恋に堕ち、愛に没れ
今話のサブタイトルの「没れ」の部分は「おぼれ」と読みます。
初見で読める方はほとんどいないと思うので……。
「カ、ナ……」
目の前に映る叶の姿が信じられず、悠人は呆然と声を漏らす。
赤く染まった瞳。今までは「悠くん」と呼んでいたはずの口から飛び出た「ユークリッド様」という呼称。どちらも真祖を前にした吸血鬼を証明する決定打となり得る。
が、悠人は目の前の現実を受け入れることができない。たとえ彼女の身体から、強大な吸血鬼の気配が色濃く匂っているのだとしても。
(……これはきっと、何かの間違いだ。きっと俺の勘違いだ……!)
そうだ。暗くて顔がよく見えず、瞳の色が赤に見えてしまっているのかもしれない。「ユークリッド様」という呼び方は彼女の気まぐれなのかもしれない。強大な吸血鬼の気配は四使徒のそれと誤認しているからなのかもしれない――。
だから、叶は人間のまま……ままの、はず。
(……確か、普通の人間なら鏡にきちんと映る。だからカナのことを鏡越しに見れば……!)
縋るように、悠人は携帯電話のカバーの中に仕込んでいた鏡を叶に向ける。
闇夜の中ではよく見えないが、そうすればきっと、叶の姿が普通に鏡に映る。そして目の前の彼女が人間だと証明できる。
そう信じて、悠人は鏡の中を見て、
「――っ!!」
絶句した。
叶の姿は、鏡の中に映っていない。
暗闇のせいで上手く映っていないだけではないか、とも一度は考えた。
だが、仮にそうなのだとしたら、叶の背後に聳え立つ廃墟のモーテルの全貌が鮮明に映り込んでいるのはおかしいではないか。目の前の少女が闇に紛れて見えないのならば、彼女の背景も闇に紛れて見えなくなるのが当たり前なのだから。
だから、つまり、
(カナは、本当に、吸血鬼に……!)
愕然と顔を凍り付かせる悠人。
そんな彼の耳に、叶のものとは違う底抜けに明るい少女の声が打ち込まれた。
「あははっ、ようやくお気付きになったみたいですねぇ?」
子供らしくやや舌足らずな声、小馬鹿にしたようでありながらも丁寧さは欠けていない敬語。それらを聞き取っただけで、悠人は発現主が誰なのかを瞬時に察した。
「……フォルトゥナ」
「流石に元配下のことは今でもお覚えでしたか。嬉しいなあ」
弾むような返答と共に、声の主は瞬時に姿を現し、叶の隣に寄り添うように並び立った。
見た目ばかりは、ようやっと十歳を超えたばかりに見える、顔の整った幼女である。道化師のようにチグハグで派手な衣装に身を包み、やたらと装飾が盛られたシルクハットを目深に被っていた。
だが、悠人は知っている。
見た目ばかりは可愛らしく可憐な幼女である彼女は……
……否、彼は、
(相変わらず、あんな女みたいな恰好してるのか、アイツは……)
全ての吸血鬼を統べる真祖であるだけに、悠人は眼前の幼女の姿をした眷属の一人の最大の秘め事を知っていた。
フォルトゥナ・リートが実は少女では無く、少年であるという事実を。
(……まあ、アイツの目の前でそんなこと口にしたら、真祖であれど容赦無く首を絞められかねないけど)
軽蔑と呆れを視線に込めながら、もう一度悠人はフォルトゥナを見遣る。
少女めいた顔立ちをしており、常に女物の服を纏う彼は、よく目を凝らしたとしても女性にしか見えない。が、彼が履いている赤いスカートの下には、立派とは言えないが男であることを象徴する一物がきちんと隠されている。
だが、実の性別についての話題はフォルトゥナにとって最大の禁句。僅かでも口にしてしまえば最後、周囲の被害も省みないほどに暴発することなど目に見えている。
故に、極力被害を拡大させないためにも、悠人はそれを口にしなかった。
そもそもの話、別の大問題が立ちはだかっている今、彼の性別について触れる暇などあるはずも無い。
思考を切り替え、今度は殺気立った視線をフォルトゥナに送り、悠人は彼に難詰した。
「答えろ。お前、カナに何をした?」
「何を? そんなの見たら分かるじゃないですか」
フォルトゥナは開き直ったように笑っている。まるで「何か悪いことしたんですか?」とでも言いそうな反応だ。
「フォルはカナのことを吸血鬼にしたんです。だって、カナがそう望んだんですから」
「は……!? カナはお前のせいで血やオカルトがトラウマになってるんだぞ!? 張本人を前にしてそんなこと、ある訳が無いだろうが!!」
フォルトゥナと四百年ぶりに邂逅し、ようやく思い出す。
五年前に自分たちの目の前で残忍な殺人を犯し、叶に多大なトラウマを与えた者の正体は、紛れも無く目の前の彼であったと。
ただでさえオカルトを精神的に忌避している叶が、ましてや自身のトラウマの原因になった者の前で、自ら進んで吸血鬼の仲間入りなどするはずが無い。
そう信じて声を荒げた悠人だったが……。
「だよね? カナ」
「うん」
フォルトゥナの呼び掛けに、叶は自らの意思で頷いていた。
そこに、躊躇いや後悔は感じられない。そんな彼女が、悠人のことをより愕然に誘った。
「誤解しないで、ユークリッド様。これは洗脳されている訳でも脅されている訳でも無い。全部あたしが『これが正しい』って信じて選んだことなんだ」
「何考えてるんだよ!? コイツはお前に癒えない心の傷を与えた張本人だろ!? なのにどうして、お前はコイツの奴隷になることを選んで――」
「え? カナはフォルの配下じゃないですよ?」
横から口を挟んだフォルトゥナが小首を傾げたことが、さらに悠人の混乱を誘った。
「何だと……!? じゃあ、誰の……!?」
「これを見たら自然と察するんじゃないですか?」
悪辣な笑みを浮かべながら、フォルトゥナは懐から薬瓶と思わしき小さな容器を取り出す。中身はほとんど空だったが、僅かに残る紅の液体が、瓶の内側を薄く着色していた。
一瞬、悠人はその瓶が一体何を指しているのかが分からなかった。が、注視しているうちに、それの正体を勝手に思い出していく。
「何で、それを、お前が持ってるんだ……!? だって、それは……」
「そう、ユークリッド様の血液ですよ。仮に何からの故意過失によって四使徒が欠けた時、新たな人員を四使徒として世襲させるためのね」
四百年前の話だ。ユークリッドは四使徒筆頭のカインに「万が一真祖の眷属が欠けた場合は、これを見込みがありそうな人間に飲ませ、新たな真祖の眷属にしろ」と命じ、この自分の血液を託していた。
だから、自分の血液が今でも瓶に入ったまま現存していたのだとしても、普通それは託されたカイン自身が厳重に保管しているはず。同じ四使徒とはいえ、第三者のフォルトゥナが持っている訳が無い。
なのにどうして、ありえないはずの出来事が起こっているのだろうか。
「このユークリッド様の血を紅茶の中にほんのちょっと混ぜて、普通の飲み物としてカナに少しずつ飲ませたらあらびっくり、知らぬ間にカナも吸血鬼って訳ですよ。上手く馴染むかどうかは不安でしたが」
「そんなことは聞いてない! 俺の血液って、本当ならカインが今でも持ってるはずだろ!?」
「単純な話ですよ? カインに代わってラリッサの穴埋めを引き受けた、ただこれだけです」
「――っ!」
バラバラに散らばっていた謎が、一つに繋がった。
フォルトゥナがユークリッドの血を持っていたのは、本来はカインが行う予定だった新たな四使徒探しを彼自身が引き受けたから。
フォルトゥナと叶が一緒にいるのは、フォルトゥナかカインが新たな四使徒として彼女に目を付け、その上で吸血鬼に変貌させたから。
それらを加味すれば、叶がどの吸血鬼の眷属になったかなど、簡単に分かってしまう。
「カナ……まさか、お前が新しい四使徒だっていうのか……!?」
ここに来て初めて、叶が薄く微笑んだ。
「その通り」――そう言うかのように。
「ユークリッド様は今まであたしの英雄でいてくれた。何の力も持たない、こんな弱いあたしに必死に寄り添おうとしてくれた。……でも、いつまでもそんな立場にいる訳にはいかないって思ったから、だからあたしは四使徒になることを決めたんだよ」
「でも、だからといって奴らと同じように成り下がる必要は無いだろ……!? 人間のままでも強くなる方法なんていくらでもあるのに……!」
「それじゃあ駄目なんだよ。この怪物の力を手に入れなきゃ、あたしはローラちゃんのようにユークリッド様の隣に並び立つ資格を得られないから」
叶は人間のままでもいいのだと、吸血鬼になる必要は無いのだと、悠人は必死に説くも無駄。彼女は首を横に振って否定した。
「あたしはずっと、ユークリッド様のことが……悠くんのことが好きだった。だけど、想いは届かなかった。あたし以上に何でもできて、あたしには無い特別な力を持っている聖女のローラちゃんが、本当は敵同士なはずの悠くんと共に戦っているうちに、悠くんの心を射止めちゃったからね。それって、あたしは何もできないし知らないお荷物だったから、悠くんの心が離れちゃったってことなんだよね」
「違う、カナ……俺はそんなこと考えたこと無い……!」
「嘘は言わなくてもいいよ。きっと悠くんはあたしのことを傷付けたくないからそう言っているんだとは思うけど、本当は心の底ではそう思っているんだろうなって分かるから。そうじゃなきゃ、ずっと悠くんのことを『好き』って思っていたあたしのことを差し置いて、ぽっと出のローラちゃんのことを好きになんかならないもん」
「な……!?」
叶の言い分は、以前「ローラが好きだ」と正直に打ち明けた際と矛盾している。
『……そっか、だいたいそうなんじゃないかって思ってたよ』
『でもね、悠くんが自分の本当の想いをはっきりと言ってくれて、あたしはすごく嬉しかった。悠くんはいつも人の顔色ばかり気にして、自分の本音を隠す悪い癖があったから。本当の悠くんを知ることができて、本当によかった……』
『だけど、仮に悠くんがそう思っているのだとしても、あたしは諦めた訳じゃないからね。いつか悠くんの気が変わって、あたしのことをただの幼馴染……ううん、護るべき対象以上の存在に想ってくれる日が来るように、あたしも頑張るから!』
悠人への想いは曲げずとも、そう言って悠人がローラのことを愛することを素直に祝福していた彼女は、一体何処へ消えたのだろうか?
「お前、おかしいんじゃないのか……!? 前にお前にローラの方を選んだことを伝えた時は素直に認めてたはずだろ……!?」
「ごめんね。悠くんが思っている以上に、あたしは嫉妬深くて諦めが悪い性格なんだ。それに――」
それまでは小さく笑いつつ語っていた叶の表情が、再び無に戻る。
そして、悠人の目をまっすぐ見据え、感情を凍り付かせた状態で言い放った。
「――悠くんのことを殺すために日本にやって来て、悠くんが真祖の本性を見せたら即座に殺そうと考えている女の子が、標的のはずの男の子と恋人同士になるだなんて、とても怖いし赦せないことだから」
「……!」
叶が吸血鬼に堕ちた最大の理由を察し、悠人は言葉を失った。
悠人が吸血鬼の真祖であることを聞かされたのならば、当然吸血鬼の天敵であるローラの正体も聞かされているはず。それに伴い、本来二人は殺し合わなければいけない運命にあるということも聞かされているはずだ。
そのことを知ったが故に、恋に敗れた今でも悠人を愛してしまった叶は、つい考えてしまったのだろう。
「本来敵対し合わねばならない二人は、今は互いに愛し合っている関係だが、いずれその絆は『殺し合い』という形で壊れてしまう」と。
「あたしは悠くんに死んでもらいたくない。あたしよりも先に悠くんに死んでほしくない。だから、いつか来るだろう最悪の未来を避けるためには、こうするしかなかった。悠くんの傍に寄り添うことが許される存在であってローラちゃんに対抗する存在に……『四使徒』になるしかなかったんだよ」
こちらを想うあまりに歪んでしまった幼馴染の覚悟を見せ付けられ、もはや閉口することしかできない。
もうやめてくれ。そう悠人は無意識に思ったが、この悪夢は終わらない。
むしろ、これ見よがしに吸血鬼たちはさらなる一手に出た。
「でも、あたしが四使徒になったとしても、悠くんは……ユークリッド様はあたしたちの元へは戻ってはくれないんだよね。それでもユークリッド様は、ローラちゃんのことを愛そうとするんだよね」
「ま、待て……」
「待てないよ。このまま彼女と一緒にいたら、近い将来ユークリッド様は確実に死んじゃう。そんなの、あたしにはとても耐えられないもん」
悠人の制止の声を振り切り、叶は一歩足を前に踏み出してくる。彼女に合わせ、傍らのフォルトゥナもまたこちらに迫ってきた。
「だから、ユークリッド様がそれでもローラちゃんを選ぶと言うのなら、あたしは新しい四使徒の一人として実力行使に出るよ」
「だってさ。だから大人しく殺られて拉致られてくださいな。そうすればユークリッド様のお考えも変わるでしょう?」
それらの言葉を皮切りとして、二人の吸血鬼は立ち竦む悠人に向け攻撃を仕掛けてきた。




