分離
あの晩の宴以来、伊東サンが私に声を掛けて来る事は一度もなかった。
私の御陵衛士への入隊に対して、あれだけ自信あり気だっただけに、何の交渉も無いなんて……なんだか奇妙で仕方が無い。
慶応3年1月9日
新たな天皇が即位する。
そう、いわゆる明治天皇だ。
1月18日より九州へと遊説に出掛けていた伊東サンは、3月12日に屯所へと戻ってきたのだが……そのお土産というのが、新選組を揺るがす様なとんでもないものだった。
3月13日
この日、ついにその「お土産」が明らかになる。
それは、夕餉後の事だった。
「俺は、これから近藤サンの部屋に行ってくる。何だか知らねぇが、伊東サンが俺らに話があるんだとよ」
トシは面倒臭そうに言った。
「伊東サン……が? 一体、何の話……なんだろうね」
話の内容など一つしか無い事は分かりきって居たが、それを知っているという事を悟られないよう、私はわざと尋ねた。
「さぁな。だが……あの人の事だ。どうせまた、遊説での胡散臭い話をさも自慢げに話したいだけだろうよ」
「そっか」
「なに浮かない顔してんだよ。伊東サンの話なんざ適当に切り上げて、すぐに戻るさ。戻ったら相手してやっから、そんな寂しそうな顔すんな」
「うん……分かった」
どうやらトシは、私の表情を見て勝手に勘違いしているようだ。
満足そうな表情を浮かべると、私の頭をポンと撫で、部屋を出た。
しばらく部屋で待つが、トシが戻って来る気配は無い。
何だかんだで、もう深夜だ。
戻りを待とうと思っていたのだが、日中の隊務による疲れからか、強い睡魔が私を襲う。
「……くら。おい……桜!」
聞き覚えのある声に、私は重い目蓋を開ける。
「あ、トシ! 私……寝ちゃってたんだね。トシが戻る前に寝ちゃうなんて……ごめんなさい」
「いや、良いんだ。俺の方こそ、起こしちまって悪かったな」
トシは何だか浮かない顔をしている。
きっと、話の内容は……離隊の件だったのだろう。
「そういえば、伊東サンは何だって?」
「それが……だな。近々、伊東サンらは新選組を抜ける事となった。今日呼ばれたのは、その話だったわけだ」
「そっか……」
「驚かないんだな」
「伊東サンの離隊は……私が知る史実の一つだもん。御陵衞士……でしょう? それに、トシは斎藤サンを間者として潜入させるのよね?」
私の言葉に、トシは目を丸くさせた。
「その通りだ。あの野郎……九州遊説ついでに、その胡散臭い名をちゃっかり拝命して来やがった」
「やっぱり……新選組から分離するのね?」
「まぁ、そういうこったな」
トシは深い溜め息を一つつく。
「それで……私を起こしたからには、話はそれだけでは無いんでしょう?」
私は静かに尋ねた。
普段であれば、いくら自分が遅くに帰宅しようとも、私を起こす事は無い。
トシがわざわざ私を起こすと言う事は、余程の話があるのだろう。
「実はだな……伊東サンが、平助と斎藤……それに、お前を連れて行きたがっている」
「わ……私!?」
伊東サンが私でなく、トシに交渉していた事にはさすがに驚いた。
「そりゃあ、お前も嫌だよな……」
「トシは……私に、どうして欲しい?」
何か策がありそうな表情をしているトシに、私は尋ねる。
「お前に関しては……まぁ、女だからな。屯所からの通いでも良いと言っていた。あの人は、お前の医術を欲しているそうだ」
「私の医術……ねぇ」
きっと、そんなモノは建前だ。
何か裏があるに違いない……そう感じた。
「本音を言っても良いか?」
「う……うん」
私は小さく返事した。
「これは、願っても無い好機だと思っている。円満な離隊などと体の良い事を言っていたが……俺ぁ、あの男の話など、ハナっから何一つ信用しちゃいねぇからな」
トシは眉間にシワを寄せる。
「お前に間者の様な真似はさせたくはねぇが……お前が納得してくれるなら、御陵衞士に潜入してもらいてぇ。お前が新選組に情報を流すだろうとあちらに思わせておけば、斉藤に対して疑惑の念を抱くものは居ねぇはずだ」
「つまり、私に疑惑の目を向けさせておけば、斉藤サンがその影に隠れるから信用されやすいって事ね? 確かに、二人も間者が居るとは思わないだろうし……有効な策かもしれないね」
「その通りだ。やはり賢い女は良い。お前には辛い役目かもしれねぇが……な。嫌なら断ってくれて良い。俺とて、好きでてめぇの女を道具に使いたくはねえからな」
申し訳なさそうに言うトシにの表情に、私は思い悩む。
伊東サンがあれ程、自信ありげに言っていたのは、こういう事を見越していたからなのだろうか?
今となっては、その真意を知る術は無い。
翌日
決断した事を、トシに話す。
私は、一晩かけて考えをまとめていた。
「あのね、トシ。私……御陵衛士に行くよ。きっと、トシの役に立ってみせる」
伊東サンの目論見通りになってしまった事は、少し悔しかったが……これは仕方のない事。
何故私が御陵衛士行きを決断したかというと、この先に起こるであろう油小路事件。
これに伴い命を落とすはずである平助クンを救いたいからだった。
今の時点では、伊東サンに心酔しきっている平助クンを引き止める事は難しい。
だが、私も御陵衛士に加わり時間を掛ける事で、良い方向に導けるかもしれない。
そう考えたのだ。
塾の方は、私が抜けても問題は無いだろう。
講師も居るし、隊士たちの方もかなり自主的に学ぶようになった。
それに伊東サンは、屯所からの通いでも構わないとさえ言っているそうだ。
だとしたら、これはチャンスだろう。
「そうか……すまねぇな。だが、これだけは忘れるな。あの男……何か企んでやがる。俺の女であるお前を引き抜くという事は、それを意味している。お前を入れりゃあ、御陵衛士の内部事情がこっちに筒抜けになる事は明白だ。そんなモンは馬鹿でも分かる。だからな……あの男の言葉、何が建前で何が本心か……見極めなけりゃあならねぇ」
「解ってる。きっと……何かある事は、間違いないもの」
「それから……斉藤とはあまり親しくするな」
「うん……わかってる」
私が笑顔を向けると、トシは突然私を抱きしめた。
「頼むから、危ねぇ事だけはすんなよ? それと……必ず、毎日ここに戻って来い」
「もちろん……約束する」
それから数日後
平助クンや斎藤サンを含めた伊東一派は、新選組の屯所を出て、御陵衛士の屯所……城安寺へと引っ越して行った。




