優しさという名の毒
「……なあ、改めて聞いてもいいか?」
夕食の時間が終わり、風呂などを一通り済ませた後、悠人は自室で改めてローラに口火を切った。
「お前は俺の両親に『自分はドイツの名家から来た留学生』だかなんだって説明したんだろうが……あれ、絶対に嘘だろ」
「ほう、何故そう考えたのか聴かせてもらおうか」
「名家の出身がこんな地方都市の中流家庭に滞在するのは奇妙すぎる。普通だったら同じ名家……例えばこの近辺だったら冷泉院家とか、そっちに留まる方が道理に合っているからな」
冷泉院家とは、この夜戸市の中ではある意味市長以上の権力を持っていると言っても過言ではない一族の名前である。実は悠人の通っている私立冷泉学園高校も、その冷泉院家の現当主によって運営されていたりするのだ。
それはさておき、悠人に凄まれたローラは、母親から貰ったらしいホットミルクを飲みながら、至って涼しげな態度でこう答えたのだった。
「貴様の推理が正しいのは事実。私は偵察や監視の任務を請け負っている最中は、便宜上『ドイツの政府高官の娘』という肩書きを使用している。対吸血鬼討滅組織マリーエンキント教団の存在は公には秘匿にしなければならない、という戒律があるからだ」
「ふーん……。ってことは、お前ってドイツ人?」
そう尋ねてみたところ、何故かローラの返答の歯切れが悪くなった。
「……否、違う。私は本来、ドイツ出身ではなく東欧のとある小国の出身だった……らしい。ドイツ国籍にしてあるのは、マリーエンキント教団の拠点がドイツのアーヘンにあるからだ」
「『出身だったらしい』って何なんだよ。まさかとは思うけどお前、実は孤児じゃ――」
「その件には触れるな」
ローラの出自に関わる問いは、当人によって撥ね返される。
彼女の先ほどまでの涼しげな態度は僅かに綻び、静かな激昂と恐怖を目元と口元に湛えていた。
(あれ、これって言ったら駄目な内容だったのか……?)
肩を小刻みに震わせこちらを睨むローラの反応から察する。どうやら彼女の生い立ちは、他人には想像も付かないほど過酷なものらしい。
これ以上深入りしても得るものは何も無く、むしろローラの怒りを買い面倒なことになると判断した悠人は、「これ以上詮索するな」という意思を示すローラに首肯し、新たな話題を持ち掛ける。
「まあ、お前の生い立ちがどうとかは置いといて。お前が俺の家に居候を決めたのって、やっぱり隙あらば俺を殺すためなんだろ?」
「そうだ」
今度は即答だった。
「先日は真祖の能力と残虐性が本格的に覚醒する一歩寸前だったものの、私の介入によりそれは未遂に終わった。が、貴様の吸血鬼としての羽化はまだ終わってなどいない。いつまたゼヘル・エデルの介添により羽化が再開し民間人を犠牲にするか分からん。故に私はそれを未然に防ぐべく、機会があれば貴様を暗殺するつもりだ」
その長ったらしい答弁の後、ローラは凍て付くような視線をこちらに向け、
「……まだ覚醒しなくて本当によかったな。仮に私が介入していなければ貴様の幼馴染は血を抜き取られたまま見殺しにされていたぞ。処置を施す猶予も無しにな」
「……っ」
責め立てるような声音と視線に、悠人は思わず身を竦ませる。
同時にあの時の血色を失った状態の叶と彼女の血を満面の笑みで味わう自分をまたもや思い出し、激しい恐怖心と嫌悪感に駆られた。
だが、戦慄と後悔に心身を蝕まれる中で、一つ気付いたことがある。
「あのさ、俺……こんなことをお前に言えるような立場の存在じゃないと思うけど、これだけはどうしても伝えたい。いいか?」
「何だね? 命乞いだけは受け入れんぞ」
こちらを責める視線のまま怪訝そうに訊いてくるローラに、悠人は逡巡しつつも言った。
「これは俺の憶測でしかないけど、カナの傷ってお前が治してくれたんだよな」
「何だ、大真面目な顔をして言いたいのはその程度ことか。確かに、そのカナという名の少女の傷を癒したのは私だが」
叶の傷が痕一つ残さず完治した理由を知ることができ、悠人はほっと胸を撫で下ろす。
目の前の聖女が幼馴染を救ってくれたのかもしれない――ゼヘルとの戦いの時に目にした常軌を逸するローラの力、彼女が口にした『処置』という言葉から、悠人はそう仮定していた。
派手に斬られ血が噴出したのにも関わらず、その傷が何事も無かったかのようになっていたということは、何かしらの奇跡が働いたということ。その奇跡の力は、神に愛された聖女であるローラなら容易く扱えるだろうと踏んだまでのことだ。
その仮定を踏まえた上で、得られた答えは概ね予想通りのもので。
「彼女は貴様ら吸血鬼とは異なる存在、禍々しい力を一切持たぬか弱き一般人だ。神の奇蹟によって命を救う義理は充分にある」
「そうか……その答えが聴けてよかったよ」
だが、今まではあくまでも前置きの話。本題はここからだ。
無意識に口角を緩く吊り上げ、小さく笑う悠人。
「カナを生かしてくれて、ありがとな」
そう言った瞬間、ローラは目を大きく見開いた。
「……訳が分からん。何故貴様が礼を言うのかね?」
「当たり前だろ。カナは俺の大切な幼馴染だし」
「……」
ローラが重々しく口を閉ざす。その原因となったものについては何処からも語られなかったが、悠人には理由が何となく分かってしまった。
(こいつ、まさか……)
漠然と確信したのも束の間、まるで重圧に耐え切れなくなったかのように、ローラは立ち上がり部屋を出ていく。
「おい、ローラ……」
「風呂に入ってくる。決して邪魔をするな」
悠人に返答を隙を一切与えることなしに、ローラは流れるような所作で階段を降りていった。
「……」
部屋に一人残された悠人は、つい数分前のローラの異変に関して思考を巡らせる。
ローラの様子に異変が現れたのは、悠人が感謝を口にした瞬間からだ。
最初は宿敵に感謝されたことに対する嫌悪感が限界を迎えたのかと考えたが……
(……違う。ローラからはそういった感情が自然な形で存在してなかったんだ)
おそらく彼女の人生は何者かにかなり強い力で拘束された窮屈なものだったのではないか。先ほど語られた生い立ちの話を含め、悠人はそう仮定した。
そうでなければ、礼を言われた瞬間に怯えを見せるなんてこと、ある訳が無い。
******
「全く、何なのだね彼は!!」
暁美家の浴室で、ローラ・K・フォーマルハウトは苛立ちを露わにしていた。
これといった娯楽が存在しない場所で育った彼女にとって、入浴は数少ない貴重な癒しの時間だった。
にも関わらず、現在は心の靄が晴れずにいる。これでは癒されるどころではない。
その原因となっているのは、確実に――
「彼は分かっているのか!? 私が真祖を討つために来訪した宿敵だということを!!」
――暁美悠人……否、ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム。ずっと誅することを待ち望んでいた彼自身に他ならない。
当然だが、ローラはユークリッドの全盛期である四百年前から生きてなどいない。が、彼が敵味方関係無しに冷酷非道・傲岸不遜な態度を振り撒いていたことは、教団に属する者の基礎知識として頭に叩き込んでいたため、充分に存じていた。
なのに四日前に邂逅したばかりのユークリッドは全盛期の記憶を全くといっていいほど持っていない。欠落した酷薄さと傲慢さの代わりにすげ替えられているのは、いかにも人間臭い温情と平穏への執着。かつての血みどろの狂王はもはや見る陰もない。
(……奴はあまりにも腑抜けている)
四百年の時を経て蘇ったユークリッドの現在の体たらくに、彼の宿敵としての役目を胸に生きていたローラは完全に失望していた。
否、ただ腑抜けているだけならばまだいい。何せ彼からはユークリッドとして生きていた頃の記憶がほとんど抜け落ちているのだから、いきなり「吸血鬼の真祖として過去のように暴虐に振る舞え」といったことができないのも無理は無い。
真祖に対するローラの失望に追い討ちをかけた決定的要因は、それ以上の点にあったのだ。
『カナを生かしてくれて、ありがとな』
現在のユークリッドは、あまりにも優しすぎる。
そのことが、吸血鬼に対しての甘えを一切切り捨ててきたローラの心を急速に苦しめていた。
「……何故だ……?」
湯の中に顔を浸し、苦し紛れの言葉を吐く。
「何故こんなにも……私は悶えている……?」
自問自答するものの、答えは自ずと分かっている。
無辜の民に対する慈悲はともかく、クルースニクとして敵味方自己他者関係無しに冷静に冷酷に接してきたローラにとって、『優しさ』というものは自分の甘えに等しい存在であった。何の感情にも揺れ動かず人間を救済するといった聖女としての指名を負った彼女にとって、甘さと同意義の優しさは致死量の猛毒に等しい。
故に仲間でも何でもない者、それならまだしも倒さなければならない世界の敵から感謝と温情を告げられたことは、彼女にとってこの上ない屈辱だった。
そしてその屈辱は今、ローラの心で別の感情へと変化を遂げている。
神の名に誓って聖と善のために戦う結社を装いながら実情は聖も善もそこに存在しないくらい腐敗している組織で、『聖女』として一方的に崇められていたローラにとって――
――その純粋すぎる優しさは、あまりにも眩しくて、痛い。




