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 着替え良し、洗面器良し、タオル良し。


 午前十時、葉山さんが帰宅してから約四時間半が過ぎた。


 熱は一分上がり一分下がりの繰り返しで停滞した為に、病院行きはまだ免れている。朝食にお粥を作ってはみたけれど、食べられるかどうかは分からない。


 シャワーを浴びて一旦着替え、葉山さんの身体を拭く為の一式を用意した私は、いざ行かんと気合いを入れて部屋に足を踏み出した。



「大丈夫ですか?」


 寝ているかも知れないと遠慮がちに声を掛けて聞いてみる。


 返答が無かったら出直すつもりだったけれど、葉山さんはうっすら目を開けてこっちを捉えた。


「大丈夫ですか、葉山さん」

「……ああ」

「それは良かったです。身体、気持ち悪くないですか?拭きますよ」

「……おまえは、」

「はい?」

「どっからそういう…看病のしかたを、覚えてくるんだ」


 何処からと言われても。看病の仕方なんてこういう感じ……という曖昧なやり方しか分からない。


 身体を拭くというのは最近ドラマで見て知ったけれど、基本的には風邪にはお粥と冷却シート、それから水枕。後はあったかくする事くらいしか思い付かない。


「……想像とドラマですかね。最近、テレビで見ました」

「覚えたてか」

「はい、まだ新鮮な記憶なので心配はいらないと思います」


 呼吸が荒く、ぜぇぜぇ言いながら言葉を発する葉山さんはやけに弱っていて、眉間の皺が普段の二倍以上に増えていた。


「葉山さん、身体起こしても大丈夫そうですか?」

「……ああ」

「じゃあいきます。ゆっくり……っと、すいませんちょっと力入れすぎました」


 力を入れすぎたせいで、がくっと前のめりになった葉山さんに謝りながら、洗面器のお湯にタオルを浸ける。


 葉山さんが着ているワイシャツのボタンはさっき外していたので、なるべく身体を揺らさないように気を付けながら脱がしていく。




「なにも、聞かないのか」

「タンクトップも脱がせますけど、いいですか」

「宮坂といたのは、きいただろう」

「はい、ばんざいして下さい」

「かえるのも、朝になって、」

「じゃあ拭きます。背中から」


 タオルを洗面器の上でぎゅっと絞り、水分を落とす。


 葉山さんの身体を揺らさない事を大前提に背中にタオルを当て、汗を掻いたであろう素肌をやんわりと拭く。



「――佐藤」

「何ですか」

「全く、きにならないか」

「……何でそんなこと聞くんですか」

「聞きたいからだろう」

「前、拭きますね」


 力を込めすぎず、弱すぎず。



 微妙に力加減を変えながら葉山さんの肌を拭き上げて、上半身は綺麗になったと一旦洗面器にタオルを戻す。


「……下半身は、」

「しなくていい」

「ですよね」


 本人から断られて良かったと安堵しつつ、用意した着替えのシャツを手にする。


 葉山さんは辛そうな顔をしている癖に私を見つめて離さない。


 首周りを持って頭から被せ、肩をやんわり上げて通す。


 あれ、着るのは本人にさせた方が良かったのか、と思ったけれど、もう終わった事だから気にしないようにした。



 洗面器を抱えて葉山さんに背中を向ける。顔は見ないまま、用件だけを告げて。



「お粥、食べられますか」

「……ああ」

「すぐに持ってきます」


 横になる前にさっと食べて貰おう。作ったばかりだけれど、身体を拭いていた間に良い感じに冷めてくれていたら良いなと思いながら部屋を出た。




「――聞くのが怖い、という」


 ぽつんと落とした独り言は静かなリビングで掻き消えて、お粥をトレイに乗せて薬味を小皿にいくつか盛る。



 考える事を放棄したら、いつでも楽になれるのだ。そうやってずる賢く生きて来たから、今回も知らない振りをして難しい事を避けようとする。


 私は案外図太い癖に変なところで臆病だ。



「入ります」


 一応ノックして部屋に入ると、葉山さんは携帯を手にしていた。私を一瞥して携帯を横に置き、口を開く。



「宮坂と付き合う事になった」



 葉山さんの報告は、嬉しそうでも悲しそうでもなく、ただ淡々としたものだった。


 ――昨日、何かあったから?


 聞けばいいのに聞かない私に、葉山さんは眉根を寄せる。



 サイドテーブルはキャスター付きで、こんな時とても便利だった。そこにお粥を乗せたトレイを置いて、努めて笑顔を作る。



「そうなんで……」

「――そう言ったら、お前はどう思う?」


 すか、と続く言葉は消えた。



 代わりにカッとなった私の手には蓮華が握られ、勢いのまま葉山さんに投げつける。


「からかって楽しいですか!」

「一応病人なんだが」

「関係ありません。私をからかって楽しいんですか葉山さん!」

「……いや、楽しくはない」

「じゃあ何で!」

「あまりにも反応がうすかったから、聞いてみたくなっただけだ」


 熱に浮かされ舌足らずな葉山さんは、私が投げた蓮華が見事にヒットして赤くなった額を擦りながら無表情に答えた。


「蓮華は頭にひびく」

「当たり前じゃないですか、投げたんですから」

「で、どう思った」

「……言いたくありません」


 ホッとした、なんて言ったら葉山さんはきっと笑う。


 表に出さなかった私の小さな不安と嫉妬は、まだ恋愛と言うにはもの足りないようなもので。


「携帯に、電話はしたか?」

「してません」

「電源が切れていたらしい。……宮坂がもっていた」

「……そうですか」

「家に帰ろうとしたら梶川から強引にのみに誘われてな」


 そこまで言って、葉山さんは眉間を押さえる。頭痛、とすぐに気が付いてサイドテーブルを引き寄せる。



「食べて、寝て下さい。話は良くなったら聞きます」

「聞かせてほしいか」

「そういう意地悪は元気がある時にお願いします。薬、お粥の横に置いてます」


 ミネラルウォーターもきちんとあるのを確認して、部屋を出た。投げた蓮華は葉山さんがちゃんと握っている。他に必要なものがあれば、寝た後にこっそり届けに行くつもりだ。


 パタンと背後で閉まったドアは、私と葉山さんを遮る。


 力が抜けてドアを背に座り込んだ私は思わず口許を押さえた。




 ――葉山さんを、好きになってる?



 じわじわと私の中で存在感を大きくしていっているような、侵食されるような感覚はちくりとした痛みと共にどきどきする甘さを孕んでいた。



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