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桜前線此処にあり  作者: 祀木 楓
第23章 長州
142/181

再開



 翌日


 朝早くに目覚めると、所サンが遺した医院を再開させるため、物品の整理を行っていた。


 物品整理が終わり、外に出ると門前や庭の掃除を行う。





「朝早くからご苦労なこったな」


 大きなあくびをしながら、気怠そうに晋作は言った。


「もう起きたんだ? 別にまだ寝ていても良かったのに」


「朝っぱらから物音が頭に響いて敵わねぇ」


 昨夜、酔いつぶれた晋作はそのまま医院に泊まっていた。


 相当飲んでいたので、寝かせておいてあげようと思っていたのだが……どうやら、起こしてしまったらしい。


「だいたい、晋作は飲みすぎなんだよ……毎日あんなに飲んでいたら体を壊すよ?」


「毎日じゃねぇさ。昨日はたまたまだ」


「……だと良いけどね。朝餉、何か作ろうか? と言いたいところだけど、食材が無いんだよねぇ」


 ここは数カ月もの間空き家だった為、買い置きの食材など何も無い。


「何か食いに出かけりゃ良いさ」


「そうやって無駄遣いしてると、将来困るよ?」


「俺らにとっちゃ、将来なんてあって無いようなモンさな」


「もう! そういう暗い事は言わないの! 食材を買いに行きたいから、この街を案内して?」


「……仕方ねぇなぁ。お前がそう言うなら行くしかあるまいよ」


 こうして、私たちは萩の城下町へと向かった。






「ここも賑やかな街なんだねぇ」


 初めて見る萩の街。


 朝早くから、道端にはずらりと商人たちが出店を構え、道行人々に声を掛けていた。


 その中からめぼしい物を見つけ、次々に買い込んでいく。


 買い物も終わり、来た道を引き返そうとした所で、突然誰かに着物の袖を掴まれる。


 思わず振り返ると、十にも満たない男の子が私の袖をしっかりと掴んでいた。


「えっと……どうしたの?」


 私は少年に声を掛ける。


「お姉さん……これ、買ってくれる?」


 そう言って少年が差し出したのは、干した小魚のようだった。


「いりこ……か?」


 晋作は呟く。


「これ……買ってもらえないと困るんだ。薬は買ってやれないけど……病気の母ちゃんに何か食わせてやりたいんだよ」


 少年は今にも泣きだしそうな顔で懇願した。


「……良いよ。いくら?」


「買ってくれるの?」


「その代わり……お母さんの診察をさせて?」


「診察? お姉さん、お医者様なの? でも……うちには父ちゃんも居ないし、そんな大金は無いから……」


 少年は、そう言って俯いた。


「そうねぇ……それなら、こういうのはどう? 貴方が大人になったら、私に代金を払ってくれるの。それまで、私は待つから……これなら出来そうでしょう?」


「本当? お姉さん、ありがとう! いりこは、あげる」


 少年は、大量のいりこを差し出した。


「駄目よ。これはちゃんと買う! 商人が簡単に商品をあげては駄目。お母さんに美味しい物を食べさせてあげたいんでしょう?」


 私は、少年に代金を握らせた。


「本当に……本当にありがとう!」


「君……名前は?」


「寛太! お姉さんは?」


「私は桜、こっちは晋作だよ。私たちは一度医院に戻って支度をしてから行くから、寛太クンはお家で待っていてね?」


 少年の家を確認すると、私たちは医院へと戻って行った。






「お前……随分とお人好しだな」


「そう? きっと、所サンなら……同じ事をしたと思うよ?」


「そう……かもしれねぇな」


 私たちは、顔を見合わせると微笑んだ。


 医院に戻ると簡単に朝餉を摂り、支度を整えた。


「晋作は家に戻るの?」


 医院を出る前に、晋作に尋ねる。


「いや……俺も行こう。土地勘の無いお前一人では、此処まで帰っては来られまい」


「そっか……ありがとう」


 私たちは早速、寛太クンの家へと向かった。







 長屋まで行くと、家の前で寛太クンが私たちを待っていた。


 この時代に来てから、新選組や藩邸など広くて比較的綺麗な良い所でしか生活をした事のない私にとって、庶民の生活の場である長屋は衝撃的だった。


 大通りから少し入った細い路地に面して建てられた平屋建ての建物。


 私たちは、案内されて家に入る。


 玄関を開けるとすぐに土間があり、その先には狭い部屋が一室あるのみだった。


 日当たりの悪いその部屋の真ん中に、寛太クンのお母さんは寝かされていた。


「母ちゃん、お医者様が来てくれたよ!」


 その言葉に、お母さんは起き上がる。


「お医者様? どうしてそんなモンがうちに……」


「お姉さんが、いりこを買ってくれて……母ちゃんが具合が悪いって言ったら、診てくれるってさ」


「寛太、よくお聞き。うちにはお医者様にかかるようなお金は無いんだ。……子供が、勝手に申し訳ありません。ですが、私どもはこのような暮らしぶりです。お医者様に診て頂けるような身分では決してないのです」


 お母さんは深々と頭を下げ、何度も謝った。


「お金は、今は良いんです。お母さんが早く良くなって、寛太クンが大人になったら支払ってもらう約束をしましたから」


「本当にそれで宜しいのですか?」


「勿論です! それに……私、医者という程たいそうな者でもないんですよ。ただ、ほんの少しだけ医術に覚えがあるというだけです。それでも宜しければ、私に診せて頂けますか?」


「宜しくお願いします」


 お母さんは涙を流し、笑顔を作った。


 たいした事は出来ないと言ったのに……それでも泣いて喜ぶ姿を見た私は、この時代の庶民の暮らしぶりに対して心を痛めた。






 さて、このお母さんは一体どんな病に侵されているのだろうか?


 果たして私にどうにかできるような物なのだろうか……今更ながらに不安になる。


「少しお話は出来ますか?」


「ええ……」


「いつ頃から調子が悪いのですか?」


 病の手掛かりを探る為とりあえず、簡単な問診を始める。


「少し前に風邪をもらいましてね。今では熱は下がったのですが……鼻っ風邪が中々治らないのです。鼻が垂れるわ、頭や頬が痛いわ……苦しいわで、どうにも敵いません」


「それ以外には何かありますか?」


「汚い話ですが……その鼻汁というのが悪臭で。こうしていても、その臭いを感じるほどなのです」



 風邪をひいて、熱が下がったのに鼻っ風邪は治らずに、むしろ悪化している……という事か。



「鼻をかんでみて頂けますか?」


「え!? 宜しいんですか? こんな娘さんが、そんな汚れた物を……」


「見ないと分かりませんから」


 そう言うと、お母さんは渋々鼻をかんだ。


 

 膿性鼻漏?



 確かに主訴の通り、臭いがある。


 それに加え、粘り気があり色も濃い。


「少し、頬を触っても良いですか?」


「……はい」


「痛いのは、この辺りですか?」


 目の下辺りに軽く触れる。


「そ……そこです」


 お母さんは顔を歪めた。


「ごめんなさい……もう触れたりはしませんからね」





 私は、頭の中で主訴と症状を整理する。





 まずは風邪を引いた、これが今回の病の始まりのようだ。


 体温は下がったにも関わらず、鼻水と鼻づまりは酷くなり、更にその鼻水は悪臭を放っている。


 また、頬の痛みと頭痛も現れたと言っていた。


 頬部痛……目の下という位置、上顎洞か。


 鼻水は粘り気があり、色も濃い上に悪臭がある……膿性鼻漏だろう。




「風邪による、急性副鼻腔炎の続発……といった所でしょうか?」




 急性副鼻腔炎とは……風邪などをきっかけに、副鼻腔の中の粘膜で菌が繁殖して急性の炎症を起こし、結果として副鼻腔に膿汁が溜まるというものだ。


 副鼻腔というのは頭蓋骨の内部にある4種類の空洞で、鼻腔つまり鼻の穴の中とつながっている。


 今回はその4種類ある内の一つ、上顎洞に膿が溜まったのだろう。


 レントゲンも撮れないので、憶測でしかないのだが……





「何だそりゃ……難しそうな名前だが、大変な病なのか?」


 晋作は不意に尋ねた。


「うーん、大変だけど大変じゃない……かな」


「訳がわかりゃしねぇ……」


「だって、講義でそう教わったんだもん! 早めに治療すれば大丈夫だけど、放っておくと慢性化して大変だって言ってたの」


「まぁ、良い。で……どうやって治すんだ?」





 治療方法か……


 私は少し考える。


 元の時代であれば、抗生物質の投与に加え鎮痛解熱薬を用いる。


 局所的には、洞内薬液の注入やプレッツ置換法という、膿を吸い出す治療法もある。


 現時点でできる事は何だろうか?




「とりあえず、これで様子を見ましょうか」




 私は、長崎の養生所で分けてもらった抗生物質と、自分の常備薬である鎮痛剤のうちアセトアミノフェンを選んで取り出した。


 局所的な処置は、私には出来ない。


 そうなると、抗生物質に頼るしかなかった。


「しばらく通いますから、様子を見させてくださいね」


 抗生物質を投与し鎮痛剤を服用してもらうと、私はそう告げた。


「そこまでして頂いて……何とお礼を申し上げたら良いか……」


 お母さんは涙を流しながら、深々と頭を下げた。




「桜姉ちゃん、本当に……本当に、ありがとう!」




 私を見送る寛太クンは、私の姿が見えなくなるまで、大きな声で何度も何度もそう言っていた。








 医院までの帰り道


 私と晋作は、並んで歩く。


「お前は……凄ぇなぁ。思わず感心しちまった」


「凄くないよ。いつも、これで大丈夫なのかって不安で一杯だし、それで運よく治ってくれてホッとする事の繰り返しだよ。私、毎回思うんだよね……」


「何をだ?」


「医者って凄いなぁって……症状を見ただけで、どんな病気も分かるんだもん。私には出来ないよ……経験値不足を痛感するな」


「ならば、お前も精進するこったな」



 晋作はそう言うと、そっと私の頭を撫でた。



 それから1~2週間程寛太クンのお母さんの元へと通い、お母さんも無事に元気になりホッとした……というのは余談。







 




 




 


 





 





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