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妖之剣  作者: アーチ
7/20

7 疑念の渦

「……来ないな」

「……来ないわね」

「来ないねぇ……」


 明久、初音、篝の三人は、居間でお茶を飲みながらそう呟いた。

 篝を手中に収めたあの日から、もう二週間近くも経っていた。


「話が違うぞ、篝。三本目……確か夜月だったか? そいつはすぐに来るはずじゃなかったのか?」

「う……そ、そう思っていたけど……」


 普段の勝気な顔が珍しく曇り、彼女はそのままお茶を一息に飲みほした。


「ふぅ……お茶、おいしいわね。おかわりもらえる?」

「露骨に話を濁さないでくれ」

「……そ、そんなに焦らなくても、夜月は来るわよ」

「……いつ?」

「……ち、近いうちに!」


 はぁ、と明久は溜息をついた。この近いうちに、という言葉はこの数日中に何度も聞いていたのだ。


「まさか、お前たち見捨てられたのか?」

「なっ……! 夜月がそんなことするわけないじゃない!」

「そうだよっ、夜月ちゃんは私たちを見捨てたりしないもん」


 思わずついて出た明久の言葉を、篝と初音は思いのほか強く否定する。その剣幕に明久はほんの少し狼狽えてしまった。

「わかったわかった、冷蔵庫にアイスがあるから、それでも食べて落ち着け」


「アイス!」


 初音が目の色を変えて立ち上がり、篝の手を強く引っ張った。


「アイス取りに行こうよ篝ちゃん!」

「いたたっ、ちょっとそんなに引っ張らないでよっ!」


 あわただしく居間から出ていく二人を見届けてから、明久は息をついた。

 一週間ほど前、気まぐれでアイスを買い与えてみたところ、その味がたいそう気に入ったらしく今では冷蔵庫に常備していないとうるさいほどだった。

 初音も篝も、その見た目通り事あるごとに喜怒哀楽を変える多感な少女である。損ねた機嫌をアイス一つで直してもらえるのなら安いものだ。


 ほどなくしてアイスを二本持った初音たちが戻ってきた。初音はさも当然のように明久の右隣に座ってきた。肩が触れ合う程その距離は近い。


「はい、お兄ちゃんの分」


 初音は、その手に持ったアイスを一つ差し出してくる。


「……俺の分まで持ってきたのか?」

「うん、皆で食べた方が美味しいでしょ?」


 初音はけったくのない笑みをしてそう言った。

 明久は差し出されたアイスを受け取る。


「しっかり味わって食べることね」

「……これを買ったのは俺だぞ?」


 篝は明久の左隣に腰かけながら、なぜか上からの物言いをする。


「お前たち、近すぎないか? 少し暑い……」


 九月の半ばを過ぎ穏やかな気候になってきたが、こうして両隣を挟まれるとさすがに暑苦しい。


「暑いならアイスを食べたらいいじゃない」


 篝にもっともらしいことを言われて、明久は素直にアイスを頬張った。

 ソーダ味の安価なアイスではあるが、心地よい冷たさに爽やかで程よい甘みが口に広がる。

 こうしてアイスを食べるなど、いつ以来だろうか。ふとそんな考えを抱いた。


 確か二年前、まだ学生だったころは帰りがけに糖分が欲しくて思わず買っていたような記憶がある。

 あの時は毎日が楽しかったような気がする。と明久は物思いにふけった。

 部活をしていた記憶があった。いったい何の部活だっただろうか。確か陸上部だったはずだ……炎天下の中何度も走り、喉がカラカラに乾いていたのは覚えている。


 友達もそれなりにいたはずだ。彼らの顔は、おぼろげだが確かに覚えている。今でも名前を言えるはずだ。

 恋をしていたような記憶もある。確か隣の席に座るおとなしい女子だっただろうか。ろくに話もしていないのにどこか心惹かれてしまっていたのは、きっとその年頃の患いのようなものなのだろう。


 そう、明久は普通の学生だった。笹雪家という退魔の家系に生まれながらも、平凡な人生を送っていた。

 それはきっと、両親の配慮だったのだろう。今の世の中、退魔などという家柄は次第次第に廃れていくのが定め。明久には当主を継いで血生臭い決闘に明け暮れるよりも、ごく平凡な人生を送って欲しかったのかもしれない。


 もう父も母もこの世にはいない。彼らが本当はどう考えていたのかは、明久には分からないことだった。

 しばし明久は追想に心を割いた。思いだす光景一つ一つが、どこか新鮮だった。

 だが、家族を失って天涯孤独の身になった今では、その記憶がどこか寝る前に描く空想のように遠い。


 この記憶は本当なのだろうか。自分の記憶でありながら、リアリティというものが感じられない。

 明久にとっての現実とは、その手に刀を持ち、退魔と言う裏の世界で半妖たちと斬り合うことだった。

 わずか二キロ程度の刀の重み。それを我が手のように振るい、数分にも満たない生き死にの斬り合い。それがこの二年間明久が生きた世界である。


 死ぬかもしれないと思ったことは何度もあった。死を自覚した時のあの奈落の底に沈んでいくような恐怖と不安は、思い出すだけで身の毛もよだつ。

 だが、一刀を握ればその感覚はどこか鈍くなっていき、心の中に穴が開いたように感情が流れ落ちていく。

 それは、まるで自分が人間ではなくなっていくような感覚だった。


「明久、溶けてる溶けてる!」


 耳元で篝の大きい声を聞いて、明久ははっとした。

 物思いにふけるあまり、アイスを食べることすら忘れていたようだ。溶けだしたアイスが手を伝っていた。

 慌てて解けるアイスを平らげたが、手には解けたアイスが結構ついていた。べたついていて、少し不快に感じる。


「はぁ、なにやってるのよ、どんくさいんだから」


 呆れたように言いながら、篝はティッシュで明久の手を拭っていく。


「すまない」


 自分でできる、と言いかけて、明久はそのまま篝にされるがままにした。

 彼女たちと日々を過ごすうちに、自分が変わっていくような気がしていた。剣客として刀を振るえばそれでいいと思って鈍くなっていた脳が、活発に働きだしているような感じだ。

 今自分は変わりつつあるのか、それとも一刀を握って生きる以前の自分に戻ろうとしているのだろうか。明久にはどちらか分からなかった。


 ただ、一つ思うことがあった。思考を鈍くして考えないようにしていた、一つの疑念。それが時折、明久の心の中から湧き上がってくる。


 ――倉本豊後。彼は、本当に……信用できる人物なのか?


 それは、いつか昔に封じた疑念。倉本に初めて会った時の印象を明久は思い出していた。

 老獪な人物だ、とはっきりそう思ったのは覚えている。信用できる人物なのだろうかと疑問に思ったこともあった。

 しかし彼の世話になるにつれ、その疑念は解消されたのだと思っていた。


 事実彼には良くしてもらっていた。今日まで退魔の剣客としてやってこれたのは、彼のおかげであるだろうと明久は感じていた。

 なのに、消えたと思っていた疑念は心の奥底に封じ込めていただけだった。

 かつての自分は、余程倉本のことを信用していなかったらしいと明久は思った。

 なぜなのかは自分にも分からない。だから、明久は自分の疑念に戸惑うばかりだった。


「ん……?」


 玄関を叩く音が聞こえて、明久はらちの明かない煩悶をやめ立ち上がる。


「二人とも、静かにしていろ」


 明久はそう二人に言い聞かせて、突然やってきた来客を迎えにいった。


「……矢上か。どうした、いきなり」

「ああ、通りがけついでにな」


 訪ねて来たのは、普段倉本の付き人をしている矢上宗一だった。彼は半妖でありながら、倉本の信頼が特に厚い側近である。


 倉本家は半妖の監視を主に担当する家で、半妖側の意見も取り入れるという形で彼ら半妖の家の者たちが推薦する代表を側近にしていた。本来それは、見せかけだけの平等な立場であるというアピールにすぎない。

 だが矢上は若年でありながら余程有能であるらしく、倉本家と半妖の家系の綱渡しを見事にやってのけていた。


 半妖でありながら倉本家に近い人物として、他家筋からは良い目で見られていない彼だが、その働きに文句をつけられるものはいない。

 彼が倉本の側近になってから半妖による犯罪はかなり減っているという事実もあり、退魔や半妖筋の者は倉本や矢上の多大な世話にあっていると言っても過言ではない。


 明久としても、間接的に矢上の働きぶりの世話になっている形になる。なにせ明久の仕事は犯罪にはしる半妖を実力行使で制するというもの。当然明久が相手取るのは殺人も戸惑わない凶悪な半妖たちだ。矢上によってそんな凶行にはしる半妖が少なくなっていけば、明久が無駄に命をかける割合も減る。

 当然明久の仕事も減る形になるのだが、その穴埋めなどどうにでもなる。連日連夜死闘を続けるよりは大分良いといえた。


「あれからしばらくたったが、首尾はどうだ?」

「……見ないうちにお前、倉本様の口にでもなったのか?」

「からかうな、明久。別に倉本様に様子を見に行けと指示された訳ではない」


 矢上は無表情から一変、苦笑した。その顔にはどこか、明久に対する気安さがあらわれている。


「妖刀を三振りも取り戻してこいと無理難題を言われたんだ、今頃泣きを見ているころかと心配して見に来てやったんだよ」

「そういうのは余計なお世話というんだ」


 明久と矢上は、明久が笹雪家当主となってからの付き合いだった。当時からすでに倉本の側近だった矢上は、突然家族を失い退魔の剣客として生きることを余儀なくされた明久のことを不憫に思ったのか、個人的に相談に乗ったりしていたのだ。


 矢上は今年で二十歳になる。明久とは二つ違いだが、当時十六で当主となった明久の心労やこれからの苦労に察する所があったのだろう。

 矢上も今の地位になってから気苦労が多いと明久は聞いている。当時は若さのせいで矢上のことをおせっかいが過ぎると疎ましく思ったものだが、今では彼に深く感謝していた。

 年や立場が違うが、彼らは親友とも言える間柄だった。


「それで、実際のところ首尾はどうなのだ? 一振りはすぐ取り戻したと聞いているが……」

「……まだ集めたのは二振りだけだ」

 矢上は感心するような顔をして明久の目を見た。

「いや、驚いた。そうか、もう二振りも手に入れたか」

「やけに驚くな」

「当然だ。倉本家に長く保管してあった最上級の妖刀三振りだぞ? 聞くところによると、そこらの妖刀よりもかなりものが違うらしいからな」

「だろうな」


 明久は実感のこもった頷きを返した。


「そうか、お前は妖刀二振りを奪い返したのだから、その質の違いとやらを肌で感じたのか」


 奪い返したという言葉を聞いて、明久は少し眉をひそめた。

 明久のその表情の変化に気づかなかったのか、矢上はどこか興奮したように続けた。


「退魔の本家筋がお前の働きを知ったら、きっと笹雪家のことを見直すだろう。彼らは上からものを言うだけで、実際命をかけているお前のことを軽んじすぎなのだ」

「体勢批判はらしくないな」

「批判ではない。事実を言っただけだ」


 憮然とする明久を見て、矢上はどこかいたずらな目をした。


「なあ明久……今回の事件、お前はどう思っている?」

「どう、とは?」

「だから、どこかきな臭いと思わないか? 倉本家が厳重に保管していた妖刀三振りが、何者かに盗まれるなど」

「……」

「ここだけの話、俺はな、これが倉本様の策謀ではないかと思うのだ」

「どういうことだ?」


 思わず明久は強く聞き返した。心の奥底に秘めた倉本に対する疑念が一気に湧き上がるようだった。


「おそらく倉本様は、お前の……いや、笹雪家の地位をあげようとしているのだ」

「……なに?」

「つまりだ、倉本様はもともと妖刀を狙う者がいるという情報を掴んでいて、それを利用したのだ。本来なら警備を固くして盗まれないように努めるが、あえて警備を甘くして盗ませた」


 矢上が言おうとしていることが、だんだん明久にも理解できた。

 それは倉本に疑念を持つ明久には少々肩すかしな内容だった。


「後はお前が盗まれた妖刀を取り戻す。妖刀を盗まれたのはたしかに失態だが、無事妖刀が戻れば倉本様にそれ以上のお咎めはないはずだ。そして、妖刀三振りを取り戻した笹雪明久、お前の名が退魔筋の中であがる」


 いつもの無表情が珍しく笑みを絶やさないものだから、自然明久も聞き入っていた。


「するとどうなる? 今倉本様お抱えの剣客のお前に、きっと本家筋からの依頼も舞い込んでくるだろうな。お前の実力なら、それらをこなすうちに退魔の中で盤石な信頼を築ける」

「買いかぶりすぎだ」

「事実を言ってるまでだ」


 世事なのか本気なのか、矢上はひょうひょうと笑った。


「まあうまみがあるのはお前だけではない。お前にこれまで目をかけていたのは倉本様なのだから、お前が退魔の中で信頼を得ることができたら、倉本様の人を見る目が一目置かれ評価もあがるのさ」

「……」

「どうだ、お前はどう思う?」


 明久は少し考える様に目を伏せて、矢上を見た。


「もし真相がお前の話の通りだとしたら……俺の責任は重大だな」

「それもそうだな」


 矢上が声をあげて笑った。


「お前が妖刀を取り戻すことができなかったら、倉本様はそれなりの罰を受けるだろうしな。まあ、笑いごとにはならない」

「なら、笑いながら言うなよ」

「俺にはそれほど関係ないことだからな」


 ふざけているのか、矢上はとぼけるように言った。


「俺は何があっても倉本様についていくだけさ」


 だが続く言葉には重い実感がこもっていた。


「倉本さまはお前に目をかけているように、実際現場で命を張っている者を高く評価している。俺に対してもそうだ。半妖でありながら退魔に与する俺などにも良くしてくれる。良くできた人だよ、あの人は」


 矢上は余程倉本を信頼しているらしい。倉本に疑念を持つ明久は、そんな矢上の目を見ていられず、視線を逸らした。


「おっと、立ち話がすぎたな」

「……いや、面白い話だった」

「おいおい、本気にはするなよ?」


 矢上が少し困ったように頭をかいた。


「さっきのは全部、俺の妄想さ。今回のことに裏があるなら、きっとこうだろうと思っただけのこと。実際、倉本様は不覚をとっただけなのかもしれん」


 言って、矢上は少し物憂げな顔になった。


「まあなんだ。お前、あまり無理はするなよ。剣を執って生きるなど、今の時代本来ありえないことなんだからな」

「分かっているとも」

「もしお前が退魔の剣客を引退してサラリーマンにでもなるとしても、俺は応援するつもりだ」


 いたずらっぽく言い捨てて矢上はすぐに立ち去った。ごく自然な所作だったため、別れをいう機を明久が逃がしたほどだ。

 矢上を遠目から見送り、明久は玄関を閉めた。


「ずいぶん長い話だったわね」


 居間に向かおうとした時、廊下にいた篝と出くわした。


「盗み聞きか?」

「違うわよ! なんか楽しそうに話してたからちょっと見に来ただけ!」


 なぜか篝は拗ねたように顔を背けた。彼女の心が明久にはよく分からなかった。


「今の話、聞いてたか?」

「別に、聞こうと思ってた訳じゃ……」

「いや、怒ってる訳じゃない。もし聞いてたら、どう思ったか聞こうと思ってな」

「……」


 どことなく篝の視線が険しくなる。


「……一つだけ言っておくわ。倉本豊後に心を許さないことね」


 当然、その付き人にも。そう言って篝は居間まで駆けていった。


 ――どういうことだ? いったい俺は何に巻き込まれている?


 己自身の考え、矢上の考え、そして初音と篝の言葉。それらが一つも繋がりはしない。

 明久はしばらく、沸き起こる疑念の中に立ち尽くしていた。

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