小説
夜までの間に、何とか此処を出なければ……
私の運命は……きっと此処で終わってしまうだろう。
こんな日中に誰にも見付からずに、屯所から出る手立てはあるのだろうか?
荷物を抱えると、痛む身体を庇いながら立ち上がった。
そういえば、この荷物……奉行所から私を屯所に連れてきた誰かが、一緒に持ってきてくれたのだろうか。
この中身は無事だろうか。
そう思い立った私は、鞄の中をまさぐる。
鞄の中で手に触れた一冊の本を、おもむろに取り出した。
これは……
あの日、入学式後……桜の木の下で読んでいた歴史小説だった。
この小説は、私の時代で手にいれた物だ。
歴史を歪めた私。
それが……未来にはどう影響を及ぼしているのだろう?
小説の内容は、私が見てきた様に内容も変わっているのだろうか?
屯所を出なければならない事もすっかり忘れ、その場に座り込むと、私は恐る恐るページをめくった。
これは、新選組を題材にした歴史小説。
やはり新選組の皆の始まりは、史実通りだ。
試衛館での日々や、この京に上るまで……全てがそのままだ。
この時期にはまだ、私は居ないのだ。
それは、当然と言えば当然か……
その後は芹沢鴨も暗殺され、その一派も一掃される。
局中法度の名のもとに。
それからの浪士組は新選組の名を賜っているし、会津藩の御預でもある。
池田屋事件が起こり、禁門の変では久坂サンらが命を落とす。
池田屋事件の頃には、既に私も新選組に居たが、それでもこの辺りまでは特には変わりは無い。
池田屋事件の際に誰が怪我をしたとかいう記述は、この小説には元々書かれてはいなかったので、その辺りが若干気になるところではあるが……まぁ良い。
「あ……山南サン……」
私は、切腹する筈だった山南サンを救った。
この小説には確か、山南サンの切腹シーンが描かれていたと思う。
その場面まで、私は一気にページを進めた。
「なんて……事!?」
読みかけだったとはいえ、流山での近藤サンとトシが別れる場面あたりまでは読み終えていたはずだ。
この小説に、山南サンの切腹シーンがあったのは間違いない。
しかし……
いくら探しても、そんなシーンは見当たらなかった。
『翌朝、山南は明里を連れ諸国を旅に出る』
そのシーンの代わりに、そんな一文が紛れていた。
間違いない。
私がした事が、歴史に反映されている。
後世の人々は、私が変えた歴史を……そのまま史実としている。
それは、もはや私が元の時代で知り得た歴史ではなかった。
「じゃ……じゃあ、寺田屋事件……は?」
23日に起こる筈だった寺田屋事件が、21日に起きた。
これも、私が歴史を変えた事に対する歪み……なのだろうか?
しかし、その場には龍馬サンは居らず、そのお蔭で彼が負傷する事も無かった。
だから、私が知る寺田屋事件とは異なる物となっている。
『坂本が薩摩と長州の密約を結んだその夜、伏見奉行所の捕方は寺田屋へと向かっていた』
やはり……これもだ。
『寺田屋に坂本が潜伏しているとの報せを受けての行動であったが、運の良い事に坂本は小松邸にて西郷らと酒宴を開いていたのだ』
私は、一文一文丁寧に読み進める。
『寺田屋をくまなく探したものの坂本は見付からず、捕方は偽の情報であると悟り、寺田屋を後にした』
ここで、一つの疑問が浮かぶ。
これまで、私の存在が全く書かれて居ない。
あの場に私は居たし、奉行所に連れて行かれたのも私だ。
歴史を変えたのも、医学史を変えたのも私……
新選組に女の隊士が居れば、物珍しさから小説の題材にされそうなものなのに……そこに私の名前も存在も無い。
何故……私の存在は無いのだろうか?
「先……先はどうなっているの?」
私はそう思い、ページを先へと進めた。
「変わって……ない」
この後はやはり、油小路での事件や戊辰戦争が起こる。
そして……最後は五稜郭の戦で幕を閉じる。
小説の最後は、トシの死で締め括られている。
この先のおおまかな歴史の流れは、何一つ変わっては居なかった。
不思議な事に、私がこれまで歩んできた歴史にのみ異なる箇所があるのだ。
これは……どういう事なのだろう。
例えば、この先も私が歴史を変えるような事があれば、それに対応して小説の内容……つまり史実も変化していくという事なのだろうか?
「山南サンと……総司サン……は?」
そういえば、私が助けた二人はどうなるのだろう?
先程はパラパラと歴史の流れをおおまかに見ただけだった。
今度は、二人の行く末に着目して読んでみよう。
私は、現時点……つまり、寺田屋事件あたりについて書かれていた章を開く。
「てっきり、逃げ出すかと思っていたが……案外、図太ぇなぁ。暢気に読書たぁ、さすがはお前だな」
顔を上げると、トシが苦笑いを浮かべ立っていた。
すっかり忘れていた……
私、逃げなきゃだったんだ。
気付けば既に、日は傾いていた。
完全に脱け出すタイミングを失ってしまった様だ。
手にしていた小説を静かに閉じると、私は覚悟を決めた。




