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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➑雪月 834年?月?日~

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33/53

➑雪月 ―セツゲツ― ⑵

 陛下は一方的な房事の間、私を労わるような言葉は一切おかけになりません。むしろ、歯を食いしばっている私が気に食わないご様子でした。


 長夜が明け、それでもどうにか私は正気を保っていられました。

 (ばん)は何か手掛かりをつかんだのでしょうか。万と話がしたかったのですが、体がいうことを利きません。

 私は解放されてから死んだように眠りました。




 目覚めると、顔が涙で濡れていました。起きている時は堪えていても、眠っている時には心を締めつけることができないようです。


 昼になってようやく、私は金児の手を借り、身支度を整えました。繍衣の彩も私の冴えない顔色と新しく増えた痣とを取り繕うことはできませんが、致し方ありません。

 (へや)で焦れながら万を待っていると、やってきた宦官は別の者でした。


「淑妃様に申し上げます。後宮に入り込んでいた野犬を捕らえ、処分致しました。もう脅威はございません」


 そんなはずはありません。恵嬪を殺害したのは野犬ではないはずです。

 それは責任逃れのために宦官たちが用意した憐れな犬でしかなかったのでしょう。


「小火の件はどうなのです?」


 犬と同じように、誰かが責を負わされるのでしょうか。もし万の仕業だとしたら、万は誰かに罪を被せるのでしょうか。

 そういうことはしてほしくないと、こんな時でさえ思うのです。いえ、こんな時だからでしょうか。


 万は私が信じてもいい数少ない味方なのです。だからこそ、手段を選べないとしても他人を平気で陥れるような人物であってほしくはないのです。

 気を揉みながら尋ねた私に、その宦官は涼しい顔をして言いました。


「そちらはまだ調査中ですが、悪意を持ってのことではなく過失でしょう。そう何度も起こることではないと考えております」

「そうですか。そうであってほしいものですね」


 犯人探しが有耶無耶になればいいのですが、そうも行かないのでしょう。万には何か策があるのでしょうか。


 その宦官が下がると、しばらくして万が詩集を手にしてやってきました。詩集は私に頼まれて持ってきたという、私のもとを訪れる口実に過ぎません。


 ただ、万は私の顔や首に痣が増えていることを見て取ると、ほんの刹那、悲しそうに労り深い目をしました。人の苦痛を我が身に置き換えてしまうような優しさが万にはあるのかもしれません。


 だとするのなら、万は宦官には向いていないのです。今更それを言っても気の毒なばかりですが。


 そして、金児がいる間、万はわざと難解な詩の解釈ばかりを語り、金児が疲れて茶を淹れに行くと本題に入りました。


「人虎の証はお見えになりましたでしょうか?」

「あれは紛れもなく人のものでした」


 その答えを万は予測していたのかもしれません。落胆はないように感じられました。


「左様でござりますか。でしたら、奴才(わたくし)が探した虎皮はただの死したる獣でしかなかったのでしょう」


 虎皮は財宝ですから、幾人かは持っていたのでしょう。しかし、今となってはもう意味がありません。


「あれが虎妖にございますれば、宿主である陛下の玉体は損なわれておられないと考えてもよいのやもしれませぬ」


 ほっとしてよいのか、獣に憑かれていることを嘆くべきなのか、私は複雑な心持ちでございました。


「妖を祓うには方士様の御力が必要なのでしょうか?」

「ええ。けれどもここは後宮。こちらへ来て頂くのは難しいかと」


 神通力をお持ちの方士様ならば、陛下から虎妖を祓えるのだとしても、男性では後宮へは入れません。私は後宮の外へ出ることはできませんので、そうなると万に頼るよりないのです。

 しかし、万は苦悩の面持ちでした。


「方士様にお願いをすると、陛下が虎憑きであることが知れてしまいます。そうすると、退位を迫る動きが出るのは避けられません」

「退位だなんて、誰がそのようなことを――っ」


 陛下は御自ら親征までされて戦に勝利されました。民も陛下の御世であるからこそ安心して暮らせるのでございます。

 そのように功ばかりの陛下を退位に追い込もうとするなど、私には思いもよらないことでした。


「陛下は佞臣を厭われ、媚びる者はそばへお寄せになりませんでした。しかし、そうした者は執念深いのです。僅かにでもつけ入る隙がないものかと聖上の粗を探し、見つからなければ別の方面から働きかけてしまいます。つまり、別の――太子殿下や駙馬(ふば)様、どこか甘言に弱い御方を選び、(そそのか)すのです」


 皇太子である濤綴(とうてつ)様は、陛下の弟君でございます。御母堂は違いますが、年齢は三つしかお違いになりません。

 太子殿下には男児がお一人おられるそうで、御誕生のみぎりに陛下は盛大なお祝いをされておりました。


 後宮にいる私は殿下にお会いすることはございませんでしたが、陛下とは何かにつけて似ておられないというお噂は耳にしております。


 世辞に弱く、流言に耳を傾けておしまいになることもしばしば。

 けれど、陛下に男児がお生まれになれば、その御子が次期皇帝陛下にございます。

 余程近年に何かが起こらぬ限りは、異母弟の殿下が帝位に就かれることはないはずです。


 だからこそなのでしょうか。

 殿下は帝位を欲するがあまり、兄君を退けるように唆されたならばそれに流されると。


 平素の陛下でしたら、そのようなよからぬ企みは打ち破られたでしょう。

 しかし、今の陛下は虎に操られております。政も満足には行なえず、粗暴な行いが目立つことでしょう。


 一刻も早くもとの陛下にお戻り頂けねば、この国は大変なことになるのかもしれません。

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