30話目 犬申の仲 下
「犬爪・・・さん」
辛うじて彼女の名前を呟く事ができた。
唐突なことで他に言葉が出てこない。ただ疑問に思うのは、犬爪某は私をいつから待ち伏せしていたかということ。時刻はもうすぐ19時になろうとしていて、暗い影を落とす外気は肌寒い。
街灯に照らされた彼女は、輪郭がこの世界でひとつだけ浮き彫りになっているかのようで、幻想と空想という曖昧な言葉が当てはまるくらいに綺麗だった。
「こうして、ちゃんと話すのは、初めてだね」
乾きとは無縁に思える艶のある薄い唇を動かし、彼女は惹き付ける声を震わした。
その声に思わず聞き入り、少ししてから私の意識が戻ってきた。
「え、うん・・・そうね」
「話があるんだけど、時間大丈夫かな」
「べ、別にいいけど」
「それじゃ、ちょっと場所、移そっか」
着いてきてと犬爪某が告げ、そのまま駅を出る。てっきり駅構内のコンコースで立ち話をする程度だと思っていたけど、後を追ってたどり着いたのは駅前にある辺鄙な狭い公園だった。
公園には4人掛けのベンチがあったけど、彼女が腰を下ろしたのは2つあるブランコのうちのひとつだった。片方が空いていて、無言で隣に座るよう促された気がしたので大人しく従う。
周囲に人がないこの場所は、砂場もなければブランコ以外まともな遊具がないので、日中でも閑散としていて誰かと話すには都合がいい。それがあまり聞かれたくない内容なら尚さら。
互いにブランコを漕ぐ事もしないでただ薄暗い足元を見る。用件があって呼び出したはずの彼女は何も喋る気配がない。
そう思っていたけど、「聞いても良い?」と犬爪某が声を発し、沈黙の膜にヒビが入る。
「何を?」
「私と、東の事、どうして、何も聞かなかったか」
「聞かないも何も、そういう事でしょ」
そう言うと、彼女がふふっと笑った。その細切れに途切れる声は、本当に同性なのかと思っちゃうくらい妖艶に聞こえる。
「庚申さんって、思ったより、自意識過剰なんだ」
「・・・はっ?」
「ごめんね、悪く言うつもりはないんだけど、見当違いな事を考えていて、可笑しかったから」
「見当違いって、仲直りをして・・・その、関係をやり直すとか・・・」
「仲直り?やり直す?それが、さっきから、見当違いなんだよ」
さっきから犬爪某の喋り方は、ハッキリと物事を伝えるためか言葉の区切りを多めにしていた。確かラジオ部に所属しているので、その癖なにかもしれない。どっちにしろ、頭の中に刻み込まれる声に違いはない。
「どういう意味よ」
「私は別に、東と仲直りを、してあげるつもりは、なかったけど、アイツがしつこいから、相手をしてあげてるだけ」
犬爪某の台詞を聞いた途端、A子とB子のときとは比較にならないほどの真っ黒い気持ちが体中を駆け巡った。今、私キレていいと思うってかキレた。
「あのさ・・・さっきから何が言いたいわけ?」
「・・・逃げたでしょ」
彼女は少しの無言の後に呟く。
話の脈絡も主語もない言葉に、私から「え?」と変な声が洩れた。
「文化祭のミスコン、私が出るって、知ってたんだよね」
「それがどうかしたの」
「私に勝てないからって、エントリー、しなかったんでしょ」
「違うわよ、あれはクラスでくじで決めることになっただけ」
「どっちでも、同じことだよ。でも、庚申さんが意外と臆病で、拍子抜けしちゃった」
弾かれたように私は犬爪某の顔を見た。でも、公園の外灯の逆光で彼女の表情が窺えない。
無言で先を促すと、彼女は更に続けた。
「つっかかってくるなら、まだ奪いがいがあったんだけど、はじめから私と、張り合う気がないなんて、ガッカリ」
「それは・・・」
「やっぱり、逃げてるんでしょ?」
反論しようとしたけど、その後の言葉が摘まれたように出てこなかった。
彼女の言う通り私は逃げている。
同列に並んで優劣をつけられるのが怖くて仕方ない。
だって、何もかも完璧にこなす犬爪某の隣に並ぶなんて劣等感以外なにも生まれないじゃない。クラスのくじが決まった時だって心底ホッとしたし、酉水から出場を勧められた時だって心底嫌だった。
気がつけば、自分の小ささや弱さ不甲斐なさが幾つも折り重なって、先程の真っ黒い気持ちが無くなっていた。
「庚申さん次第では、あんな男またフッて、泣きつかせてあげようかと思ったけど、私のものにしちゃっていい?」
「・・・勝手にすれば。それに、アナタみたいな人を好きになるアイツにも落ち度があるんだし」
弱っている時にこそ自分を守るために、見栄や虚勢といった強がる言葉が出てきちゃう。それが逆効果を生み、相手に馬鹿にされる。きっと私は犬爪某に見下されているに違いない。それこそ、先程口にした「臆病」だって。
案の定彼女は「それなら、いいけど」と、笑った・・・気がした。
そしておもむろに立ち上がった彼女は、どんな表情をしているかわからないままこう口にした。
「一応3年間、東の面倒を見てくれた義理で言うね。ありがと、私の『理想の男』に育ててくれて」
そう言って、彼女は公園から立ち去っていった。
後を追う気力もなく、その場を動けずに犬爪某が座っていた微かに揺れているブランコを眺める。
悪い夢かと思った。まだ現実味がない。
でも、だんだんと私の中での犬爪某のイメージの相違が浮き彫りになっていく。
酉水と仲が良かったから、もっと柔らかい子だと思っていた。けど、全然違った。
こんな話を聞かせられて、あんな奴に酉水を任せられるはずがない。
でも、彼女を前にすると私では酉水を振り向かせられない。
振り向かせられない・・・・ああ、そうね、私はアイツが好き。
アイツが頼りなくて心配だから面倒をみているんじゃなく、ただ単に私が酉水から離れられなかっただけ。
知ってて認めるのが怖かった。
良い事も悪い事も含めて、今の都合が良く居心地も良い関係が崩れるのが怖かった。
そして何より、アイツに犬爪某と比較されるのが怖かった。
別れ際の彼女の言葉を思い出す。
"ありがと、私の『理想の男』に育ててくれて"
酉水の時と同様、やっぱり彼女の感謝の言葉にも毒が含まれていた。
「ありがとう」という言葉は、温かったりするし驚くほど冷たくて鋭くもある。
悔しい。腸が煮えくり返るほどに怒りに満ちている。でもその矛先は自分自身。
あれだけ発破をかけられておいて、すっかり牙を抜かれたように、今なお立ち向かおうとする気持ちが湧いてこないんだから。
お尻がブランコに糊で接着されているみたいに離れない。
風邪を引きそうなほど冷たい夜風が身体の中に染みる。
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