはない。
「それ……本気で言ってるのか?」
「本気だ」
悠人の深紅の瞳をまっすぐに見据え、ローラは言葉を重ねる。
「だが、仮に貴君が人間としての一面を失い、かつての残虐で冷酷な吸血鬼の真祖として再び世界を敵に回したのならば、その時は真祖殺しのクルースニクとして貴君を容赦無く討ち滅ぼす。それだけは覚えておくことだ」
「えっ……でも、もしそうなった場合、お前は俺を殺すことができるのか?」
「その未来を防ぐ鍵は貴君に託されている。貴君が人間としての一面を失わずにいられるかは、貴君にしか分からないことなのではないかね?」
「……」
今度は悠人が沈黙する番。彼はローラのことを視界に捉えたまま微動だにしない。
しかしややあって、悠人はおもむろに口を開く。
「……分かった」
彼の秀麗な顔には、決意と覚悟が宿っていて。
「だったら俺は、お前の誓いが破られないよう精進する。人間としての俺を絶対失わないよう努力する。だから――」
そして、悠人はローラの元に一歩二歩と足を踏み出す。
手を伸ばせば触れられる距離まで辿り着くと、彼は拳を軽く突き出し、そして破顔した。
「――だから、お前も頑張れよ。もし俺が真に世界の敵になったなら、それを止められるのはお前だけなんだから」
いつも仏頂面だった彼が、自分に初めて見せた満面の笑顔。
それに釣られ、ローラもまた自然と顔を綻ばせた。
「……ああ。貴君の語る最悪の未来が訪れぬことを祈っているぞ」
と、ローラも拳を突き出し悠人とグータッチをしようとし――
「――ちょっと待て」
突然悠人が制止の声を上げた。
「何だね? せっかく良い雰囲気であったのにも関わらず」
「まさかお前、気付いてないのか? いや、俺もさっきまで気付いてなかったんだけど、さ」
「……つまり貴君は何が言いたいのかね?」
唐突にしどろもどろし始めた悠人に、ローラは怪訝な顔。
よくよく見れば、彼は不自然にこちらから目を逸らしていて、そして異様なほどに頬を紅潮させていて、
「あの、さ、ローラ……お前の服、脱げてる、ぞ……?」
「――っ!?」
指摘され、慌てて自身の服を見遣る。
先ほどの戦闘でゼヘルに身体を斬られた際、ついでのように服と下着も縦に斬り裂かれていたらしい。刃で裁断された箇所の隙間からはすっかり傷が治った白磁の肌が覗いており、そして夜風に揺らされた布の切れ端が棚引く度にたわわな胸が見えたり隠れたり――
「――っ、死ねぇっ!!」
「ぐはあっ!?」
羞恥心と怒りから思わず神術を込めて悠人を殴った時、ローラ・K・フォーマルハウトは改めて感じた。
――やはり彼のことはまだ好きになれないようだ、と。
――これは、人類の敵である少年と人類の救世主である少女の物語。
互いに争い合う宿命を背負った少年と少女が出逢い、惹かれ合い、そして殺し合うまでの物語。
第一章「黒き王の目醒め」 ――fin――




