19
行き先を告げる私に、運転手は心配そうな視線をミラー越しに飛ばしてくれた。
「だ、だいっ、大丈夫、です……」
嗚咽の止まらない女性客をさぞかし不審に思っただろう。
だけど、話し掛けては来ない。
我妻さんが選んだ店は、私の住む街にだいぶ近かった。だからタクシーに乗るのも四十分くらいで済む筈だ。
もしかしたら、どこから来ているかを我妻さんは聞いていたのかも知れない。
――そんなこと、ある訳ない。
そうだ、そんな気の回る人じゃない。意地悪で最低で、酷くて。そうでも思わないと、やってられない。
「うわああああんー!」
「おおお客さんっ?」
「なっ、何でも、ないです!すみませ」
ぼろぼろと流れる涙が止まらない。
私が悪い。油断をしたからいけなかった。
そんな対象には入っていないと思い込んだからいけなかった。食事に誘われた時にやっぱりハッキリ断るべきだった。
こんなんじゃ、こんな私じゃ、
「葉山さんに会えないぃぃ……」
絶対に嫌われる。
噎び泣く私をタクシーの運転手はつくまでずっと放って置いてくれた。
降りる寸前、鼻水を啜る私に
「元気出してな、明日はきっと良い事あるからな!」
と励ましの言葉をくれた。
前田さんのマンションは階数が少ないからかエレベーターが設置されていない。階段を登り、二階の一番奥の部屋に鍵を差し込む。
表札の裏側に入れていたというスペアキーを前田さんから渡されていた。
「おっかえ、……どした?」
おかえり、という前に、前田さんは私の酷い顔を見て、ぎゅうっと豊満な胸元に引き寄せてくれる。
「ただいま帰りました……」
「うん、そうね。おかえりなさい」
ぐずぐずと鼻を啜って、前田さんの身体に腕を回す。
温もりが優しくて、ふわりと香った甘い匂いが前田さんのいつもの香りで。
「ううう……」
「うんうん、何かあったわね。おいで、梶川と芹澤居るから」
「……」
「あら、嫌だった?じゃあ帰らせよう」
簡単にそう口にする前田さんに驚いて、つい涙が引っ込んでしまった。
「おかえり、美月」
その声にまた涙が滲む。
「……はや、」
「はや?」
「葉山さん……」
「あらま」
前田さんの笑い声を聞きながら、芹澤さんに縋り付くような目を送る。
「……よし。――美月、おかえり」
「葉山さん……!」
「腹は減ったか?」
「葉山さん……!」
「よく頑張ったな」
「ううう……葉山さん」
「今日は添い寝をしてや…いたいいたい」
「調子乗りすぎよ、芹澤くん」
芹澤さんの首根っこを掴むように襟を引っ張った前田さんは、ずるずると芹澤さんをリビングに連れていった。
入れ違いで顔を出した梶川さんが、座り込んでいた私に手を差し伸べる。
「お疲れ様、佐藤ちゃん」
梶川さんのにっこり笑った顔が葉山さんの仏頂面と被る。
「はやまさん……」
「重症っ!前田さん、重症だ!」
「分かってるわよ。連れて来なさい」
梶川さんに腕を引かれリビングに入ると、あちらこちらにチューハイの缶が転がっていた。
「飲んだのは芹澤とあたしだけよ。梶川は帰るから安心して」
「俺は明日休みだから泊まるけど、廊下で寝るよ」
聞く前に説明されたそれに頷きながら、シャギーマットの上に腰を下ろす。
前田さんは冷蔵庫から紙パックのりんごジュースを取り出して、私の前に差し出した。
「ありがとうございます……」
軽く頭を下げてお礼を言うと梶川さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「目も鼻も赤いね。長く泣いた?」
「はい……」
「タオル冷やして持ってくる」
「あ、芹澤くん、タオルは引き出し二段目だから」
「うん、知ってる」
芹澤さんは、葉山さんの自宅に居る時みたいに機敏に動いて浴室に向かった。
程無くして戻って来ると濡れたタオルに保冷剤を挟み、にゅっと私に渡してくれる。
「あの、なんか、……すみません」
「別に。美月にする事はあんまり苦じゃない」
「ついしてあげたくなるのよねー!」
「そうそう!……で、佐藤ちゃん。なんかあった?言いにくい?」
梶川さんの問い掛けは穏やかで、決して無理強いしないものだ。
びっくりしたのとショックだったので、自分でもあまり整理が出来ていない。ただ、やっぱり油断していたと、そればかりが浮かんでくる。
「……ちょっと、いっぱいいっぱいになってしまって、何だか、整理がつかないんです」
「ゆっくりで良いよ。もし話したくなかったら話さなくても大丈夫」
「ど、」
「うん。
「どうしよう……」
改めて思い出して、サァッと血の気が引いていく。
とんでもない事をした。今更ながらに、私は最低な事をした。
「浮気、しました。私……浮気を、したんです。はや、葉山さんがいいいるのに」
「うん落ち着こうね」
すかさず芹澤さんはそう言って、前田さんは私の隣に座り、背中をゆっくりと撫でてくれた。
説明が全て終わったのはもう二時半を迎えようとしている頃で、その時には私は完全に事態を把握出来ていて顔色が真っ白になっていた。
「うーん……。油断?それは油断が原因なのかな?避けるのは無理じゃ……」
「馬鹿ね、梶川。佐藤さんは食事の誘いを受けてしまった事が油断だって思ってるのよ」
「佐藤さんモテるんだね。思ったよりライバル多いな」
「芹澤さんは崎山さんが好きなんじゃ無いんですか……」
「顔色悪っ!前田さん毛布!毛布がいるって!」
ブランケットを持って来てくれた前田さんはううん……と唸りながら、私の方をゆっくり見つめる。
「でも、やっぱり……不可抗力じゃない?だって話をするだけだったのに向こうが後から条件を付け足したんだし。車から転がり落ちるなんて無理よ」
こうしていれば、ああしていればと今更浮かんで来ても、もう全ては終わった後で、結果として私が他の人とキスをしたのは事実だ。
「何でだろうね」
芹澤さんは至極不思議そうに首を傾げた。
「普通、そんな状態になったらさ、彼氏と喧嘩になるな……って予想がつくけど」
ぴっと私を指差す芹澤さん。その指を叩いた前田さん。
「指差さない。でも言いたい事は分かるわよ。――佐藤さん見てると、その想像が出来ないのよね」
「こんな全力で土下座しそうな顔をしてたら、兄貴は責める気が湧いて来ない……に五千円賭ける」
しらっとした顔で芹澤さんは財布を取り出した。
梶川さんは苦笑いをしながら頷いていて、前田さんは長くて細い綺麗な指を頬に添える。
「そうねぇ。寧ろこれを無理やり理由にして手を出す、に次の飲み代賭けるわ」
「芹澤さんも前田さんも」
そんな冗談を言ってる場合じゃ……と、言いかけて
「俺は葉山さんが怒った振りして結婚に持ち込むに二千円。金欠なんで!」
味方の梶川さんまでも訳の分からない賭けに乗って思わず机に項垂れた。
「大丈夫よ、佐藤さん。それにしても、今日の葉山さん面白かったー!」
ぷしゅ、とプルタブを開けて新しいチューハイを一口飲んだ前田さんは、笑みを隠せないとばかりに大口を開けて笑いつつ両手を伸ばして後ろに倒れる。
「時間が経つにつれて携帯は触るわ控室は見るわ、休憩中にマンションに戻るわ……凄い慌ててたわね、あれは。顔は仏頂面だったけど」
「俺なんか何度問い詰められたか。ざまーみろ兄貴」
「芹澤さん恐い……。でも、チーフも然り気無く脅してましたね」
探してくれていた、と言うだけでじわじわ嬉しさが浮かんで来た。
けれど、それと同時に、背中が冷たくなる罪悪感もひっきりなしに襲い掛かって来る。
三人とも、気軽に大丈夫だと言うけれど、とてもそうは思えない。
怖い。葉山さんの反応も、何も考えていなかった隙のある自分も。
どうしてこんな事を引き起こしてしまったのか、と自責の念は躊躇いなく私の心を侵食する。
「……あれは、もし自分が逆の立場だったら、とか考えてるね」
「初だわー。キスくらいで悩んでじゃって。可愛い」
「葉山さんは逆手に取りそー……。佐藤さんが無茶言われないか心配だなぁ」
泣き疲れて眠ってしまった私を尻目に、三人は朝方まで語り合っていたらしい。




