医学所
私が向かっているのは、和泉橋医学所だ。
これは元々、種痘所として開かれたものであった。
種痘所というのは、天然痘の予防を行っていた所であり、今でいう予防接種のようなものだ。
その後は西洋医学所となり、今では名前を医学所と変え、医者の育成を行っている。
それは現代にも受け継がれており、驚くべき事に、東京大学医学部付属病院の前身である。
「此処が医学所だ。お前、一人で本当に大丈夫か?」
土方サンは心配そうに尋ねた。
「容保様を通して、お話しして頂いてあるので大丈夫ですよ。それより、土方サン……無事に戻ってきて下さいね? お迎えに来て頂かないと困ります」
「わかっている。お前も頑張れよ」
そう言うと、私たちはここで別れた。
門をくぐると、医者の卵達が右に左にとせわしなく走り回っている。
そのうちの一人を捕まえ用件を伝えると、此処で少し待つよう言われた。
しばらくすると、一人の男性が近付いてきた。
「お待たせ致しました。頭取がお待ちです。こちらへどうぞ」
男性のあとを追うように、医学所内へ入る。
女である私が珍しいのか……すれ違う人々の視線が痛い。
「こちらになります」
案内された部屋に入る。
「頭取、客人をお連れしました。後程、お茶をお持ちします」
案内してくれた男性は部屋を去っていった。
「はるばる京から良く来たね。さぁ、座りなさい」
頭取と呼ばれた男性は笑顔で出迎える。
「話は聞いているよ。私はこの医学所の頭取、松本良順だ。それにしても……京にはこれ程までに美しい医者が居るとはね。しかも、まだほんの娘さんではないか」
松本先生は目を細めて言った。
「新選組の医療を担当しております、蓮見桜と申します。この度は我が儘をお聞き入れ頂き、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
「いやいや、よしてくれ。そう畏まらなくて良い。会津候より話は伺っているが……なんでも、珍しい物をお持ちだそうだね? さて、此度の目的は何かな?」
容保様から何を聞いているのかは分からなかったが、与えられている時間も少ない。
私は手っ取り早く目的を説明することにした。
「目的は……予防接種です」
「予防接種……とは?」
松本先生は眉をひそめる。
「この医学所、元は種痘所だったと伺っております。種痘は理にかなった予防方法です。なので、まずは私に種痘を行って頂きたい事。それから……」
「それから?」
「天然痘以外の病……例えば麻疹や破傷風など、それらを予防する薬剤を作るお力添えをお願いしたいのです」
松本先生は少し考えるような素振りをする。
「それが、貴女の言う予防接種というものですか?」
「……はい」
松本先生は突然笑い出した。
「会津候の言う通り、確かに面白い娘さんだ!」
「この時代の皆さんには……絵空事のように思えるかもしれません。ですが……私は本気です! 病を治すことは勿論大切です。しかし、予防する事が第一であると私は考えます」
松本先生は私の真剣な表情に何かを悟った様子で、小さく呼吸をすると静かに言った。
「それほどまでに強い信念があるということは……その予防接種とやらに、何か策でもあるのですか?」
「あります」
私はキッパリと言い切る。
持参していた四冊の教科書を取り出し、その中から予防接種に関連した部分を開いて松本先生に見せた。
「こちらを御覧下さい」
「失礼」
松本先生は、教科書を手に取るなり驚いた様な表情をする。
「これを……何処で?」
「容保様からは何も伺っては居ませんか?」
「会津候からは、面白い医者が居るから少し面倒をみてやってほしいと言われただけですよ」
「そうですか……。信じられないような話かと思いますが……聞いて頂けますか?」
「……聞きましょう」
私は松本先生に全てを話した。
この時代に来たいきさつと、新選組にお世話になってからの事……それと、長州藩邸での事。
松本先生は、総司サンの話や所サンと作った麻酔薬の話の部分では、特に興味深そうに耳を傾けてくれていた。
「そう……ですか。なんだか夢を見ているようだ。だが、この医学書……実に興味深い。ここに載っている数字、これは西洋暦だね? しかも……その殆どが未来を示している。これは一体……」
「予防接種のワクチンをどうしても作りたいんです! 作り方が記載されていても、私個人ではその材料や機材を得る事ができません。どうか……お力添え下さい」
私は再び頭を下げた。
「和苦珍……か」
松本先生は、私が言った言葉を漢字にして書き留める。
「苦しみを和ませる……珍しい物。どうだ? 良い名前ではないか!」
松本先生は目を輝かせる。
「早速取り掛かろう! 今までの死病が、明日には治る病になるやもしれん!!」
松本先生は弟子の一人を呼びつけ、私に部屋を与えるよう伝える。
「さて、これから大忙しですよ。貴女も仕度を整えたらすぐに、私の所に来てください」
松本先生に軽く会釈すると、お弟子さんに連れられて、部屋に向かった。
期待感から、鼓動が高鳴るのを感じていた。




