桜島丸
慶応元年 1865年の11月
それは、長州征伐の命が下された最中の出来事だった。
長州勢にとっての朗報が伝わる。
以前の会食の際に龍馬サンが話していたユニオン号が、下関に就航するとの知らせが数日前に入っていた。
当然、私や晋作も下関へと来ていた。
「また海を眺めているの?」
私は寒さに震えながら晋作に尋ねた。
季節は冬。
この時期の海風は、体に突き刺さる様で本当に辛い。
「まぁな。今日こそは軍艦が来るかもしれねぇ」
下関に着いてからというものの、晋作は毎日こうして海を眺めユニオン号の到着を心待ちにしている。
「お前は宿に戻れ。こんな所に居続けていりゃあ身体に障る」
「それは晋作も同じでしょう? ユニオン号が来ればすぐに報告が来るんだから……此処に居なくても良いと思うんだけど」
「そんな事は解っている。だが……早くこの目で見てみたくてなぁ」
晋作は子供の様に目を輝かせている。
「うー。寒い、寒い、寒い……凍死できるかも」
「そんなに寒ぃなら戻れば良いだろうが」
「晋作が戻らないなら、私も此処に居る」
長時間こんな所に居続ける晋作を何とか暖かい場所へと連れ戻したくて、私はわざとそう言った。
「これを使え」
晋作はそう言うと、自分の羽織を私に掛ける。
「風邪……ひいちゃうよ?」
「長州男児はそんなに柔じゃねぇさ」
いやいや……そういう問題じゃないんですけど!
私は、貴方を屋内に入れたかったから言ったのに……
寒がる作戦は失敗に終わってしまったので、次なる手を考える。
「お腹減ったなぁ……もうすぐ昼餉の時刻だなぁ」
私はわざとらしく呟く。
「腹が減ったなら、木戸と何か食ってこい」
「晋作が行かないなら、行かない! あー、お腹減ったなぁ。私、餓死しちゃうかも……」
「まったく……うるせぇ奴だ。だいたい、お前は浅はかなんだよ。どうせ、俺を屋内に戻したいんだろう? お前の考えなどすぐに分かる」
「だって……晋作ってば下関に来てから毎日、朝から日暮れまでこんな所に突っ立てるんだもん。そりゃあ心配になるよ!」
私は頬を膨らませた。
その時
遥か彼方から、ぼんやりと黒い影が見えた。
「晋作! 来たよ……船、船が来たの!」
その言葉に、晋作は視線を海へと移す。
「桜! 木戸を呼んで来い!」
晋作は興奮気味に叫んだ。
「分かった!!」
私は木戸サンの元へと駆け出した。
「船が着いたというのは本当ですか!?」
木戸サンは息を切らせながら晋作に尋ねた。
「あぁ……見てみろ! あれが俺たちの軍艦だ」
しばらくすると、龍馬サンが船上から手を振る姿が見えた。
「おぉう、待たせたのう! 桜島丸じゃぞう」
龍馬サンは、船上から声の限り叫んでいる。
船が停泊するなり、龍馬サンは急いで下船する。
「いやぁ、既に揃っちょったがかえ? どうじゃ、凄いじゃろう! ユニオン号改め、桜島丸じゃ」
龍馬サンは満面の笑みで言った。
「これは素晴らしい!」
木戸サンは目を輝かせる。
龍馬サンの話によると、この木製蒸気船……全長45メートルで排水量は300トンだそうだ。
大きい事は分かるが、排水量と言われても私にはピンとこない。
「あっ! 晋作、何処に行くの!?」
龍馬サンと木戸サンが軍艦について話をしている最中にも関わらず、晋作は船内へと一人でスタスタと入って行ってしまった。
会話に集中している二人は、全く気付いていない様子だ。
仕方なく、私は晋作の後を追う。
「ねぇ! 勝手な事をしたら怒られるってば」
「長州の船に長州の者が乗って何が悪い? 怒られる筋合いなぞあるまいよ」
堂々と船内を進んでいく晋作。
すれ違う乗組員に頭を下げながら、私は晋作に付いて行った。
晋作の背中だけを見つめ追いかけていた私は、気付けば甲板に出ていた。
屋内から突然海風にさらされ、私はその場に立ち止まり身震いする。
晋作は船の先端まで行くと、振り返った。
「お前もこっちに来てみろ」
身に染みるような冷たい風に耐えながら、晋作の方へと歩みを進めた。
「ここから見る景色は良いモンだな」
晋作は満足そうな表情を浮かべ、呟く。
「船って……こんな風になってるんだね。スゴイなぁ」
「乙丑丸……だ」
「……何それ?」
私は首をかしげ、晋作に尋ねる。
「この船の名前さな」
「えー!? 龍馬サンは桜島丸って言ってたよ?」
「長州の船に、長州のモンが名付けて何が悪い? 長州の俺が名付けたんだ。この船の名は只今より、乙丑丸とする」
「さっきからそればっかり……晋作は強引なんだから」
私は深い溜息を一つついた。
「元来、俺ぁこういう性格だ。最も、お前の事も……強引に手に入れても良いのだが?」
「またそうやって……いっつも、からかうんだから! そんな事を言ったって無駄よ? 晋作はそういう事はしないって、私には分かっているもの」
私の頬に触れる晋作の手を取り、そっと下ろさせる。
「クク……俺も随分と信用されたモンさな」
晋作はクスクスと笑った。
「晋作! 突然居なくなったと思ったら……また勝手な事をして!」
気付けば木戸サンが晋作に向かって叫んでいた。
「長州の船に乗って何が悪い!」
晋作は不敵な笑みを浮かべる。
わざわざ火に油を注ぐような事を言わなければ良いのに……
私は心の中で呟いた。
「それは、まだ長州の船ではありません!!」
「何だと!?」
「正式に条約を結ぶまでは、長州の物とは言えませんよ! 晋作が勝手に乗り込んで良い訳がないでしょう? きちんと受け渡しが済むまでの少しの時間も待てないのですか?」
木戸サンは呆れ顔で言う。
「あぁ! 待てねぇなぁ。文句があるなら、アンタがさっさとコイツの受け渡しの手続きをしてくれりゃあ良いのさ」
「まったく……晋作にはいつも手を焼かされて困りますよ」
「アンタも満更でもねぇんだろう? 俺が居なけりゃ、アンタの人生に面白味が無くなっちまうだろ」
平然とそう言う晋作に、私も木戸サンも溜息をついた。
「何じゃあ、長州のモンは面白いのう。高杉と木戸サンは仲が良くて羨ましいねゃ」
龍馬サンは笑いながらそう言う。
「仲良くなんかありませんよ」
「仲良い訳じゃねぇさ」
同時に同じ言葉を発した二人に、私と龍馬サンはつい笑ってしまった。
その後
薩摩名義で購入したこの軍艦についての取り決め事に対する論争が、幾度となく成されたそうだ。
私には、詳細はよく分からないが、これがまた相当に揉めたようで……
そして
12月14日
長州藩海軍局の中島四郎サンと龍馬サンの間で「桜島丸新条約」というものが締結されたという。
この取り決めにより、ついに桜島丸……いや、乙丑丸は晴れて長州の所有となったそうだ。
そんな朗報が舞い込んできたその夜は、上機嫌な晋作達と共に朝までドンチャン騒ぎをした。
皆、相当嬉しかったのだろう。
こうした中
歴史が進んで行くにつれ……私にも、最終的な決断を下すべき時が刻一刻と迫っていた。
しかし
私がその事を意識し始めるのは、まだ少し先のお話……




