42話 シャノン
ぽつぽつと雨が降ってくる。
孤児院のひさしの下で真っ黒な空を見上げ、シャノンは目をつむった。
こうして闇の中にたたずんでいると暗殺者だった頃を思い出す。
『王の影』――。
ほんの2年前までシャノンは国王直下の暗殺者部隊に所属し、政敵を消す役目を担っていた。
最後の仕事は人身売買疑惑のある豪商の暗殺だった。
シャノンはわずかなミスから虜囚となり、激しい拷問にさらされた。
口を割らなかったがために目をえぐり取られ、耳を焼き潰された。
耐え難い苦痛の後に訪れたのは真の闇だった。
光も音もない世界。
感じ取れるのは体を打ち付ける冷ややかな雨粒だけだった。
やがて、温かな腕に抱き上げられた。
どうやら「誰か」に助けられたようだった。
「誰か」は用も一人では足せないシャノンを甲斐甲斐しく支え、汚れた体を拭き、食事を食べさせてくれた。
幼い頃から暗殺者として凄惨な環境で育てられたシャノンにとって、それは初めて受ける無償の愛情だった。
頭をなでてくれる優しい手の温もりだけが唯一の希望となった。
初めは教会かどこかに保護されたのだと思っていた。
しかし、シャノンを保護したのはどうやら「さ・ぐ・ま」という人物らしいことがわかった。
「サグマ」は手のひらに文字を1字ずつ書いてくれた。
だ・い・じ・よ・う・ぶ。
ま・た・み・え・る・よ・う・に・な・る。
およそ信じがたいことだった。
眼球そのものをえぐり出されたのだ。
神様でなければ、そんな奇跡を起こせるはずなどない。
しかし、シャノンはその言葉を信じることにした。
暗い暗い闇の中でただ信じて待ち続けた。
そして、無明の世界に光が射した。
初めて目にした「サグマ」は寄り目で舌を出し、鼻の穴を膨らませ、奇怪なポーズでダブルピースして何事か叫んでいた。
思えば、あのとき生まれて初めて笑ったかもしれない。
そして、感謝した。
目の下をクマで真っ黒にした彼に、神にも等しい奇跡を起こしてくれた彼に、心の底から感謝した。
耳を澄ませば穏やかな寝息が聞こえてくる。
この耳もまた、彼が与えてくれたものだ。
王都での過酷な日々から逃れ、彼はこの北方の地でようやく心穏やかに眠れる場所を手に入れたのだ。
その邪魔をする者は決して許さない。
それが、実の姉だとしてもだ。
猫型の耳がかすかな音を感じ取り、ぴくりと動いた。
降りしきる雨の中、子ねずみよりも小さな気配が迫ってくる。
シャノンは孤児院の石壁を蹴って軽やかに屋根の上に駆け上がった。
闇の中に亡霊のごとくたたずむ影と静かに対峙する。
「その息遣い、足音。やはり、お姉様だったのですね」
夜に溶け込む黒い髪。
日に焼けた浅黒い肌。
鋭く光る暗器のごとき双眸。
その顔はシャノンに瓜二つだった。
『暗殺者』の天職を持つ双子の姉、カトネロ。
顔を合わせるのは実に2年ぶりのことだった。
「アチキの気配に勘付くなんてね。腕を上げたんじゃないの? シャノアーレ」
「そんなことはありません」
事実、カトネロの放つ気配はサグマの魔道具なしには認識することすらできないほどに微弱なものだった。
こうして目にしている今でも瞬きすれば見失ってしまうほどの存在感しかない。
『暗殺者』の天職のなせる技であった。
「それと、その名は捨てました。今はシャノンと名乗っています」
「ケッ、んなこたぁどうでもいいよ。アンタ、なんで猫耳つけてんだ? 修道服なんて着ちゃってさ。無駄に似合ってんのが笑えるぜ」
「この耳のおかげでお姉様の存在に気づけたのですよ。朝方、サグマ様のすぐそばまで迫っていた気配もお姉様だったのでしょう?」
「サグマ『様』ねぇ。目と耳を潰されて使い物にならなくなったと聞いちゃいたが、姉を睨めるくらいには元気じゃねえか。その目も耳も魔道具なんだろ? アンタ、あのボケに救われて恩義を感じてるってわけだ」
シャノンは大きく頷いた。
「はい。サグマ様は私の神です。サグマ様のスロラを妨げるなら、お姉様とて容赦はしません」
「神? すろら? なんだか知らねえが、今夜はまあ下見だよ。アチキはアンタと違って用心深いんでね」
カトネロはともすれば警戒心を解いてしまいそうになる屈託のない笑顔を浮かべた。
「アヘヘ、アンタ、ちょっと見ないうちにずいぶんと腑抜けたツラになったねぇ。あのボケとイチャついてるところは見させてもらったぜ? 化粧なんかして色気づいちゃってさ。身も心もすっかり女じゃねえか」
顔がカーッと熱くなるのを感じた。
どこから見られていたのだろう。
寝息を立てる彼の頬に唇を押し付け、起こす前に小一時間ほど寝顔を眺めていた、そのすべてを見られていたのだとしたら。
感情を殺す訓練を受けた身としても、表情に出さないようにするのは至難の技だった。
カトネロは薄い腹を押さえて笑った。
「アヘヘ、最悪だよ。愚の骨頂だ。そんなザマじゃ使命を果たせねえ」
「お言葉ですが、お姉様。使命だけが人生じゃありません。私はサグマ様と出逢い、それを知りました」
「……人生?」
凄まじい殺気が突風のように吹き抜けた。
シャノンは胸を押さえて後ずさった。
心臓を貫く冷たい幻痛で呼吸と心拍が乱される。
「暗殺者は剣だろ。陛下の忠実なる刃だ。人じゃねえ。人じゃねえもんに人生も糞もあるかよ」
カトネロはまた笑った。
さきほどの殺気が嘘だったかのような、春のたんぽぽを思わせる微笑みだった。
「まあ、聞かなかったことにしておくぜ。『影』を抜けるなんて言うなよ? そいつぁ死ですらあがなえない重罪だかんな。アチキは帰って寝るとするよ。シャノアーレ、あのボケの首、持ってこいよ。二人で陛下の待つ王都に帰ろう。3日やる。よく考えな」
カトネロは背を向け、音もなく駆け出した。
その次の瞬間には、もう目と鼻の先にいた。
まとった黒衣の中から黒塗りの双刃が滑り出すのが、ひどくゆっくりと見えた。
シャノンは身につけた手袋に魔力を通した。
光る灼熱の爪が黒刃を受け止め、激しく火花を散らす。
岩をも焼き斬る魔力の爪。
これもまた、彼が作った魔道具だった。
「アチキの動きを見切るとはねぇ。その目、だいぶイカしてんね」
カトネロはクロスさせた双剣をガリガリとこすり合わせた。
「なあ、質問。なんでアチキの剣がノコギリみてえになってんだ? 黒龍の爪から削り出した業物だったのによ。その手袋もイカしてんよ。アンタみたいな無天職のボンクラをアチキと殺り合える域まで高めちまうんだからさ。でも、結局それだろ? あのボケが殺される理由は」
『王の影』――その中でも指折りの実力者であるカトネロが動いた。
それは、国王がサグマを確実に亡き者にしようとしていることを意味している。
彼が殺される理由。
それは、シャノンにも理解できる気がした。
魔道具を作れるという彼の能力は暗殺者向きだと感じることがあった。
それこそ、あの透明化ローブさえあれば、どれほど厳重な警備でも容易く突破できる。
どんなターゲットでも暗殺できるのだ。
国王でさえも毒牙から逃れることはできない。
国家というものは巨大な浮沈船のようでありながら、実のところ微妙なパワーバランスでかろうじて浮いているだけだ。
わずか数名の要人を始末するだけで均衡は崩壊し、キールが折れるように真っ二つになって沈んでいく。
実際、『影』の暗躍により幾多の領地や大商会が泡と消えるのをシャノンも目の当たりにしてきた。
『魔道具作家』であるサグマは、やりようによっては国崩しをもなし得る存在なのだ。
国益となるか、脅威となるか。
国王の判断は後者だったというわけだ。
「それによ、厄介なことにあのカウッド家の生き残りときた。事は国政にもかかわんだよ。殺ししか知らねえアチキと違ってアンタは教育ってやつを受けてんだ。その意味がわかんだろ? あのボケにはな、生きてちゃいけない理由が多すぎんだよ」
カトネロは双剣を納めると、夜の闇に溶けて消えた。
声だけがどこからともなく響いてくる。
「アンタはシャノアーレだ。よーく考えて答えを出しな。また目玉をくり抜かれたくなけりゃな」
どうやら、事態は想像以上に深刻らしい。
シャノンは瞬きしない目で闇を睨みつけた。
「お姉様、それでも、私はすべてをサグマ様に捧げると決めたのです」
叩きつけるような雨が真っ暗なベルトンヒルに轟々と重い音を響かせていた。




