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68話 シャノン


 カトネロは遺跡を飛び出し、しなびた森の中に駆け込んでいく。

 手負いとは思えないほど速かった。

 シャノンも全速力で後を追ったが、距離は縮まるばかりか離れていく一方だった。


 一度も振り返ることなくカトネロは水に飛び込んだ。

 足ヒレをつけ、シャノンもこれに続く。

 泳ぎでは水中装備を身につけた自分のほうが速いとタカをくくっていたが、その差が縮まることはなかった。


 カトネロは息継ぎすらせず、暗い迷宮へと入り込んでいく。

 その姿を見失っても、姉がどこに向かおうとしているのか、シャノンにはなんとなくわかった。

 双子ゆえのものだろう。


 シャノンは曲がりくねった迷宮を迷いなく泳ぎ、崩れた祭祀場のような場所に行き着いた。

 水面から顔を出すと、風を切る音がして暗器が飛んでくる。

 魔爪で弾き、祭壇の上に上がった。

 カトネロは影から生まれてきたような、おぼろげな存在感で闇の中にたたずんでいた。

 白い歯だけが異様に際立って見える。


「アヘヘ、なんでアンタがこんな地の底にいんのさ? さては、アチキを助けたイカした野郎、仮面の下はサグマ・カウッドだね。ただのボケかと思ったら、とんだバケモンじゃねぇか」


 竹馬の友に接するような、ともすれば、気を緩めてしまいそうになる声だった。


「つくづく、天職ってのは怖ぇーよなぁ。なあ、シャノアーレ」


 それは、『暗殺者』である姉にしても言えることだ。

 殺意を感じさせないばかりか、「暗殺」という行為すら認識させない暗殺術は天職者にのみ与えらる超常の力だ。


 今になって、後悔の念が浮かんできた。

 手負いとはいえ、この姉は手に負えるような相手ではない。

 一人で来たのは、殺されに来たようなものだったかもしれない。


「しかし、アチキとしたことがしくじったよ。あのデカブツ領主を殺り損ねちまった。使命を果たせなきゃアチキみたいな生まれながらのドクズに生きる意味なんざねえのになぁ」


「いいじゃないですか。使命なんて」


「……あァ?」


 カトネロの笑顔が崩れた。

 その生涯を国王ただ一人に捧げ、およそ「個」と言えるものを持たない彼女らにとって、使命こそが唯一の存在意義アイデンティティだ。

 使命というかりそめの生きがいを与えられ、閉ざされた狭い世界に生きる囚われの身。

 永遠に光を浴びることができない悲しき影。

 それが、『王の影』なのだ。


 シャノンは勝ち誇った目で姉を見下ろした。


「お姉様も恋をしてみればわかりますよ。愛を知れば変わるはずです。私みたいにニャ☆」


「……アヘヘ」


 カトネロは笑顔のまま、頬をぴくぴくと痙攣させた。

 そして、次の瞬間には目の前にいた。

 巨岩のような重みを両手が感じる。

 黒い双刃と灼熱の爪がいくつもの十字を描いていた。


「この出来損ないの妹にマウント取られる日が来るなんてねぇ。アチキにしちゃぁ珍しくトサカに来ちゃったよ」


 息つく間もない連撃がシャノンを襲った。

 漆黒の双刃が高熱で融解していく。

 カトネロは気にも留めず、擦りつけるようにして斬りつけてきた。

 火花が赤い吹雪となって顔に降りかかる。


「厄介な目だねぇ。パチリとでも瞬きしてくれりゃ、その瞬間に決着がつくのにさ」


「瞬きなんてもうずっとしていません。だって、サグマ様が一瞬見えなくなるじゃないですか」


 シャノンは斬りつけると見せかけて、爪を投擲した。

 放射状に広がりながら飛翔する10本の爪がカトネロの黒衣を引き裂いた。


「私、パーティーでは遊撃手なんです。射手シューターも兼ねているんですよ」


 何度でも生え変わる10本爪の投擲による飽和攻撃。

 これをさばききった者はこれまでいなかった。


「イカした攻撃だねぇ」


 ボン、と音がして急速に煙が拡散する。

 煙幕だ。

 視界は完全に失われたが、布が擦れるかすかな音とさらに小さな足音をシャノンの耳はたしかに捉えていた。


「無駄です、お姉様!」


 シャノンは煙の壁を突き抜け、赤々と輝く爪を横薙ぎに振るった。

 ギョッとした様子で後ろに跳んだカトネロを、薙刀のごとき長さにまで伸びた爪が追撃する。

 間合いを見誤ったカトネロが双剣を立てて受け太刀するが、それも狙い通りだ。


「受けましたね、お姉様!」


 赤い爪が白に塗り変わり、紫電をほとばしらせた。


「ガぐ……ぁッ」


 カトネロが苦悶の表情を見せた。

 しかし、すぐに笑顔になる。


「へえ、ちょっと見ない間にキテレツな戦い方をするようになったね」


「感心するのは早いのでは?」


 すべてを見切る目。

 ささいな異変も逃さぬ耳。

 息切れしないマスク。

 変幻自在の爪。

 姿勢制御を司る長い尾。

 気づけば、シャノンはカトネロを圧倒していた。

 あの才気あふれる姉を追い詰めていた。


(いける! サグマ様の魔道具があれば……!)


「今、いけるとか思っただろ?」


 カトネロがニッと笑った。


「双子だかんね、アチキにはアンタの心の機微が手に取るようにわかるよ。以心伝心だ。これが殺し合いにおいてどれほど怖いことかわかるだろ?」


「負け惜しみの御託です。くだらない」


「あっそ。じゃあ、訊くけどさ。アンタ、アチキを殺せんのかい?」


 カトネロは双剣を放り捨てた。

 ガラ空きになった胸にシャノンは爪を突き立てた。


 ……否。


 突き立てようとした。

 その爪は胸の前でピタリと止まっていた。


「な、なんで……」


「そりゃアレさ。姉妹愛ってヤツだね。アンタには覚悟がないんだよ。お姉ちゃんを殺す覚悟がね」


 肩に激痛が走った。

 カトネロが手を振り終えた姿で立っている。

 手刀だ。

 だが、今の一撃は認識できなかった。

 見えていたはずなのに。


「アヘヘ、アチキは『暗殺者』だからねぇ。殺そうとしたとき、つまり、殺意があるときが一番強くなんのさ」


 カトネロは赤く染まった指を舐めた。


「アチキにはあるよ、覚悟。アンタを殺しきるだけの殺意がね」


「覚悟なら私にもあります。お姉様がサグマ様を狙うというのであれば、私は絶対に許しません」


「違うんだなぁ。そいつは、理屈であって覚悟じゃない。真の『殺し屋』じゃないアンタには一生考えてもわかりゃしないよ」


 カトネロの動きが明らかに変わった。

 目で追える。

 しかし、認識が一歩遅れる。

 対応が後手に回る。

 あっという間に防戦一方だ。

 守りに徹してなお、手刀が、暗器が、皮膚を裂いていった。


「これが、お姉様の、本気……!」


「下がお留守だよ!」


 ジャカッ、とつま先から銀の刃が伸びた。

 下に意識が向いたわずかな隙に、カトネロが口に含んだ何かを噴きつけてきた。

 何も見えなくなる。

 おそらくは、黒色のインクだ。

 血のついた指を舐めるフリして、口に含んでいたらしい。


(大丈夫。まだ、耳に集中すれば――)


 そう思ったそのとき、頭上を風が通りすぎた。

 世界から音が消える。

 手を伸ばして頭を探るが、そこに猫の耳はなかった。


 目が見えず、耳も聞こえない。

 シャノンはいつの間にか真の闇の中にいた。

 急に両脚から力が抜けて、シャノンはへなへなとへたり込んだ。

 全身が寒気を訴えた。

 胸の中で心臓が狂ったように跳ね回っている。

 忘れていた何かが腹の底から、記憶の奥から湧き上がってきて、喉のあたりで爆発した。


(こわい……)


 シャノンは叫んだ。

 しかし、自分の声さえも聞こえなかった。

 恐怖が加速度的に膨張し、頭の中から思考を追い出す。

 もう立っているのか、倒れているのかもわからなかった。

 息ができないほど叫んでいるのに、それが聞こえないのがただただ怖かった。


「…………」


 そら見たことか、と姉が笑っている。

 なぜ、そう思うのだろう。

 双子だからわかってしまうのだろうか。


(……違う)


 目でも、耳でもない。

 もっと違う感覚で姉の笑い声を感じている気がする。

 匂いとも味とも違う、初めての感覚。

 シャノンはハッとした。


(……ひげ?)


 そうだ。

 ひげだ。

 猫のひげだ。

 口元に空気の振動と風の流れが感じられる。


 ひげを通して、真っ黒な世界にぼんやりとした輪郭が見えてきた。

 彼も言っていたではないか。

 慣れればひげだけで周囲の状況がわかるようになるはずだ、と。


 彼は目でも耳でもない、もうひとつの光をくれていたのだ。


 途端に体中に熱い血がめぐった。

 息を止め、ひげにすべての意識を傾ける。

 張り詰めた空気。

 刃のような風。

 凍りついた殺気。

 それらが目で見ているようにありありと伝わってきた。

 最後は双子の勘だった。


(お姉様なら……こうくる!)


 シャノンはありったけの魔力を込めた爪で迎え撃った。

 刃が重なり合い、火花が散るのがわかる。

 そして、姉の驚愕する顔もはっきりと見えた気がした。


 シャノンは地を蹴って身をひるがえらせた。

 渾身の力で尻尾の鞭を叩きつけた。


 たしかな、手応え――。


 骨の1、2本も折れたはずだ。

 だが、仕留めきれなかったのもわかった。

 同じ手が二度通じる相手ではない。

 カトネロは今度こそ完全に気配を絶ってトドメを刺しに来るだろう。

 こればかりは、もうどうしようもない。


 すべてを諦めかけたそのとき、空気が、地面が鳴動した。

 迷宮が震えている。

 何か大きな存在がここにやってきたのだと直感的に理解できた。

 それが、なんであるか、誰であるかもシャノンにはわかった。


 来てくれたのだ、……彼が。

 迷宮の壁をまとめてぶち抜き、ここへ。


 誰かが頭をそっとなでた。

 その優しい手の温もりだけは間違えることなどない。

 あの雨の日の王都で救われて以来、毎日感じていたものなのだから。


 ――サグマ様!!


 シャノンは飼い猫のように飛びついて、大好きな匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。

 もう何も怖くはなかった。


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