辺境の街.2
斜め掛けの鞄を手にすると、窓の戸締りをしっかりして階段を下りる。
勢いよく開けた扉の前では、フォードさんがちょっと困り顔で待ってくれていた。
「お待たせしました。あれ、馬は?」
「裏の井戸の傍にある木に、手綱を括りつけてきた」
「そうですか」
と言いながら、数歩歩いて私はあっと口を開けフォードさんを見上げた。
「もしかして、馬で行こうと思っていました?」
「あぁ。でも、買い物して荷物が増えることを考えると、辻馬車のほうがいいだろう」
「すみません! 気づかずに」
「いや、気にしないでくれ。俺と一緒に馬に乗るのが嫌なのかと思ったが、そうではないようでほっとした」
最後の言葉は小さくて聞き取れなかった。うん? と首を傾げる私に、フォードさんはそろそろ時間だと懐中時計を見せる。
ちょっと急ぎ足で辻馬車乗り場に行き、無事に乗車できた私たちは並ぶように腰を掛けた。
数ヶ所の停留所で停まったのち辿り着いたのは、赤い屋根の家が多い街だった。
ベルサートは王都とよく似た街並みだったが、このあたりは隣国の影響を強く受けているように見える。
物珍し気にきょろきょろしていたせいか、フォードさんが苦笑いで聞いてきた。
「こういう雰囲気の街は初めてのようだな」
「はい。フォードさんもベルサートは初めてだと聞きましたが、ここには以前に来られたことがあるのですか?」
街を歩く足取りがしっかりとしていた。方角や目的地を分かっているように思える。
「各地を回ったことがあるから、多少は。ただ、さっと見ただけだから、土地勘はない。実は昨晩ディンに地図を借りて、頭に叩き込んだ」
頭をひと差し指で叩きながら笑うフォードさんに、すれ違った女性がくらりと眩暈を起こす。ある意味、美丈夫の笑顔は凶器だ。
「さっと見ただけ、ですか。まるで視察のようですね」
「あーそうだな。ところで、まずは何を買おうか?」
街の北側に陶器、服飾品は南にあるらしい。防寒着はかさ張るので、まずは食器から選びたいと言えば、こちらだと先に立って歩き始めた。
古いレンガ道を歩いていくと、小さなお店が軒を連ねる場所に出た。
工房と軒続きになっているお店も多く、人が多くて活気がある。
どのお店に入ればいいのかと迷っていると、呼び込みをしていた小柄な女性に手招きされ、フォードさんと目を合わせる。
これも何かの縁だろう、と二人で笑い、そのお店に入ることにした。
店内は、木目が綺麗な棚が壁を埋め尽くし、中央には大きなテーブルが置かれていた。
右手の棚にはお皿が、奥にはカップ、左にはグラスが並んでいる。中央のテーブルは季節の品らしく、鍋や深皿、それから雪の結晶を模した柄が描かれた平皿やカップが並んでいる。
「カップが欲しいと言っていたな」
「はい。紅茶カップより大きく、両手のひらにすっぽり収まるぐらいのものを探しています」
平民がほとんどのベルサートで、紅茶の葉は扱っていない。
アマンダさんが言うには、冬はヤギのミルクに蜂蜜を垂らしたものをよく飲むそうだ。
あとは白湯。ミントが自生している場所があるから、ミントティーを飲む日もあるとか。
カップは、淡いピンクや黄色、ブルー、花や葉を描いたものと種類が多く、驚いていると、呼び込みをしていた女性があれこれ手に取り勧めてくれた。
「この辺りは寒いからね。夜は暖炉の前で、お気に入りのマグカップでヤギのミルクを飲むのが楽しみなんだよ」
「そうなのですか」
家の中で過ごす時間が長いから、見た目にも楽しい色や柄が好まれると教えてくれた。
私の部屋に暖炉はないけれど、小さな薪ストーブがある。
ベッドの横にはふかふかのラグが敷かれていて、そこに直接座り、ベッドを背もたれにして薪ストーブの赤い炎を眺めていると、不安な心が少し落ち着いてくる。
女性は「ゆっくり見てね」と言って立ち去っていった。
フォードさんは棚にさっと目を走らせると、シンプルなグレーのカップを選び、私に断りを入れるとグラスが並ぶ棚へと向かう。
私はといえば。
何を選んでよいのか分からない。
服も、靴も、本も、すべて与えられるものを、できるだけ長持ちするように丁寧に使っていた。
服は汚れたら洗い、破れたら縫う。それが当たり前の私は、目の前にずらりと並ぶカップに圧倒されるばかりで、指一本動かせない。
「どうした? 気に入ったものがないのか?」
早々に戻ってきたフォードさんの手には、十センチほどのガラス製のグラスがある。ほどよい厚みで下の方に細工が入ったグラスは、骨ばった手にしっくりくる。
「フォードさんは、自分に合ったものを選ぶのが得意なんですね」
「? いや、適当に選んだだけだが……。決められないのか?」
「はい。これだけあると、何が正解か分からないのです」
「正解、不正解があるようなことではないと思うが……」
フォードさんは、手にしていたカップとグラスを棚の端に置くと、私の隣に並んで腕組みした。
「好きな色は?」
「ありません」
「好きな柄は?」
「特に……」
「持ち手のデザインや、質感は?」
「……」
無言になってしまった私は、気まずくて俯く。
フォードさんは暫く宙を睨んだあとで「いつもどうやって決めているんだ?」と至極当然の質問をしてきた。
「服は妹のおさがり、下着や靴は……義母が半年に一度用意してくれました」
本当は使用人の手によって扉の前に置かれていたのだが、それを言っては貴族だとバレる。
「いつも同じデザインでしたから、下着があれほどデザイン豊富だとは知りませんでした」
脳裏に浮かぶのは、洗濯婦が持っていた洗濯盥。
宿や食堂、娼館が多いあの場所では、洗濯物を一手に引き受ける洗濯婦という仕事がある。井戸で洗濯しているのを何度か見かけたが、ピンクに赤、黄色、青と色鮮やかな下着が盥の中に押し込まれていた。
「でもどうして全部透けているのでしょう。中にもう一枚下着を重ねるのでしょうか?」
「……すまない、その疑問はジゼルにでもしてくれ」
「あっ、失礼しました」
私のちょっと大きな独り言に、フォードさんが顔を手で覆う。なんて会話をしているんだと、私の顔も赤くなる。
「そ、それで。自分で品を選んだことがないので、どうしていいか分からなくて」
「そうか。それなら俺が決めてもいいのだが……いい機会だし、時間がかかってもいいからルーシャ自身で選んでみないか?」
「アドバイスもなしですか?」
「なしだ」
結構スパルタだな。
とりあえず端から端までもう一度見て、暫く考えたあともう一度棚の前を往復する。
それを何度か繰り返し、ピンクの花柄のカップと、蔦模様が飲み口に描かれたオレンジのカップ、水色地に雲の模様のカップを選んだ。
「ここまで絞りました」
「おぉ、上出来だ。ではどれにする?」
三択。みっつからどれかを選ぶだけなのに、なかなか決断できない。
これかな、と思うもこっちの方がいいかもと何度もカップを持ち替えて、私はやっとのことでオレンジのカップを選んだ。
「薪ストーブの中に揺れるオレンジの炎を見ていると、ざわめいていた心が落ち着くのです」
「それはちょっと分かる気がする」
しみじみとした口調に、フォードさんも何か悩みを抱えているのかな、と思う。
私の場合は、これから先の生活がどうなるか白紙状態だし、いつ王都から手配書が届いても不思議ではない。騎士がいないもっと田舎へ行こうかと考えもしたが、そうなると次は仕事が見つかるか確証がない。
ただ、絶対に王都へ戻りたくなかった。
見つかったら命がないのもあるけれど、自由に生きるのがこれほど心を伸びやかにするとは思わなかった。
息が楽に吸える。嫌味や虐めに身を強張らせることもなければ、いつ打たれるのかとびくびくする必要もない。
ナルやビオラに会えないのは悲しいけれど、私は初めて自分のために生きているように感じていた。




