締結
『日本をいま一度、せんたく致し申し候』
これは、後世に残る龍馬サンの言葉だ。
洗濯って……一体。
分かり易いようでいて、よく分からない。
なんとも龍馬サンらしい言葉だ……と私は思う。
慶応2年、1月21日
この日、日本の流れが大きく変わる出来事が起こる。
薩長同盟の締結だ。
この出来事が無ければきっと、私が住む時代や世の中は訪れなかっただろう。
「どうして貴女が此処に? 萩で高杉と共に居たはずでは……」
木戸サンは訝しげな表情で尋ねた。
「今は、龍馬サンの護衛ですから!」
本来、小松邸に……大切な密約の締結の場に私が居るなど、許されるはずは無い。
しかし、ここはそう言い切った。
「まぁ……私は構いませんけどね。そもそも、貴女の後押しで私はこの京に居るのですから」
木戸サンは私の素性も知っている。
だから、まだ寛容な部分もある。
問題は、初対面の薩摩勢……か。
「坂本さぁ、こん娘は誰じゃっとな?」
二人組の男が部屋に入ってくる。
「おぉ! 西郷サン、久しいのぉ。この娘か? こりゃあ……わしの医者じゃ」
「坂本さんは、どっか体が悪りのじゃっとな?」
「最近、ちくっと調子が良くのぉて……すまんが、こん医者も念のため同席させちょってつかぁさい」
龍馬サンはそう言って、わざわざ頼み込んでくれた。
「そげな事でしたら、仕方があいもはん。じゃっどん、木戸さんはそいで良かのじゃっとな?」
「私は構いませんよ。そもそも彼女とは既知の間柄、何ら問題もありません」
西郷サンの言葉に、木戸サンは笑顔で答えた。
「じゃっどかい、そいなあば良かのじゃっどん……」
木戸さんがそう言うならばそれで良いと口では言ってはいるものの、西郷サンの笑顔は何だか嘘くさかった。
ここまでの経緯を簡単に整理すると……
私たちが京に辿り着くよりも前に、木戸サンは京へ入っていた。
1月10日より薩摩藩邸にて会談をしていたそうだが、話は全く進んでいなかった様だ。
そんな私たちが何故、この小松邸に居るのかというと……木戸サンが宿としていたのがこの小松邸だったからだ。
木戸サンが長州へと帰ろうとしたまさにその時、私たちが現れたのだ。
私が何とか木戸サンを説得し、その間に龍馬サンは薩摩藩邸に居る西郷サンと話をし、その上で再度ここにて会談を再開しようという事になった。
「そいでは、早速話を始めもんそか?」
西郷サンの言葉に、皆が頷く。
「その前に、ちくっと話してええかえ?」
龍馬サンは立ち上がる。
「おまんら、皆して考えちょる事が小っさいがじゃ! 長州じゃ、薩摩じゃと……どういて、そんな小っさい枠組みでしか考えられんがぜよ」
「我々の考えは小さい……と? でしたら、貴方はどのような大きな考えをお持ちなのですか?」
木戸サンは龍馬サンに尋ねた。
「おまんらは、自分らぁの利益しか見ちょらん! 日本の事なぞ考えておらんきに。日本ち言う大事の前にゃあ、おまんらの喧嘩なぞ……まっこと小っさいのぉ」
その言葉に、木戸サンは口を紡ぐ。
「おいも……そう思いもす。長州とは色々とあいもしたが、ここで全部を水に流してはもらえもはんか?」
意外な事に、西郷サンが木戸サンに歩み寄る形を見せる。
龍馬サンは、薩摩藩邸で西郷サンと何を話していたのだろうか?
薩摩が歩み寄るようにとでも言ったのだろうか?
西郷サンの言葉に、木戸サンは驚きを隠せないという様な表情を浮かべていた。
「どうやら……桜サンの言う通りに歴史は進んで行くようですね?」
木戸サンは私に視線を移すと、微笑みかける。
私は、そんな木戸サンにそっと目配せした。
「申し訳ありませんが、少し休憩を挟ませて頂けますか?」
西郷サンの隣に居た小松サンが、中断を申し出る。
「私は構いませんよ?」
木戸サンの言葉に、会談は一時中断する。
皆は部屋に運ばれて来たお茶とお茶請けで休憩を取っている。
「お庭に出ても宜しいですか?」
私は小松サンに尋ねた。
「勿論、良かですよ」
了承を得た私は、庭へと出る。
綺麗に手入れが行き届いている庭園は、何だか心が洗われるようだった。
「おはんは医者なとですってね? 私や西郷吉之助と申しもす。お名前を伺っても良かじゃんそか?」
振り返ると西郷サンが立っていた。
「申し遅れました……蓮見桜と申します」
「もぜ娘だ。龍馬さんの好い人じゃっとな?」
「も……もぜ? いえ! 龍馬サンには、おりょうサンという美しい恋人が居ますので……私は、違いますよ」
否定しながらも、もぜとは何なのか……私は気になって仕方が無かった。
「西郷サン、京の娘には薩摩の言葉は通じませんよ? もぜとはね……可愛らしいという意味ですよ」
いつの間にやら、私の隣には小松サンが居た。
「……小松サンは薩摩の言葉を話さないのですね」
「それは……訛っていると、他藩の者との交渉もしにくいでしょう?」
「確かに……そうかもしれませんね。あ! そう言えば、西郷サンは本当に犬好きなのですか?」
西郷隆盛は犬好きだという逸話が気になり、何気なく尋ねてみる。
「桜サン!!」
その瞬間、木戸サンが私に声を掛けた。
「そろそろ此方に戻りなさい。あまりご迷惑を掛けるのは感心しませんねぇ」
「すみません」
木戸サンの言葉に、私はおとなしく室内に戻った。
「薩摩に貴女の素性が知れるのは危険です。此処では言葉に気を付けなさい。でないと、また高杉にどやされてしまいますからね」
木戸サンは、私にこっそり耳打ちした。
その後、会談は淡々と進んでいった。
有名な、薩長密約の6か条
これが本当に存在したという事に、私は思わず感動してしまった。
あくまで密約であったため正式な書状は残されてはおらず、後に木戸サンが龍馬サンへ宛てた手紙が先の世で発見された事により、この条文の存在が後世に知れ渡ったのだ。
だから、それが本当に存在するものなのか、この瞬間を自分の目で見るまでは少しだけ疑っていた。
異なる時代の歴史的瞬間に立ち会えたという、私の喜びは一入だった。
「ほいたら、話はこれで終いじゃ。わしゃあ、帰るかのぉ」
龍馬サンは立ち上がる。
「駄目です!!」
私はつい、龍馬サンを引き留めてしまった。
「どういて? 早ぉ帰らんと、おりょうが待っちょるがじゃ」
龍馬サンは、おりょうサンに会いたくて仕方がないようだ。
「龍馬サン! 私、少し木戸サンと話があるので……待っていて下さいね?」
「わ……私!?」
「そうです! 木戸サン、ちょっとこちらに来てください」
不思議そうな表情を浮かべる木戸サンを、庭の片隅へと無理矢理連れて行った。
「何じゃあ……よう分からんきに」
「で……話とは一体何ですか?」
木戸サンは苦笑いで尋ねる。
「急にすみません。ですが……数日の間は、龍馬サンを寺田屋へ行かせる訳にはいかないんです」
「何か理由があるのですね?」
木戸サンは察しが早くて助かる。
「そうです。この薩長同盟締結後……龍馬サンは寺田屋で、幕府の捕方に襲われます。命には関わりませんが……手に怪我を負うと伝わっているので、心配なんです」
「捕方……ですか。お尋ね者の私たちには、京は住みにくい街ですね……。それで、どうしようと言うのですか?」
「この数日間、こちらで引き止める事は出来ませんか? きっと、おりょうサンが居れば龍馬サンも気が済むはずです。ですから、龍馬サンとおりょうサンをこの小松邸で匿ってもらうんです」
「しかし……数日で大丈夫なのでしょうか」
木戸サンは首をかしげる。
「史実では、寺田屋で伏見奉行所役人に襲われるのが明後日……その後は、おりょうサンと共に薩摩藩邸に匿われ、如月の月も終わる頃、京を発つと伝わっています」
「そうか……でしたら、明々後日までは小松邸で二人を匿い、その後は薩摩藩邸で匿ってもらえるよう手配すれば良いという事ですね?」
理解力のある人は無駄な説明が要らず、本当に助かる。
「そうです……お願いできますか? 寺田屋へは私が行きますので」
「今、坂本サンに倒れられる訳にはいきませんからね……坂本サンと薩摩の二人には私から上手く話しましょう」
「ありがとうございます」
龍馬サンの事は木戸サンに任せ、私は急いで寺田屋へと向かった。




