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桜前線此処にあり  作者: 祀木 楓
第17章 江戸へ ― 和泉橋医学所 ―
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試行錯誤


 あてがわれた部屋は、屯所での部屋と比べると、手狭で質素なものだった。


 だが


 相部屋が一般的な中で、私にこうして一人部屋を与えて下さった事に、素直に感謝した。



「こちらの部屋をお使い下さい。何か不都合があれば気兼ねなく申し付けて下さいね?」


「あの……ありがとうございます。お名前を伺ってもよろしいですか? あ、私は桜と申します」


「桜サン……ですね? 私は伊之助と申します。私は廊下でお待ちしておりますので、仕度が整いましたらお声掛け下さい」


 伊之助サンは丁寧に言うと、廊下に出た。


 手早く着替え、仕度を整える。






「お待たせしました」


 私が廊下に出ると、伊之助サンが目を丸くする。


「それ……は?」


「伊之助サン? えっと……如何しましたか?」


「いえ、何とも……可愛らしい装いでしたもので……あっ。すみません! 見慣れない装いに少々戸惑っただけです!!」



 伊之助サンは慌てて言い直した。



「これは白衣と言って、医術をする際に女性が身に付ける物です。着物ですと動きにくいので……変、ですか?」


「いえ、いえ。とても良くお似合いです! ただ、女性の医者を見たことがなかったもので……取り乱してしまい、申し訳ありません」



 平然を装いながらも顔を赤らめる伊之助サンが可愛らしく見えた。



「さて、松本先生もお待ちの事でしょう。研究室にご案内致します」







 医学所の中は、想像していたよりも広かった。


 中庭を抜け、屋敷の奥まった所にその研究室はあった。



「失礼します。桜サンをお連れしました」


「あぁ……伊之助か? 入りなさい」



 中に入ると、松本先生は私の教科書を読みふけっていた。



「この医学書だがね……実に興味深い!」


「先生、その医学書は何ですか?」



 伊之助サンは教科書に目を留めると、松本先生に尋ねた。



「これはね、桜サンの私物だよ。とても貴重な物だ。伊之助も見てみると良い」


「それでは、失礼します」



 伊之助サンは一冊手に取り、ページをめくる。



「これ……は?」


「伊之助が驚くのも無理はない。これはこの世では手には入らぬ代物だ」


「この世では……とは?」


「先の世、つまり未来からの代物という事だよ。おっと……これは、私と一番弟子である伊之助だけの秘密だ。他言はするなよ?」



 松本先生は悪戯っぽく言った。



「御言葉ですが、先生……少々お戯れが過ぎます。蘭学などの諸外国の物、と言うのでしたら理解はできます……ですが!」


「柔軟な考えを持たぬ者に、医学の発展という偉業は成し得ない!」



 耳を疑う様な話に戸惑う伊之助サンに向かって、松本先生はキッパリと言い放った。



「伊之助……よく見てごらん。形は違えど、これは全て日の本の言葉で書かれているだろう? それに、この数字は西洋暦だ。だが、その数はどう見ても未来を示している。賢いお前なら理解できると思ったが……それは私の勘違いだったか?」



 松本先生の言葉に、伊之助サンは小さく深呼吸をした。



「いえ……まだ些か混乱してはいますが、そう説明頂き改めて見ると……やはり、先生のおっしゃる通りなのでしょう」


「分かってくれるか!流石は私の一番弟子だな」



 松本先生は満足そうな表情で言った。






「さて……何から始めようか? 労咳の薬……いや、それとも麻酔薬か? うーん。待てよ? 和苦珍が先か……」



 松本先生は、頭を悩ませる。



「そうですねぇ……私としては、ワクチンや血清から取り掛かりたいです。麻酔薬でしたら材料さえ揃えばすぐにでも作れます。それに……少しであれば、こうして持ち歩いていますし」



 松本先生の目の前に小瓶を差し出した。



「そうか、そうか。では、和苦珍作りから始めようか。何が良いかは、桜サンに任せよう!」



 松本先生は小瓶を受け取ると、そう言った。




「では……破傷風から、というのは如何ですか? 戦場での傷は破傷風の感染に直結します。このワクチンと、治療に必要な血清というものを作りたいと思います」


「よし! わかった。さて……破傷風とは何が原因で起こるのか。まずはそこからだな」



 私は教科書を開くと、一つ一つ丁寧に説明した。



「まずは破傷風菌の培養が必要ですね。ところで、先生。ここに白金はありますか? それと、培養するにあたって培地が必要になります」



 培地というのは、菌を増殖させる為に使用するもので、菌の種類によって様々な種類の培地の中から、その菌に最も適した物を選択し使用する。



「白金は……と。これで良いかな?」


「ありがとうございます。えーっと、嫌気性菌だと固形培地の方がやりやすいかなぁ?」



 そう呟くと、教科書にある培地の作り方を見ながら、血液寒天培地を作り始めた。



 血液寒天培地というのは、養分が豊富なので菌が良く生える。



 培地を作るその姿は、まるで料理でもしているかのようだ。



 私が培地を作っている間に、伊之助サンに頼み庭の土を色々な場所から少しずつ持ってきてもらった。



 それを顕微鏡にかける。



 この時代の顕微鏡は、現代の顕微鏡のような見やすさはなかったが、それでもあるだけマシだった。



「居た、居た!」



 太鼓のバチ状の菌を見付けると、白金を炎で熱して冷ました物で菌を取る。



 すかさず培地に擦り付けると、すぐに密閉した。



「あとは、菌が増殖するのを待ちましょう」



 次に取りかかるのは、ホルマリン作りだった。



 ホルマリンは、破傷風菌を無毒化しワクチンとする際に不可欠な物で、メタノールという物質からできるホルムアルデヒドを40%の濃度にした水溶液だ。



 ここまで終わると、私たちは休憩をとった。



 まだ途中ではあるが、私は確かな遣り甲斐を感じていた。



「それにしても素晴らしい!」



 松本先生はそう呟くと、再び教科書を読み始めた。



 気付けば、伊之助サンも教科書に目を通している。




「医学や世の中を発展させているのは……桜サンのように、先の世から来た者……なのかもしれませんね」




 伊之助サンは、不意にそう呟いた。




 その一言に、ふと考える。




 私がこの時代に来た事と同様に……他にも私のように未来から過去へと飛ばされ、その時代の何かを発展させている者が居るのかもしれない。




 この時初めて、そう思ったのであった。












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