鉱山.3
いつの間にか落としていた視線をあげると、山肌にぽっかり空いた穴が見えた。
その穴の近くにいたひとりが、私たちの姿を見て手を挙げる。フォードさんも応えるように片手を挙げた。
総監督は、見知った人だった。
何度もアマンダで見かけたことがあり、大きな体躯から始めは騎士だと思っていたぐらいだ。
身長はフォードさんより少し低いけれど、二の腕はかなり逞しい。今だって半袖が筋肉でパンパンになっている。
「よく来てくれたな。今はほとんどの鉱夫が穴の中だが、昼飯になれば出てくる」
「分かりました。こちらがクッキーです。山の上は涼しいと思っていましたが、照り返しが暑いですね。冷たい飲み物も持ってくればよかったです」
総監督にバスケットを預け、私は額の汗を拭う。
フォードさんもシャツの胸元をパタパタとさせている。
「近くに湧き水があるから、そこに行ってくるといい。あと三十分ぐらいで昼食の時間だ」
「分かりました」
「総監督、それまでちょっとこの辺りを見学してもいいですか? 俺、鉱山は初めてなので、興味があるんです」
フォードさんが首を伸ばし周辺を見回す。
私の目には興味をそそるようなものは見当たらないけれど、フォードさんには何かあるようだ。
「危険なところに行かないのであれば、自由にしてくれ。疲れているだろうから先に湧き水のあたりで昼食にすればいい。あそこはここより幾分か涼しいからな」
「ではそうさせてもらう」
馬に括りつけたバスケットは全部でふたつあり、残りのひとつには私たちの昼食が入っている。
それを手に、ひとまず湧き水が出る場所へと向かう。
湧き水と言われ、岩の隙間からちょろちょろと出る清水を想像していたけれど、そこは小さな泉のようになっていた。
透き通っていて底まで見える水は、小川へと繋がり山肌を滑り落ちていく。
それを手で掬い喉を潤す私の横で、フォードさんは豪快に顔を洗っていた。
「冷たくて気持ちがいい」
そう言って、ポケットに手を入れたところで動きを止める。
「しまった、タオルを忘れてきた」
「それなら、バスケットに入っています」
タオルを取り出し、それをフォードさんの顔へ持っていく。
ほとんど無意識に顔を拭いてあげると、フォードさんがカチリと固まってしまった。
「どうしましたか?」
「それは、無意識なのか?」
少し赤い頬で呟くと、フォードさんは私の手からタオルを取り上げる。
「……自分で拭ける」
「! そうでしたね。申し訳ありません」
ぱっと手を引っ込めた私は、フォードさん以上に真っ赤になっているだろう。
「じ、実は最近、裏の井戸で子供たちが水浴びをするんです。それで拭いてあげるのが当たり前になっていて……すみません」
きゃっきゃっと賑やかな声につられるように裏庭に行くと、水を入れた盥を子供たちが取り囲み、思い思いに水を頭から被っていた。
母親が傍にいる子供もいれば、いない子供もいて。夏とはいえ濡れたままではいかがなものかと、身体を拭いてあげているのだ。
「そうだったのか」
「はい。たまに十代の男の子も来て、髪をびしょびしょにして笑っています」
王都に比べれば過ごしやすい気温だけれど、この土地で育った人には充分暑く感じるらしい。
騎士も顔を洗ったり濡らしたりしてると話せば、フォードさんはちょっと不機嫌そうに眉根を寄せた。
「もしかして、そいつらの髪も拭いたりしていないよな?」
「あぁ、そういえば、この前ディン様が髪を濡らしていたので、拭いてあげました」
子供の髪を拭いてあげていると、いつもの軽い調子で「俺も」と言ってきた。
ふざけているのに便乗するように拭いてあげると、「いいねぇ、でもフォードに言ったら殴られるな」と笑っていたっけ。
たまたま居合わせたジゼルさんが「レティシアに言いつけてやろう」と笑うと、ディンさんは本気で焦っていた。
「なんだか楽しそうだな」
思い出し笑いをしていた私を、フォードさんがじとりと見る。
そして、タオルを私に突き返してきた。
「……もしかして拭いて欲しいのですか」
「そう、だな」
そこでフォードさんはくるりと私に背を向けた。
でも、髪から覗く耳が赤く染まっている。
これはなんだか――可愛い。
タオルで髪を包むと、指先に柔らかな黒髪が触れる。見た目よりふわりとした髪は、否応なしに私の鼓動をうるさくしていく。
呼吸が速くならないように気を付け、そっと手を動かせば、フォードさんはされるがままになっていた。
いつもは紳士然としているフォードさんが、今日は少々甘い気がする。
こんな思わせぶりな態度を取られ、平然としていられるほど私は恋愛慣れしていない。
もしかして、という期待が浮かび、慌ててそれを消すも、鼓動は速くなるばかりだ。
「誰かに髪を拭かれるというのは、存外気持ちのいいものだな」
「そうなのですか? 痛かったらおっしゃってくださいね」
「いいや、心地よくて眠ってしまいそうだ」
「ふふ、ここは木陰になっていて涼しいですものね」
頂上に木々はほとんどなかったけれど、この辺りだけは少し生えている。
さわさわという音が心地よいと耳を澄ませていると、そこに不協和音を加えるがごとく、私のお腹がぐぅ、と鳴った。
「……クッ、クク」
「あの、我慢しなくていいですから。いっそうこと笑ってくれたほうがいいです」
「ははは、せっかくいい雰囲気になったと思ったのに、どうしてここで腹が鳴るかな」
すみません。でも、いい雰囲気とは? 眠りそうな雰囲気と捉えていいのかしら。
「髪はもういい。この陽気だ、あとは自然に乾くだろう。それより昼食にしよう」
笑いながらバスケットを開けたフォードさんだったけれど、その手がぴたりと止まった。
もしかしてこの陽気で食べ物が傷んだのかと、慌ててバスケットを覗くと、サンドイッチと一緒に入れた包みにフォードさんの視線が釘付けになっている。
「あっ、これはフォードさんにと作ったクッキーです。食後にどうぞ」
はい、と渡すと、フォードさんは切れ長の目をぱちりとさせたあと、相好を崩した。
「良かった。実はさっき、ルーシャがバスケットごと総監督に渡していただろう。俺の分はないのかと思っていたんだ」
「そうだったんですね。フォードさんの分はお昼を食べるときに渡そうと、こっちのバスケットに入れていたんです」
言いながら、サンドイッチと一緒に入れてきたカップを取り出す。水筒にはお水を入れてきたけれど、多分湧き水のほうが冷たくて美味しい。
フォードさんは大切そうにクッキーを横に置くと、サンドイッチに手を伸ばす。
私もひとつ手にとり、口にした。
中に挟んだレタスはシャキッとしていて、トマトの酸味が美味しい。一緒に挟んだハムは料理長お手製のものを分けてもらった。
マスタードはレティシアさんからの差し入れだ。彼女は料理が得意らしく、時々、多く作ったからとお裾分けをしてくれる。
「このジャム、うまいな」
「それは私が作ったブルーベリーのジャムです。お店のジャムは私が担当しているんですよ」
「そうだったのか。もうすっかりこの街に慣れたようだな」
「はい。フォードさんはどうですか?」
私の問いにフォードさんはサンドイッチを口から離すと、暫く宙を睨む。
てっきりすぐに「慣れた」と答えると思っていただけに、意外だ。
「生活には慣れたし、このままここに腰を据えてもと考えている。だが、それと同時に、これでいいのかと悩むこともある」
明るかった顔に陰りが差す。
どんな事情か分からないけれど、彼が抱えているものは私より重たいのかもしれない。
そう思ったからだろう、気づけば言葉が口を衝いて出ていた。
「私にできることはありませんか?」
「えっ?」
フォードさんが驚いたように目を丸くする。
その顔を見て、自分が失言をしたと気づいた。
「すみません。騎士をされている貴族に、私なんかが助けられることはないですよね。忘れてください」
図々しく何を言っているのだろうと、顔が赤くなる。
身分も何もかも捨ててここにいる私に、できることはほとんどない。
恥ずかしさから俯いてしまった私の頬に、フォードさんの手が触れる。
促されるように顔をあげると、いつもより熱の籠った視線とぶつかった。
「いや、ルーシャがそう言ってくれて嬉しい」
真剣な声音に、どうしていいかと視線が泳ぐ。
これは、もしかして私の勘違いではないのかもしれない。
そんな淡い期待が胸に浮かんだときだ、木々の向こうからガタガタと大きな音がした。
まるで荷物が崩れたようなその音に、私とフォードさんが目を合わせる。
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