幕間 愛をからだに吹き込んで
今回は短くて明るい話。
冥界というものは、暗くて乾いている。
水も光も生命を育むものだから。アイリーンはそう納得していた。
アイリーン・クロックフォードは、時空蛇が、人間になりたくて創った現身である。
かつて、混沌を混ぜ合わせて世界を構成する一つ一つを拾上げた時空蛇は、『時』を呑み込んだことで予言の力に目覚め、そして命たちの終わりを見た。
そんな未来にふて寝した時空蛇を再び目覚めさせたのが、始祖の魔女と後に呼ばれることになる女たちだった。
『ねえ、わくわくする話をしてあげる。あなたはいずれ、人間と恋に落ちるのよ』
時空蛇は、一笑に付し、興味をそそられ、やがて本気になった。
それは知らない未来だ。そして知らない未来ということは、時空蛇にとって希望であった。
万事を知る時空蛇にわかったのは、未知への期待を抱いている自分自身の心の行く先だけ。
まるで信じられない。
だからこそ、興味を、衝動を持った。
――――これは説得されたのではない。説得されてやったのだ。
信憑性なんてまるでないのに、時空蛇は、その時期にあわせて人間の体をこさえて送り出した。
人間としてのアイリーンは、絶世の美女ではない。
手足は長いが胸はささやかだし、尻は小さい。鼻は細くて高く、唇は薄い。当世に流行している『美女』の要素からはやや外れている。
その造形に込めた気持ちは、恋をしに行くというより、戦準備をするようなもの。
色気を削ぎ落としてもなお、魅力的に振舞えるだろう。なぜなら自分は時空蛇だから、という自尊心も込めた形。
男か女か。二分の一の確率だった。
出会った少年にまんまとアイリーンは恋に落ち、(なんで自分の造形はこんなに色気が無いのか)と、ふつうの人間のように過去を悔んだりもした。甘い懊悩を共有すれば、彼は「アイリさんもそういうことを考えるんだね」と、嬉しそうに笑った。彼はアイリーンの『人間らしさ』を引き出し、それを拾い上げては照れくさそうに喜んだ。
その『人間らしさ』は、おそらく人が愛と呼ぶものでできている。その愛を使って子供たちを育てることができた。
愛するが故の悲しみも、たしかにあった。
けれど後悔はしていない自分を、誇ることができている。
そして、そんな「あるはずが無かった未来」を見て、時空蛇は思ったものだ。
……ああ、なんてこの世界は面白いのだろう、と。
冥界というものは、暗くて乾いている。そして孤独だった。
ここには魂を平等に振り分けるための秩序しかない。亡霊たちは欲と財産を剥ぎ取られ、循環していく。
恋も欲望も、生命を育むものだから。
アイリーンは蓋をされたような闇を見上げて、岩場に座り、膝を胸に引き寄せた。
吐く吐息ばかりが白い。羽織っている猪の毛皮は、ずっしりと重いが暖かかった。
猪の遺骸に宿る地上の名残りを熱にして、甘受しながら、アイリーンは祈る。
まるでただの人間の親のように、子供たちの未来を祈る。
すっかり馴染みとなった伝令神が言った。
「……地上へ帰らぬのですか? 生者にこの冥界は堪えましょうに」
「終わるまで帰ることはできない。そういう約束をしたんだ」
「しかし……体のほうがもちませんよ」
「それなら、それまでだ」
アイリーンは毅然として振り返った。
「あの子たちが戦っている。それが終わるまで帰らない。そういう約束だ。――――その前に死ぬのなら、それが運命というものだろう」
伝令神は首を縮めて目を丸くした。
「あなたが運命を語るのですか? 時空蛇の、あなた様が? 」
「おかしくなんてないさ」アイリーンは笑う。
「この未来は、もう違うところへ転がり始めているんだから」
アイリーンは考える。
なぜ、時空蛇は、自分の予言に絶望したのだろう。どうして未来を変えようとは思わなかったのだろう、と。
アイリーンは考える。
きっとそれは、時空蛇には未来を変えようと思うだけの理由がなかったからだ。
だから思いもつかなかった。
未来を変えてもいいのだということに。
アイリーンは考える。
この世でいちばん大切なものと、その未来について。
「……なあ、わくわくする話をしてやろう」
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